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古代の廃道!東山道武蔵野路【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(18)

結局は廃道となった路です。7世紀に律令制が確立され「五畿七道」の官道が整備されました。東京都国分寺市で発掘された「東山道武蔵野路」は8世紀には間道に格下げされ11世紀までには廃道化した古道です。
東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)
国分寺市泉町2丁目の東山道武蔵野路跡は発掘された後に埋めなおされ約300メートルの歩道になっています。遺構の位置が色分けされ地面に表示されています。側溝があった部分は黄色で示されています。
東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)
北へ行くと近年に作られた道を直線的に貫いて遺構があった場所が路面に示されています。その先に遺構平面レプリカがあります。想像以上に凸凹で道には見えません。東山道武蔵野路が幅12mの直線道路だったのは第二期まででした。

第一期:幅12mの直線的な典型的な前期駅路
第二期:第一期の側溝が埋没後に側溝を再度掘削。硬化面のみ残っていた。
第三期:第一期道路の内側に作られた幅9m弱の道路。
    第一期道路に比べ北に向かい東側にずれていく路。
第四期:幅7.5mの道路で北に向かい第三期の路よりさらに東へずれていく。
東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)
遺構平面レプリカからさらに北へ行くと遺構跡を示すものはなくなりJR中央本線の向こうに恋ヶ窪の谷戸が見えます。第二期までの道はこの谷を一直線に貫いていたことになります。

尚、第三期以降は道はここより東側に作られていました。
東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)
東山道武蔵野路ができた時期は所沢の「東の上遺跡」の調査から650~675年頃と言われています。武蔵国分寺ができたのは750年代末から760年代初頭と考えられています。

その頃が一番活性化された時期でしょう。それから僅か10年後の771年に東山道武蔵野路は官道から間道へ格下げになっています。
東山道武蔵野路跡-002
【真っ直ぐな東山道武蔵野路と跡がわかる場所(赤)】

完成当初の武蔵国は東山道沿いの国とみなされていました。東山道は近江、美濃、信濃、上野、下野、陸奥、出羽(山形と秋田の一部)まで伸びたていた官道でした。

しかし、771年に利便性のより高い東海道沿いの国とみなされたことにより武蔵野路は衰退の道を辿ることになりました。律令制の衰えも伴い平安時代末期の11世紀までには廃道になったと考えれています。

古代の廃道とはどこかロマンがあります。

1000年以上残るものと残らないものを研究していると次のことがわかってきます。

①人々のニーズがあり続けるものか?
②衰退しても中興の祖が現れるものか?
③無理、無駄、ムラがないか(シンプルであるか)?
④保存、修繕が続けられるほどニーズがあるものか?

東山道武蔵野路は完成以前から微妙な立ち位置でした。武蔵野国は東海道沿いの国であったほうが利便性が高いものの東山道沿いの国になったところから無理があります。

また、谷間を無視した直線道路はメンテし続けるには無理があります。官道だったことで人が集まっていましたが間道化されてからはニーズがなくなり衰退したと考えれます。

また近くには地形を考えられ作られたより便利な道もあり衰退後に新たにメンテナンスをしたり埋没後に再建される必要性もなかった考えられます。

廃道化する条件がそろっています。

国分寺崖線と遺跡群のフィールドワークは大変有意義でした。まだ行っていないところも多く次の計画を立てています。

ほいじゃ
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