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武蔵国分寺と周辺~その1【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(16)

フィールドワークを行う際に近い距離に見所が多くあるとコースが設定し易いものです。武蔵国分寺跡周辺はビューポイントが集中しています。歩けばすぐに何かがあり散策には持って来いの場所です。
武蔵国分寺-001
【拡大できます。】
日没が近づき辺りは薄暗くなって来ました。低い光量が歴史の重さを演出します。国分寺崖線の下と上の広大な土地にまたがった武蔵国分寺跡と焼失後に建てられた建物が重複している地区を歩いています。
武蔵国分寺 楼門(国分寺市)
間口6.2m、奥行き3.7mの国分寺楼門は武蔵国分寺前の不自然な位置にあります。それもそのはず明治28年(1895)に東久留米(東京都)の米津寺から移築されたものです。江戸時代の建築様式を見る事ができます。
武蔵国分寺(国分寺市)
武蔵国分寺は鎌倉時代の終焉に登場する舞台です。新田義貞率いる反幕府軍は分倍河原の戦い(1333年)で時の権力者北条高時の弟である泰家率いる幕府軍に一度敗れ敗走する際に武蔵国分寺を焼き払ったとされています。

分倍河原は立川崖線の下に広がる多摩川の氾濫原です。多摩川は幕府軍が死守したい自然の要害でした。

翌日に反幕府軍が再び攻め込み今度は圧勝します。幕府軍は鎌倉までの退却を余儀なくされました。反幕府軍は丘陵に囲まれた要塞都市鎌倉を攻めあぐねましたが最終的に稲村ヶ崎から攻め入り鎌倉時代は終焉を迎えます。
仁王門(国分寺市)
武蔵国分寺の墓地を抜けると参道があります。参道の途中に宝暦年間(1751~1764)に建てられた仁王門があります。材料には建武2年(1335)に新田義貞が再興した薬師堂の古材が使われています。
薬師堂の参道(国分寺市)
武蔵国分寺を焼失に至らせた新田義貞は分倍河原の戦いの2年後に国分寺金堂跡に国分寺薬師堂を建立するために寄進しています。現在の薬師堂は参道を上にあります。これは宝暦年間に場所を変え再建されたものです。
北院跡(国分寺市)
参道の途中で怪しげな石を見付けました。「北院跡」と刻まれています。北院とは武蔵国分寺の北側にあった建物です。武蔵国分寺が崖線の下にあったのに対して北院は崖線を登り切ったところにあります。

今は草ぼうぼうの平地ですが古の武蔵国分寺が広大な土地を有していたことを認識できます。
堂の坂(国分寺市)
「真姿の池」を過ぎてから暗くなり始めたため興味深い場所をいくつもスルーして来ました。「武蔵国分寺」では野川の支流である「元町用水路」の源流の一つを見逃しました。

国分寺薬師堂の参道とは別に国分寺崖線を湾曲しながら登る坂もスルーしました。

この坂をネットを調べると「堂の坂」と書いてあります。水平距離約130m、高低差約11.5mの坂でパミールに変換すると88.5と歩きなら比較的緩やかな坂です。

次のフィールドワークでは見逃した部分を散策したいものです。次は国分寺薬師堂と八幡神社、そして遺跡を紹介します。

つづく…ほいじゃ
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