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恋ヶ窪の昨今~姿見の池、恋ヶ窪用水、武蔵野路【国分寺フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(6)

まさかこの何げない谷にこれだけの歴史があるとは…。東京都国分寺市の恋ヶ窪地区にある「国分寺姿見の池緑地保全地域」です。「恋ヶ窪用水(恋ヶ窪村分水)」、「姿見の池」がある所です。

明暦3年(1657年)に玉川上水から灌漑用に引かれた水路でした。
恋ヶ窪用水 東山道武蔵野路跡(国分寺市)
高度成長期の昭和40年代に「恋ヶ窪用水」は暗渠化され「姿見の池」は埋立てられました。平成10年に「国分寺姿見の池緑地保全地域」として用水と池が復元されています。

バブル後に我に返った日本人は自らの手で壊した自然を取り返そうとしています。対極的な存在が日立製作所中央研究所です。昭和17年以来、一企業により武蔵野の自然は大事にされて来ました。
迅速測図 国分寺
迅速測図を確認すると明治時代は典型的な谷戸の風景であった様です。窪地は田んぼとして利用され明暦3年(1657年)に玉川上水から引かれた恋ヶ窪村分水が田の南縁を流れていました。

しかし、「姿見の池」は見当たりません。江戸時代より前は今よりも大きな池だった場所の様です。谷戸は洪水による逆流で土砂が塞いでしまい水が溜まっていた様です。
姿見の池(東京都国分寺市)
その後、上流からの土砂の流入で池は縮小し沼地化していったと推測されます。谷が狭くなる西武国分寺線あたりで水が止められていたとも推測できます。自然の一級スリバチだった可能性があります。

「姿見の池」の由来は次の様です。恋ヶ窪は鎌倉街道沿いの宿場町でした。遊郭があり遊女はこの池に姿を映していたという言い伝えから生まれました。
姿見の池(東京都国分寺市)
恋ヶ窪伝説は平安末期まで遡ります。源頼朝に仕えた畠山重忠は鎌倉街道の恋ヶ窪宿で遊女の夙妻太夫 (あさづまたゆう)と出会い二人は深く恋に落ちます。畠山重忠が出陣している間に仲を裂こうとした男が出来ます。

「戦死した」と嘘を伝えると夙妻太夫は悲しみ「姿見の池」で入水自殺します。地域の人は哀れに思い手厚く葬り墓印に松を植えました。すると珍しい「一葉松(ひとはまつ)」が生えてきました。
恋ヶ窪用水 再現(東京都国分寺市)
現在は「一葉松(ひとはまつ)」は枯れ東福寺に枝を植継いだ数本が植えられています。ひとつ分からないのは畠山重忠が戦場から戻り事実を知った後に建てた無量山道成寺がどこかです。近くには東福寺があるくらいです。
東山道武蔵野路跡恋ヶ窪地区(東京都国分寺市)
奈良時代には恋ヶ窪の谷戸を横切る様に東山道武蔵野路が通っていました。東山道は律令制時代に曳かれた「五畿七道」という都から各地へ続く古代の幹線道路です。特徴は直線的な道であったことです。

幅は12mある広い道は谷や台地があろうが真っ直ぐに作られています。政権の力を示すには十分過ぎるインフラ整備だったのでしょう。都から続くこの道は恋ヶ窪の南にある国府(現在の府中)へつながっていました。
国分寺恋ヶ窪-001
宅地化された街並みと再現された自然が現在の恋ヶ窪でした。昭和40年代に「姿見の池」が埋められた理由のひとつは湧水の低下でした。急激な都市化で地下水が減少したためとされています。

ところが、1991年に隣の小平市で武蔵野線新小平駅が大量の地下水で水没して数ヶ月も使えなかったことがありました。また、武蔵野線トンネル横の西恋ヶ窪三丁目でも地下水が湧き出て住宅が床下浸水しました。

実際は豊富な地下水が存在したということです。

平成12年にこれらの地下水を「姿見の池」及び「野川」へ導水することに国分寺市、東京都、JR東日本が合意しました。平成14年までに工事を完了させました。

これにより池と用水路の水量を増すことになり現在の清らかな流れがあります。

奈良時代、鎌倉時代、江戸時代、明治時代、現代の恋ヶ窪を紹介しました。人の営みがずっとあったエリアです。当然ながら先土器時代の遺跡も付近から出土しています。

現代人は恋ヶ窪をどのような形で次の時代に引き継ぐのでしょうか?

行政が高度成長期に失われた地下水の保全にも乗り出しています。一度は失われた自然は少しずつ復活して来ていてる様です。

つづく…ほいじゃ
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