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平塚神社と人の営み【東十条・王子・駒込フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(24)

イチョウとケヤキの参道が印象的な境内です。東京都北区にある平塚神社の秋です。上野から赤羽まで続く崖線上にある神社です。古代、中世、近世の東京史の重要な場所です。
平塚神社(北区)
奈良時代から平安時代までは郡衙(古代律令制時代の地方役所)があったとされ今も発掘作業が続いています。平安時代末期に領主の豊島太郎近義(ちかよし)が平塚城を作った場所でもあります。

平安時代中期の文明10年(1478年)に江戸城を作ったことで知られる太田道灌(1432~1486)が平塚城を攻め落城させます。
滝野川公園と平塚神社-001
地形図を起こすとなるほどと思える立地です。平塚神社がある所は台地の鼻になっており低地帯に睨みを利かすには最適な場所です。標高は23台で崖線下の低地は標高4m台と落差は20m弱あります。

また、平塚の由来が分かると地形の改変があった可能性も見えて来ます。
平塚神社(北区)
この場所は鎧塚と呼ばれた場所でもあります。平安時代に源義家が後三年の役で奥州遠征の途中で逗留地にした場所です。源義家は領主の豊島近義に感謝し鎧と十一面観音を与えました。

源義家の死後に鎮護のため豊島近義は鎧を埋めて平たい塚を築きました。その上に社(やしろ)を立て義家三兄弟の像を安置しました。これが平塚の由来です。
平塚神社(北区)
江戸時代には平塚明神と呼ばれていました。一旦は荒廃した社は江戸時代初期に再興されています。山川城官貞久(やまかわじょうかんさだひさ)という針医が三代将軍家光公の病の治癒を平塚明神で祈願しました。

家光公は回復し貞久は平塚明神に感謝をして自らの資金で社殿と城官寺を再築し土地も買い上げ寄進します。これを知った家光公は感激し250石の知行地を与え内50石を平塚明神に寄進させました。
滝野川公園と平塚神社明治43
明治43年頃の陸地測量部の地図によると平塚神社の横には戦前に獣疫調査所がありました。戦後は家畜衛生研究所となり現在は国の西ヶ原研修合同庁舎(仮名)の建設予定地になっています。
平塚神社(北区)
建設前の埋蔵文化財調査が行われ発掘の真っ最中です。隣接する滝野川公園は先土器時代から近代までの複合遺跡が出る御殿山遺跡だけあり何かが出て来てもおかしくありません。
平塚神社(北区)
平塚神社の横から発掘現場を臨むと古そうなコンクリートの建物が目に止まりました。最近では平成25年3月4日に発掘現場から旧日本軍の8センチ高射砲弾が見付かり同年6月4日に自衛隊が爆弾処理を行なわれました。

京浜東北線の中十条駅の真裏という事もあり話題になったことを記憶しています。

平塚神社単体でなく滝野川公園を一体として考えると先土器時代から現代に至るまで人の営みがあり続けた場所と称することができます。

つづく…ほいじゃ
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