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前橋城史(前編)【水が奏でる前橋の魅力を発見しよう!(前橋市+東京スリバチ学会)】⑬

日本で最後に築城されたのは前橋城です。当時の最新鋭の城ながら僅か4年という短命でした。明治維新前夜の1867年(慶応3年)に完成した幕府側の城ゆえの運命でした。

前橋市と東京スリバチ学会が開催した「水が奏でる前橋の魅力を発見しよう!」で数少ない前橋城跡を周りました。
前橋城跡(前橋市)
前橋城を偲ぶ場所は数か所しか残っていません。土塁、車橋門です。本丸の土塁跡に「前橋城跡の碑」はありました。かつては土塁上に砲台が設置さていました。

1866年に造られた五稜郭と共通点する点です。ちなみに前橋公園に残る土塁にも砲台があった古い図面から分かりました。
前橋城
前橋城(厩橋城)は暴れ川坂東太郎(利根川)に翻弄された歴史でした。記録にある氾濫や川欠けをリストアップしました。常に浸食のリスクに脅かされた城でした。

応永年間(1394-1427年)
天文8年(1539年)
天文12年(1543年)

最初の厩橋城(石倉城とも言わる)は利根川の氾濫により本丸と二ノ丸を流されました。三ノ丸があった場所に新たに築城されました。

赤城山沿いを流れていた利根川は天文年間(1533~1555年)までに流路を完全に西に移しました。その後も浸食に苦しめられました。

寛保2年(1742年)大洪水(利根川改修申請)
寛延元年(1748年)川欠け(三ノ丸移転)
宝暦6年(1756年)氾濫による水害
宝暦11年(1761年)氾濫による水害

現在、本丸跡と言われる群馬庁舎は最後の前橋城のものでした。江戸時代中期以前の本丸は利根川に浸食されて今や流域となっています。
前橋城と現在(カシミール3D)
前橋城の歴史は曖昧な点が多くソースにより名前、解釈、年代がまちまちでした。まずは無難そうな共通点だけをリストアップしました。戦国時代の厩橋城争奪戦は激しかった事が分かりました。

・築城は15世紀末
・初代城主は固山宗賢(法名)
・1551~1552年 後北条氏の勢力圏になる。
・1560年 長尾景虎(上杉謙信)が攻略。
     長野賢忠が城主。
     景虎は厩橋城で越年。
・1563~1567年 後北条・武田連合軍とが攻略。
     当時の城主は上杉家家来の北条高広。
     1581年まで後北条、武田、上杉の奪い合い。
・1582年 織田軍が武田群を滅ぼし攻略。滝川一益が城主。
     本能寺の変。
     神流川の合戦で勝利した後北条が奪え返す。
・1590年 小田原討伐軍の浅井長政が攻略。
     徳川家康が関東入封。平岩親吉が城主。
・1601年 酒井重忠が入封。
・1617年 場内外の整備。三層三階の天守閣。
・1649年 厩橋城から前橋城に改名。
前橋城跡(前橋市)
定かでない点を含めると初代城主の固山宗賢(法名)は長野左衛門尉方業(さえもんのじょうまさなり)という人物だったとされています。

厩橋城は長野氏の築城とされています。

現在は高崎市の箕輪城城主だった人物で厩橋城は出城だったという説があります。呼び名も当初は石倉城だったという話もあります。

1563年から1590年までは後北条、武田、上杉の勢力争い渦中にあり奪い合いが続きました。年代や経緯がソースによりまちまちなので省略します。

ここまで調べ最も印象的だった事は群馬県(上野国)独自の戦国武将が存在しないことでした。

武田氏(山梨)、上杉氏又は長尾氏(新潟)、後北条氏(神奈川)、真田氏(長野)の勢力争い渦中にあり強豪ぞろいの中で生き残れなかったのでしょう。

戦国の世が終わり江戸時代に入ると政治は安定しました。しかし、利根川の氾濫と浸食は続き、ついに前橋城は廃城に追い込まれることに…。

つづく…ほいじゃ
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