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風呂川土手とスリバチ地形【水が奏でる前橋の魅力を発見しよう!(前橋市+東京スリバチ学会)】⑪

まるで時が止まった様でした。群馬県前橋市の窪地にある「るなぱあく」にはどこか懐かしい昔ながらの遊園地の風景がありました。

前橋市と東京スリバチ学会が開催した「水が奏でる前橋の魅力を発見しよう!」で一行はここで休憩しました。
風呂川(前橋市)
風呂川の土手に懐かしさを感じました。少年時代によく遊んだ玉川上水に似ています。木々に囲まれ閑静な土の道がすぐ横の賑わいから隔絶した世界感を作っていました。
るなぱあく(前橋市)
「るなぱあく」は1954年(昭和29年)に「前橋市中央児童遊園」として開園しました。もくば館にある5台の電動木馬は1954年製と古く国の登録有形文化財に指定されています。
電動木馬 るなぱあく(前橋市)
日本一安い遊園地として旅行雑誌「じゃらん」に取り上げられました。2006年(平成18年)からNPO法人波宜亭倶楽部が、2009年からNPO法人まやばしが管理と運営を行っています。
臨江閣とるなぱーくと風呂川(前橋市)
【「るなぱあく」は図の中央に】

「るなぱあく」は風呂川の土手と臨江閣横の道路に囲まれた1級スリバチ地形でした。窪地の最も低い所で標高103m台、土手の108m台です。蓋をする様に通された道路は107m台です。

土手はその不自然な形状から人工的に作られた事が地図上からも分かります。想像の中で消して地図を眺めました。古い利根川の右岸が浮かび上がります。

微高地の境が南東に伸びています。古い利根川の流路の右岸が浮かび上がります。同じく右岸だったとされる馬場川沿いにもつながります。
風呂川(前橋市)
風呂川が作られた時代は利根川が現在の流路に変わった16世紀頃、戦国時代だった考えられます。上杉謙信(1530~1578)も名前の由来の一説に登場します。

謙信が水を引かせ風呂に入ったという話です。

また、風呂川は厩橋城の防備、防火のために、城下町の生活用水のために使われたと考えられています。敵の攻撃対象になる事を妨ぐため「風呂」と言う関係ない名前を付けたという説もあります。

風呂川ができる過程は古い利根川の流路に残った河道を利用し先に広瀬川が整備されました。その後、広瀬川から分水して風呂川が作られたと考えられています。
風呂川(前橋市)
落ちたら命を奪われる「人とり川」と呼ばれていました。「るなぱあく」より上流に「柳原の土手」があります。土手の土質は砂礫ですが、水路は厚さ90㎝の粘土で樋(とい)にコーティングしてありました。

急流であり滑り易いため落ちたらの命を奪われる危険な場所でした。

「るなぱあく」沿いの土手に不思議なブロック塀が目に止まりました。裏手にある源英寺の境目でしょうか。真相は分かりません。
風呂川(前橋市)
土手へ来るのに源英寺の横を歩いて来ました。平らな所が多い前橋市街地としては異例の微高低差がある場所でした。30mで1m上る33‰の勾配がありました。
臨王閣からるなぱあく(前橋市)
「るなぱあく」と「臨江閣」の標高はほぼ同じですが間に107m台の道路が壁の様に作られていました。道路の下にはトンネルがあり両サイドを行き来できました。
臨王閣 るなぱあく反対側(前橋市)
「臨江閣」側には池がありました。写真を閉じられた空間に見えますが、地図では遊歩道が先まで続き旧競輪場跡地に作られた「みどりの散策エリア」につながっています。

そこから利根川沿いへ下ると皇太子殿下御成婚記念に作られた「さちの池」や親水・水上ステージゾーンがあり「るなぱあく」と合わせ前橋公園と呼びます。

地形として高低差に富んだ魅力的な場所です。残念なことに自然の地形を改変してあると聞きました。どちらにせよ、この辺りが新旧利根川の流域が最後に交わる所に思えます。

休憩後、一行は前橋公園を一望できる堤へ向かいました。

つづく…ほいじゃ
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