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水源を探せ… 戸山公園大久保地区「高田馬場発 半日満足ツアー」③

水源を探す浪漫を始めて知ったのはNHK特集「大黄河(1980年)」でした。「将来、こう言う仕事がしたい!」と思っていた少年でしたが今は仕事の傍らでやっています。

やはり、大黄河から比較にならない規模の神田川支流の秣川(まぐさがわ、又はまつがわ)の源流に向かって歩きました。
戸山公園 大久保地区
秣川は戸山公園大久保地区の入口付近に流れていた様です。諏訪通り沿いの階段になった入口から入りました。通りの標高は22m台、公園内に入ると27m台なります。

距離にして50mあり、高低差は5mです。100パミールと箱根登山鉄道以上の意外な勾配です。
戸山公園 大久保地区
祝日という事もありイベントが開催され様々な団体が活動していました。公園内はほぼ平坦です。手前と奥とでは約2~3m程度の勾配差です。

昭和29年6月に開園した都立公園ですが、それ以前は陸軍の施設がありました。

陸軍戸山学校です。1873年(明治6年)に陸軍兵学寮戸山出張所ができ翌年の1874年(明治7年)に陸軍戸山学校となりました。
戸山公園 大久保地区
陸軍戸山学校の中心は戸山公園内と同じく箱根山地区です。ここ大久保地区は古地図によると「陸軍戸山学校 附属地」となっていました。

射撃場や5年ほどですが競馬場がありました。

競馬場は1879年(明治12年)に来日する元グラント米大統領を歓待するために造られました。
明治25年陸軍戸山学校付近
その後、共同競馬株式会社が設立され年2回ほど開催されていました。立地が悪いため1884年(明治17年)に上野不忍池競馬場へ移転しました。

明治前期の高田馬場付近は東京でも僻地だったという事です。

馬に関係した名前を持つ秣川(別名:馬屎川)らしく馬に関係する話です。江戸時代の戸山ヶ原には尾張徳川家の下屋敷がありました。下流に諏訪村、源兵衛村がありました。

川の名前からそれ以前も馬や牛に関係した事が行われた可能性があります。
戸山公園 大久保地区
戸山公園をふらふらと500m歩き一番奥までやって来ました。噴水があります。これが秣川の源流なのでしょうか?少なくとも湧出ている事は確認できました。

後日、調べて行くと多くの困難にぶつかりました。
秣川流路推測
まず、大久保付近の良質の古地図を見付けるのに難儀しました。江戸の境は戸山公園箱根山地区辺りで、明治初期の東京区部の境も同様です。早稲田さえ区部から外れています。

「川の地図辞典(菅原賢二著)」では戸山公園大久保地区の奥で流路が終わっています。しかし、iPhoneアプリの「今昔散歩」ではさらに先まで続いています。
戸山公園 大久保地区
戸山公園大久保地区から通り隔てた大久保三丁目に池がありました。流れはさらに先まであり、現在の三丁目と二丁目を隔てる大久保通で途絶えています。

ネットで検索できるあらゆる古地図を見ましたが裏付けが取れる資料が見付かりません。

フィールドワークも高田馬場流鏑馬の時間に間に合わなく戸山公園大久保地区の南端に丘の上で終了です。ただ、「今昔散歩」に表示される古地図は存在するはずです。
戸山公園大久保地区裏側
加えて別の疑問も解消されずに終わりました、戸山公園大久保地区の奥にある小山が盛土なのか昔からある地形なのかです。

江戸時代は尾張德川家の下屋敷、明治から終戦までは陸軍の施設でした。

土地の改変があっても不思議ではありません。財力に任せた庭園の築山、演習等のための地形改変の可能性が残されています。

新宿区の図書館などまだミステリーを解明する方法は残されています。大久保の「秣川の流れと池の存在」の探索と共にいつか再挑戦するつもりです。

煮え切らない状態ですが次へと進みます。

つづく…ほいじゃ
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