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朝日山登頂!古戦場を見る『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』⑥

朝日山登頂!案内板を読み「あれ?」。この山が朝日山と呼ばれる様になったのは北越戦争の時かその後です。以前は大平木(大開)と呼ばれていました。

大平木登頂!です。

案内版には定かではなく、一説として名前の由来が書かれていました。新政府軍の兵士が麓から山頂に輝く朝日を見たとか…。
朝日山 頂上
NPO法人まちづくり学校主催の『ブラニイガタ 小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』の3つコースのうち朝日山登山を選んだ一行は山頂に着きました。

頂上は広く平らで大平木という名前がしっくり来ます。
朝日山 展望台からの風景
まずは展望台へ。展望台には朝日山の戦いと中越地震復興の資料が展示されています。展望台屋上からは小千谷の街と力強く流れる信濃川が一望できます。

同時に広い頂上を見渡せます。
朝日山 展望台からの風景
展望台から北側に小屋があります。気になります。早速、行ってみました。地元の方に聞くと観音様が納められている小屋でした。

戸を開けて中を見せてもらいました。
大平木観音 朝日山
薄暗い部屋の奥に小さな観音様が見えました。昭和16年に発足した朝日山史蹟保存会が観音様を制作依頼して、観音講(観音経を講じる会)とこの地に鎮座しました。

大平木観音と命名されました。戦死した白虎隊1名、朱雀隊20名の霊を供養しています。
朝日山 東軍野営地
頂上には看板が丁寧に設置されています。ここは東軍兵士が野営をした場所です。すり鉢状の窪地に位置しています。当時の光景を想像していました。

さらに奥へ進むと東軍兵士の墓がありました。
朝日山 東軍兵士の墓(頂上)
頂上でも戦闘が繰り広げらえたのでしょう。東軍兵士の墓は山の各所に点在しています。墓を建てのは浦柄の人々でした。そして、弔いを続けています。

次に「フランス兵法による塹壕跡」という案内板が目に入りました。
朝日山 フランス兵法による塹壕跡
写真にある溝が塹壕跡なのでしょう。メンテナンスをしていかないと埋まってしまいそうな溝です。朝日山古戦場は地元の人が協力し合い維持されています。
朝日山 展望台からの風景
朝日山頂上も中越地震で被災しました。2006年6月に行われた「朝日山古戦場復興 春の陣」でボランティアと地元の人々の力で今の姿に復興されました。

浦柄の方の話では都度都度草刈に上がって来るそうです。
朝日山 南西の城山からのビュー
疑問に思った事があります。山頂に東軍(旧幕府軍)は大砲を上げ陣を築いていました。水はどこから調達しのでしょうか?飲み水は不可欠です。

野営した跡があるので食事も頂上で作ったはずです。

地元の詳しい方に聞くと南西の斜面を少し下った所に湧水があるとのことでした。朝日山南西面の3D地形を見ると山腹に貯水池が何箇所かあります。

水の調達は問題がなかった様です。

朝日山の戦いでは旧幕府軍が山頂から麓にいる新政府軍を砲撃していました。記録によると1868年5月13日から19日の間は昼夜問わず大砲や銃の音が響き渡っていたそうです。

戦場は朝日山、浦柄地区、さらに北の三国街道榎峠の範囲でした。旧幕府軍が武力と兵力に優る新政府軍を撃退し続けた戦場でした。

戦局が一変したのは新政府軍が朝日山攻略を諦め手薄になった長岡城に進軍させたことでした。

5月19日に新政府軍は長岡城を陥落させました。しかし、7月24日に旧幕府軍は長岡城を奪取します。新政府軍は7月29日に再度攻撃をして手中に収めました。

勇敢に戦った同盟軍の人々はさぞかし無念だったことでしょう。

朝日山頂上を十分に堪能した一行は下山の途へ。

つづく…ほいじゃ
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