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浦柄神社と北越戦争 『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』③

正直なところ浦柄という地名を聞くのは初めてでした。新潟県小千谷市の信濃川右岸にある浦柄地区のことです。第一印象は谷間の長細い集落でした。

この地域について私が知っていた事は2つだけでした。

北越戦争の朝日山古戦場がある事と中越地震の被災地である山古志村の下流という事です。山古志村が印象に残っていた訳は前年のNHK朝ドラ「こころ」でドラマの舞台になったからです。
新潟県小千谷市浦柄地区
NPO法人まちづくり学校主催の『ブラニイガタ 小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』の集合場所である浦柄公会堂に到着しました。

主要な方々の紹介の後に3つのコースが示されてました。どれか1つしか選べません。苦渋の選択でした。

①東山を歩く(浦賀地区の崩落した山)
②家々を回り被災の話を聞く
③朝日山登山(選択!)

①②は被災と復旧・復興について知れることのできる最も有効な方法でした。しかし、歴史好きな私にとって③の朝日山は絶対に外せない選択肢でした。

結局は集会所や朝日山を登りながら地元の方々の話を聞き9年経った今でも生々しい崩落現場を教えてもらい、復旧のエピソード、日常の山の管理など貴重な話を聞けました。
浦柄神社
バックグラウンド情報が少ない私は展開に着いて行けていませんでした。それもそのはず参加者の大部分は地元と小千谷市内の方々、中越地震からの復旧に尽力された方々、新潟県内から来た方々でした。

私自身は先入観を持ちたくない理由から下調べもしていませんでした。

しかし、小高い丘の上にある浦柄神社に到着して「東軍兵士の墓」を見ると浦柄地区が北越戦争の激戦区だった事を感じ取りました。我に返りました。
浦柄神社
1868年4月27日に新政府軍は小千谷まで進行して本陣を設けました。同年5月2日の慈眼寺で中立を保ち和平を望んだ長岡藩家老の河井継之助は新政府軍の会談をしました。

しかし、話は決裂しました。長岡軍、会津藩、桑名藩の同盟軍は朝日山を奪い新政府軍の小千谷本陣に攻勢に出るため浦柄地区北側の榎峠に進行しました。
新潟県小千谷市浦柄地区
上の図で言うと左下の辺りが榎峠です。ちなみに峠は中越地震で山が崩落した場所でもあります。東軍は榎峠を突破することに成功して浦柄地区へ入りました。

5月10日 旧幕府軍が進行し榎峠で戦闘が始まる。
5月11日 旧幕府軍が浦柄地区を通過、朝日山を占領。
5月13日 新政府軍が反撃するも敗れる。

戦いは19日頃まで昼夜問わず続いたとされています。
浦柄神社
5月13日の戦いは最も激しいとなり両軍に多くの死者が出しました。「東軍戦士の墓」22基のうち20基は名前が分からないままです。しかし、2基だけは名前が判明しています。

一基目は会津藩士「新国英之助」の墓です。二基目は新政府軍の副参謀「時山直八」の墓です。朝日山唯一の新政府軍側の墓です。

新政府軍側の遺体は戦後に小千谷へ移され、後に船岡山の墓地に埋葬されました。なぜ一基だけ?
浦柄神社
あまり知られていない事かもしれませんが、明治政府は旧幕府軍の遺体は埋葬することを禁じました。特に会津藩士には厳しく放置しなければなりませんでした。

朝日山には朽ち果てた遺体が散在していたそうです。
浦柄神社
この弾圧は戊辰戦争後20年続いたそうです。山の中で骨になっていたはずです。昭和29年に福生寺住職と浦柄地区の人々は戦死地に墓標を建て手厚く埋葬しました。

現代まで脈々と続く会津人が長州人を嫌う理由がここにあると思いました。
浦柄神社
浦柄神社境内にある昭和16年建立の戊辰戦蹟記念碑は連合艦隊司令長官「山本五十六」の書が刻まれています。碑の裏側を見ると「海軍中将」と書かれています。

昭和9年 海軍中将に昇進
昭和14年 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
昭和15年 海軍大将に昇進
昭和16年 連合艦隊司令長官

建立年の昭和16年といえば12月8日に太平洋戦争開戦した年です。すでに大将だったので書を記した時はそれ以前の中将の時だったのでしょう。

山本五十六の出身地は新潟県古志郡長岡本町と浦柄地区からそう遠くありません。

また、地元の方から聞いた話ですが安倍晋三現総理大臣も以前にここを訪れています。バスで乗込みSPらしき取り巻きの人たちに囲まれていたそうです。

安倍総理は自らを長州人と言っています。

北越戦争が新政府軍にとっても大変な戦いでした。長岡城は世界史でも稀な一度陥落させた城が再び奪われ再陥落するという経緯を辿っています。

旧幕府軍:死者400人
新政府軍:死者1000人以上
(Wikipedia 北越戦争より)

1868年5月13日の激戦以降は戦場は小千谷、朝日山から長岡、蒲原へと北へシフトして行きます。朝日山は小千谷に本陣を置く新政府軍を砲撃するための拠点でだったため意味がなくなりました。

5月19日 新政府軍が長岡城を陥落させる
7月24日 旧幕府軍が長岡城を奪取する
     黒田清隆が海路から新潟町に上陸
7月29日 新政府軍が長岡城を再陥落させる

浦賀地区の激しい歴史に胸を打たれました。そして、浦柄神社も被災した事も聞きました。それらを胸に朝日山登山を始めました。

つづく…ほいじゃ
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