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徳川将軍家霊廟に入る 浜松町から東京タワーへ微登山②

運良く公開日でした。私にとって3度目の正直なのです。1度目は公開日の存在を知らず、2度目は遅刻してタイムアウト、3度目はただ運良く入れました。

増上寺御霊屋(おたまや)、徳川将軍家霊廟です。

増上寺は江戸城から南西の裏鬼門にあります。東北の表鬼門には寛永寺があり、同じく德川将軍家の霊廟があります。寛永寺の霊廟には昨年の9月に一般公開されたのを機に入ることがでました。

これで両鬼門を抑えることができました!?
増上寺徳川家霊廟鋳抜門
普段はこの鋳抜門に閉ざされています。公開日は年に何度かあり増上寺のホームページで確認できます。入場料は500円ですが内容は至れり尽くせりです。

なんと絵葉書11枚と明治34年の鳥瞰図付きです!

鋳抜門は元々は六代徳川家宣霊廟の中門でした。「元々」というのも増上寺の徳川将軍家霊廟は昭和20年の空襲で焼失しました。絵葉書は焼失前の写真を集めたものです。
増上寺御霊屋 徳川家霊廟
今の時代に残っていれば超一級の国宝になった豪華絢爛な建物群でした。空襲で失った最も重要な文化財のひとつです。もし、残っていれば世界遺産になったかもしれません。

現在の増上寺御霊屋は焼け残った石塔、青銅塔、燈籠で構成されています。
増上寺 徳川家御霊屋 二代秀忠公夫妻(石塔)
写真は御霊屋の一番奥に座する徳川秀忠公夫妻の石塔です。秀忠公の宝塔は焼失したため正室の江与殿(お江)のものを使用しています。

かかあ天下だった生前の夫婦関係を連想させます。

---現将軍墓所宝塔配置図---
    ●   ○
6代家宣夫妻 2代秀忠夫妻
○          ○
14代家茂      7代家継
●          ○
和宮         9代家重
○          ○
将軍聖母側室    12代家慶
----------[鋳抜門]-----------
◯石塔 ●青銅製

墓所の標高は9m強です。増上寺の大殿の地面より2m程高いところにあります。浜松町の駅から9m弱も登って来たことになります。
増上寺 静寛院和宮(青銅製)
石塔がほとんどですが青銅製の宝塔も2基残っています。6代家宣夫妻と静寛院和宮(14代家茂公の皇室出身の正室)の宝塔です。

写真は和宮の宝塔です。ちなみに旦那様の14代家茂公の宝塔は同形ながら石塔です。

和宮が波乱万丈の生涯を閉じたのは明治10年(1877年)の事でした。没後に遺体を京都に戻すよう沙汰がありましたが本人の遺言に従い増上寺が拒絶しここにあります。
台徳院殿 石灯籠
焼失前の德川将軍家霊廟は2つのエリアに分かれていました。北廟(北御霊屋)と南廟(南御霊屋)です。昭和20年3月10日の東京大空襲でまず北廟が被災し、5月10日に南廟が被災しました。

広大な敷地に築かれた絢爛豪華な霊廟はほとんど燃えてしまい、昭和33年の文化財保護委員会の許可が下りるまで荒廃したままでした。

調査後に桐ケ谷斎場で荼毘に付され現在の御霊屋ができました。

石灯籠に刻まれた「寛永九年壬申七月廿四日」(1632年)の文字が印象的でした。木造だった秀忠公(台徳院殿)の宝塔は空襲で焼失しましたが灯籠だけは残りました。

増上寺の御霊廟
2代秀忠公(お江)
6代家宣公
7代家継公
9代家重公
12代家慶公
14代家茂公
静寛院和宮
合祀塔【甲府宰相徳川綱重、家光側室桂昌院(綱吉の生母)、11代家斉公正室廣大院、家宣公側室室月光院など】

ちなみに他の将軍の墓所はどこにあるのでしょう?

寛永寺の御霊廟
4代家綱公
5代綱吉公
8代吉宗公
10代家治公
11代家斉公
13代家定公(篤姫)

1代家康公:久能山東照宮、日光東照宮
3代家光公:輪王寺(日光)
15代慶喜公:谷中寛永寺墓地(神道形式)

霊廟を出で次の行き先は東京タワーがよく見える南廟(南御霊屋)があった場所です。その途中で増上寺で最も標高の高い(峠?)とも言える増上寺の墓地を通り抜けます。

つづく…ほいじゃ

P.S.
寛永寺の徳川将軍家墓所へ行った時のブログ
秘密のベールの内側! 寛永寺徳川家墓所 都内散歩(日暮里~上野、御徒町、湯島)④
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