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大衆文化の場所 両国広小路&柳橋 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑲

江戸時代の繁華街の面影はありません。両国広小路の西詰です。かつて江戸三大広小路の一つとして繁華街だった場所です。他に下谷広小路(上野広小路)、浅草広小路があります。

現代でも上野広小路、浅草広小路は賑わっています。しかし、最大と言われた両国広小路が最も鄙びてしまいました。
両国広小路
両国広小路跡の石碑は両国橋の西側にあります。1657年に十万人と言われる死者を出した明暦の大火の教訓から両国橋が架けられ「火除け地」である広小路を設置されたのが始まりです。

明暦の大火の時に両国付近に橋がなく逃げ道を断たれた人々が多く死傷しました。
両国広小路
広小路は本来「火除け地」が目的なのですが見世物小屋、芝居小屋、茶屋、納涼船と娯楽に飢えた庶民が集まる場へと変貌して行きました。隅田川の花火大会の発祥の地にもなりました。

想定外の変貌を幕府は容認していた節はあります。

江戸時代、水辺は物流の拠点であっただけでなく繁華街が発展したエリアです。浅草もその一つです。
柳橋
元々、人形町にあった吉原(元吉原)が現在の地(新吉原)へ移転したキッカケも明歴の大火でした。移転の理由は1617年から続いた吉原が大火で焼けた落ちた事と30年の間に人形町が市街地化したことでした。

新吉原は浅草寺の裏の日本堤に移転され現在に至ります。

幕府公認に吉原遊郭に向かう場所として有名だったのが両国広小路の隣にある柳橋です。神田川が墨田川に流れ込む手間、神田川の最下流にある橋です。
柳橋
架橋は1698年です。現代の鋼鉄橋は関東大震災後の1929年に架けられました。柳橋は橋として使われれる場合と町名として使われる場合があります。

町としての柳橋は新橋に並ぶ花街でした。

吉原へ行く前に柳橋で芸者遊びをして勢いを付けてから吉原へ船と徒歩で向かったそうです。
柳橋
橋の由来は神田川の万世橋から下流に柳が植えられていて柳原堤と呼ばれていたことから来ているとされています。ちなみに橋ができた当初は川口橋や川口出口の橋とも呼ばれていました。

幕末の柳橋には船宿33軒、芸妓(げいぎ)が100人以上いました。

今では繁華街とは程遠い閑散とした地域ですが江戸からの川辺の文化を細々と残しています。周辺を歩くと今でも明治、大正、昭和から続く花柳界の名残を目にします。

私達は大衆にも関わらず日本や江戸の大衆史を学ぶ機会はほとんどありません。学校ではなぜか権力者の歴史ばかりを教えている様に感じます。

大衆の歴史を紐解くと今も昔も変わらぬ人の性(さが)が見えて来ます。

学校では教えられない事も多々ありますが…。

ほいじゃ
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