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秀吉と博文 伊藤博文旧宅地 萩城跡(山口県)⑨

農民出身だったの!?初代内閣総理大臣・伊藤博文の話です。農民出身で政治の頂点に上り詰めた人物で他に思い浮かぶのは豊臣秀吉です。共通点と相違点が入り混じっている2者です。

山口県萩市の松本エリアにある伊藤博文旧宅地へ行ったことがきっかけで調べました。
生涯学習!by Crazybowler-伊藤博文旧宅 萩
秀吉は孤軍奮闘して農民から武士になりましたが伊藤博文の場合は様子が違います。今では伊藤博文旧宅地と呼ばれていますが元々は「水井武兵衛」の住まいです。

①父:林十蔵、母:(秋山)琴子の長男として生まれる(12歳で奉公に出る)
②父が長州藩の蔵元付中間「水井武兵衛」の養子になる
③「水井武兵衛」が足軽・伊藤弥右衛門の養子となる
④自動的に両親と共に足軽という武士の地位を得ました。

出生の場所は以前ブログで書いています⇒「ぶらり巡り 伊藤博文公記念館」

この出来事は伊藤博文の人生で第一の転機と言えるでしょう。14歳でした。(年はすべて数え年)

しかし、足軽なので武士でも地位の低い身分でした。江戸に滞在した頃は維新三傑に数えられる桂小五郎の手附でした。(桂小五郎は医者の家の出身で養子入りして武士になりました。)

吉田松陰の松下村塾では身分が低いため塾外から授業を立ち聞きしていたそうです。
生涯学習!by Crazybowler-伊藤博文旧宅 萩
23歳の時に第二の転機がやって来ました。長州藩からイギリスへ派遣される5人に選ばれました。後に長州五傑(他:井上聞多・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉)と呼ばれます。

伊藤博文の貧乏エピソードがあります。この渡航の際に持っていた私物は「間違いだらけの」英語辞書1冊と寝巻きだけだったそうです。

身に付けた英語力が後に役立ちます。

秀吉と博文の共通点は人との良き出会い、能力を見出して機会を与えてくれる上司や先輩に恵まれた事です。時代も後押しもありました。

当時の長州藩は藩主毛利敬親の元、能力があれば身分が低くても登用される時代に入っていました。
生涯学習!by Crazybowler-伊藤博文旧宅 萩
「伊藤博文旧宅地」には当時の風呂、便所が残っています。民俗資料館と言っても良いのではないかと思いました。石風呂、外に設置された小便器を現代では珍しいものです。

「使用禁止」か小便器…やりたかった(笑)

第三の転機は長州藩が明治維新の勝ち組だったことです。秀吉も上昇軍団織田氏の一員であり織田信長無き後、実力で事実上の後継者となりました。
生涯学習!by Crazybowler-伊藤博文旧宅 萩
伊藤博文も明治維新後に長州閥の一員として頭角を現して行きました。特に重要な出来事は次の3つなのかもしれません。英語が堪能であった事が最終的にキーとなりました。

①1870年 渡米してナショナルバンクについて学びに行く
 ⇒最初の貨幣法である新貨条例が制定
②1871年 岩倉使節団の副使として同行(米国、欧州を回る)
 ⇒ドイツの宰相ビスマルクから行政の重要性を学ぶ
③1882年 憲法調査のため渡欧を天皇から命じられる
 ⇒大日本帝国憲法へとつながる

海外の先進的な政治、経済、文化を学び帰国後に具現化して行きました。多くの人から信頼を得る様になり維新三傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)の死後は明治政府指導者の一人として辣腕を振るいました。

誰が初代内閣総理大臣になるか?

当初は公卿出身で太政大臣点三条実美が有力でした。

①当時の地位が太政大臣・三条実美が伯爵・伊藤博文より上
②家柄も藤原北家閑院流の嫡流で農民出身の伊藤博文とは雲泥の差

伊藤博文が有利だった事は、

①大久保利通の死後は宰相として明治政府を切り盛りしていた事
②内閣制、憲法、鉄道、教育など日本の仕組み作りをして来た事
③英語力!
④当時、力を持っていた長州閥の盟友が後押しをしてくれた事

<宮中会議の光景>

(誰もが口をつぐんでいる)

井上馨「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」

山縣有朋「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」

結局、長州閥の先制攻撃で保守派も返す言葉がなく初代内閣総理大臣は伊藤博文に決まりました。初代総理大臣になれた勝因は次の3つです。

①英語力
②実績と信頼
③盟友との関係

伊藤博文は明治天皇からも信頼されていました。明治天皇の好みである「お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれい」という枠にぴったりの人物でした。

政治職人と呼ぶのが的確かもしれません。

吉田松陰が松下村塾で残した伊藤博文の印象はこうなっています。

「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」
「俊輔、周旋(政治)の才あり」

頭が切れるタイプではなかった様ですが政治的な才能はこの頃すでに見抜かれていました。明治天皇が好む人物像と「性質は素直で華美になびかず」という点が一致しています。

大隈重信の言葉が伊藤博文のすべてを象徴している様に思えます。

「(伊藤博文は)常に国家のために政治を行ふて、野心のために行はなかった」

私なりにまとめた伊藤博文の人物像をまとめてみました。

①実学 学んだ事を具現化する(留学で学び行政で活用)
②陽気、派手、冒険心 複数証言あり…これが彼の魅力!?
③女好き 芸者遊びは凄かった様です。まあこれは良しとしよう…(笑)
④真面目 金にキレイで賄賂を要求しない
⑤不器用 お世辞や器用な振る舞いをしない、できない
⑥プロ 政治家としてビジョンを持ち、形にしていくタイプ
 制度法規を立てる才覚は優れていた。

内閣制、憲法、鉄道、工業など日本の政治経済の礎を作った人物は実務派のプロで冒険心が強い人物だった様です。現代では受けないタイプかもしれません。

秀吉と類似点と相違点が入り混じっています。女好きで陽気、派手、冒険心がるパーソナリティーや政治のプロフェッショナルである点は共通しています。

農民から政治のトップへ登る過程は違うにせよ、その事実が私たち庶民には夢を与えてくれます。

ほいじゃ

P.S.  第1,5,7、10代内閣総理大臣を経験した伊藤博文の言葉で現代の人にも聞いてもらいたいものがあります。

「国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去つて、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である」
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