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なぜ日本海側の僻地に? 天守台と内堀の石垣 萩城跡(山口県)②

「馬鹿と煙は高い所が好き」と親からよく言われたものです。高い所があると取りあえず登ってみる習性がある様です。最近、少々高所恐怖症気味なって来た私です。でも、登りたい!

萩城の残る天守閣跡に登りました。殿様気分で本丸の濠(ほり)を眺めました。
生涯学習!by Crazybowler-萩城 天守閣跡から
今は無き天守の姿とは?

・5層5階の複合式望楼型
・天守は高さ約14.4m、東西19.8m、南北16.2m
・天守台の高さ約11m
・1層目の天守台は石垣から外に半間ほど張り出していた
・2層目の天守台と同じサイズ

撮影した場所は天守の第1層部分になります。この場所へ来れた藩士はこんな風景を見ていたのでしょう。殿様はもっと高い所から見ていたいのでしょう。
生涯学習!by Crazybowler-萩城 石垣
天守の石垣に面白い特徴があります。11mある天守台は下部が緩やかな傾斜になっていて、上に行くに従い傾斜がきつくなって行きます。

三角州に築かれた城のため地盤が不安定だったため対策を施したとのことです。

上の写真は濠(ほり)の角の石垣です。同じように下部の緩やかな傾斜が付けられています。
生涯学習!by Crazybowler-萩城 天守閣跡から
天守閣跡から本丸の内側を眺めました。内堀が複雑に入り込みながら本丸内にそびえる標高143mの指月山まで伸びています。戦争を意識した造りです。

萩城に着手し始めたのは1604年です。1600年の関ヶ原の戦いを経て、1603年徳川家康が征夷大将軍に任命され徳川幕府がスタートしたばかりです。

徳川体制がまだ盤石ではない時期です。毛利輝元は萩城が一部しかできていない1604年12月に早々と入場しました。完成は4年後の1608年です。

豊臣氏が滅亡する1615年の大阪夏の陣までは幕府は安泰とは言えませんでした。外様大名は次に来るだろう動乱に備えていても何の不思議もありません。
$生涯学習!by Crazybowler-萩城 二の丸門
大手門(城郭の二の丸、三の丸への正門)である南門付近は道がコの字型になっています。明らかに戦闘を意識した造りがここにも見られます。

なぜ、日本海側という僻地に長州藩の拠点ができたのでしょう?

もちろん、自ら選んだのではありません!

毛利家は領地の大部分を徳川幕府に没収され長門、周防2国に厳封されてから城の候補地を瀬戸内海側の三田尻に選定しました。幕府に許可を求めましたが結論は萩でした。

外様大名の雄「毛利」を山陰の僻遠地に追い込むためと言われています。

これでもか、これでもかという程の幕府の追い込みに長州藩は辛酸を舐めせられ265年後に幕府を終わらせる力と受け継がれていきました。

明治から現代にかけて総理大臣を8人も輩出した山口県ですが、萩城の天守は1874年(明治7年)に廃城令から再建されていません。

今は財政難で再建は難しいそうです。道路をたくさん作っていた時代にやって置けばもっと見栄えがする観光地となっていたかもしれません。

天守閣の最高層まで登り景色を眺めたい「馬鹿と煙」のような私にはそれが残念です。

ほいじゃ
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