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残るもののニーズと複雑な歴史 開山堂両大師 輪王寺

「変わらずにそこにある」というのも一つの価値かもしれません。その裏には何らかしらのニーズと思いがある様な気がします。加えて運も必要です。
生涯学習!by Crazybowler-開山堂両大師
江戸時代最後の年に起きた上野戦争で東叡山寛永寺の建物は多くが破壊されました。いくつかの建物は焼失を免れました。開山堂両大師もその一つです。
生涯学習!by Crazybowler-開山堂両大師
東京国立博物館の横にあります。東京国立博物館は寛永寺の本坊があった場所です。その横に両大師は慈眼堂という名前で書かれています。

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○両大師あれこれ
慈眼堂=開山堂は別名
慈眼大師=東叡山寛永寺を開山した天海

両大師の由来=天海(慈眼大師)と彼が崇敬した良源(慈恵大師、元三大師)を合わせて祀ったため
生涯学習!by Crazybowler-開山堂両大師
参道の左右に銅燈籠は大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されていたものです。また、鐘楼にかかる梵鐘は慶安4年(1651年)の製作と古いものです。
生涯学習!by Crazybowler-開山堂両大師
上野戦争、太平洋戦争から焼失を免れた建物が皮肉にも平成になって燃えました!

寛永20年(1640年) 天海(慈眼大師)死去
正保元年(1644年) 開山堂が建てられる
天明元年(1781年) 開山堂が再建される
寛政4年(1792年) 本堂が再建される
慶応4年(1868年) 上野戦争では焼け残る
平成元年(1989年) 火災に遭い開山堂と本堂が焼失!
平成5年(1993年) 再建される
生涯学習!by Crazybowler-開山堂両大師
両大師は通称で現在は輪王寺が正式名です!江戸時代にはここは寛永寺宮内で輪王寺は存在しませんでした。では、輪王寺はどこから来たのでしょう?

ちなみに日光にある輪王寺は元の名を満願寺と言います。輪王寺宮という称号と深く関係しています。

<輪王寺宮と輪王寺>
承永3年(1654)
 後水尾天皇(のち上皇)の第3皇子守澄法親王が寛永寺の第3代貫主(東叡山主)、日光山主になる。

暦元年(1655)
 守澄法親王は天台宗座主(比叡山主)も兼ねる。後水尾上皇により日光の満願寺が輪王寺と改名される。

暦2年(1656)
 「輪王寺宮(門跡)」の称を賜る。(「三山管領宮」とも呼ばれました。)

一部の例外を除き15代輪王寺宮の公現法親王までこの継承は続きました。

※比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光山輪王寺は門跡寺院でした。門跡寺院とは皇族出身者が代々貫主を継承する寺院です。

明治になり慈眼大師が還俗となり輪王寺宮は廃止されました。しかし、東叡山寛永寺と日光山満願寺から要請で明治18年(1885)に門前寺院として再興されました。

その時に東叡山輪王寺が生まれ、日光山輪王寺という名が復活しました。



ややこしい話ですね!輪王寺宮が生まれた背景には西国と朝廷をけん制する幕府のニーズがあったと思われます。戦争で焼け残ったのは立地と運でした。

明治以降は皇族のニーズ、寺院のニーズによって今もこの場所に残されているのでしょう。

ここは東京で唯一残る門跡寺院です。

ほいじゃ
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