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彰義隊の墓 上野恩賜公園

勝海舟の言葉に「大不忠の忠」という言葉があります。

徳川の家臣でありながら新政府軍と交渉して江戸城無血開城を実現させました。時代の流れを読み欧米列強から日本を守るため、江戸の人々を戦火から救うための決断でした。

しかし、戦わずして負ける決断は当時の価値観から反した大不忠者です。

一方、江戸城無血開城の後に新政府軍と戦った忠義の武士もいました。彰義隊です。JIN-仁-の最終回にもあった彰義隊の戦い、いわゆる上野戦争です。
生涯学習!by Crazybowler-彰義隊の墓
現在は平和な上野公園には彰義隊の墓があります。人々が憩いの時間を過ごす空間の中にひっそりとたたずんでいます。彰義隊はわずか半日で新政府軍に壊滅させられました。

時代の節目に人はどの様な判断を下すのか?

新しい時代を読んみ行動をする者、大切にした価値観と共に死を選ぶ者、様々な人間模様があったことでしょう。どちらが良いとか悪いとかでなく、それらはすべて人の生き方であり、時代の流れだという事です。



○彰義隊の名の由来
「大義を彰(あきら)かにする」

○上野戦争は戊辰戦争の戦いの一つ

戊辰戦争=新政府軍と、旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦

戊辰戦争の名の由来=慶応4年/明治元年の干支が戊辰だった。

慶応3年(1867)10月15日 大政奉還
慶応3年(1867)10月24日 徳川慶喜、征夷大将軍を辞任
慶応4年(1868)1月3日 鳥羽・伏見の戦い
慶応4年(1868)3月13日~14日 勝・西郷会談
慶応4年(1868)4月3日 江戸城無血開城
慶応4年(1868)5月15日 上野戦争

明治2年(1869)5月18日 函館戦争終了、戊辰戦争の終焉

上野戦争の結果、

新政府軍と旧幕府軍の戦いは北の方に移って行きました。
東叡山寛永寺の建物は多くが破壊されました。

多くの遺体は放置されたが、

明治元年(1868) 南千住円通寺の住職により荼毘に付される。
明治2年(1869) 寛永寺子院の寒松陰と護国院の住職により密かに小墓石が建てられる。
明治7年(1874) 小川ら元隊士は新政府から許可を得て火葬場に彰義隊の墓を作る。
明治14年(1881) 大墓石が建てられる

南千住に今でもある円通寺には激戦地帯にあった黒門が移築されているそうです。彰義隊の遺骨の一部は円通寺に合葬されています。



時代の節目を過ぎた人々がどの様に心を入れ替えて前に向かって歩いたか?それはどんな気持ちだったのか知りたくもあります。

私が当時に生きていたならどの様に判断して行動したのだろうか?

ほいじゃ
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