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小さな官道!?東山道武蔵野路【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(18)

古代日本で東京都呼ばれる行政区画すなわち武蔵国の中心は府中でした。国府が置かれ多くの街道がここを起点としていました。律令制の確立から「五畿七道」が整備され奈良の都から各地へ官道して曳かれました。

武蔵野国への官道は上野国邑楽郡から真っ直ぐに南下する「東山道武蔵野路」が建設されました。
東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)
行こう行こうと思っていた場所です。頭の中にはテレビで取り上げられた発掘中のイメージです。武蔵国分寺跡から歩いて行き建物の合間にある小さな武蔵野路を見つけました。「あれ…短い。」私がテレビで見たのは長い太い道でした。
東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)
案内板を見るとこの場所は市立第四小学校の跡地が発掘され「歴史公園史跡東山道武蔵野路」になっています。奥にある看板には崖線下へ向かって一直線に伸びていた「東山道武蔵野路」が描かれています。

直線道路ならではの豪快な風景です。東山道武蔵野路は幅12mの直線道路でした。

権力の象徴としてあえて直線化したと考えられます。この辺りは武蔵野段丘が終わる国分寺崖線に近い場所です。そのまま南下すれば崖を一気に下ります。当時は建物も少なく開けた風景だったのでしょう。
東山道武蔵野路跡-002
【真っ直ぐな東山道武蔵野路と跡がわかる場所(赤)】

北に目を向けると300mの遊歩道となった発掘現場があります。これが度々テレビで放映されていた場所です。それりよりも北にはJRの線路を超えた「姿見の池」辺りから東山道武蔵野路の一部が発掘されています。
東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)
ここは短い区間でありながら埋め戻された遺跡の位置が地面に記録され興味深い場所です。色が違う部分は側溝があった位置です。三度の修復、作り替えが行われたことが発掘から分かっています。

第一期:側溝間隔12mの道
第二期:第一期の側溝が埋没。上に道を敷き第二期の側溝を掘削する
第三期:西側にずらし新たに側溝を掘削し道を整備する
第四期:(この辺りには通っていなかったようです。)
東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)
東山道武蔵野路の東側から第三期側溝が埋没した後に掘られ穴が記録されています。ここからは口と口を合わさった杯(さかずき)が発見されています。地鎮や呪術的な儀式を行った場所と考えれています。

ちなみに都では同じ形式で道餐祭(みちあえのまつり)という儀式が行われた記録が残っています。都に災いが侵入しないように外縁道路で儀式は行われていました。武蔵路が埋没した後の儀式は何だったのでしょうか。
東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)
東山道武蔵野路の西側から竪穴式住居が発掘されています。先ほど同様に東山道が埋没した上に重複して作られた9世紀の遺跡です。道路はそれ以前に機能を失っていたことになります。

ちなみに東山道武蔵野路周辺からは9~10世紀の竪穴式住居が多く発見されています。特徴は武蔵国分寺の屋根瓦を竈(かまど)の補強材として使っていた点です。

旧武蔵国分寺の焼失は14世紀ですから再利用だった可能性があります。

さらに調べていくと8世紀にはすでに官道から支道へ格下げされたことが記録に残っています。それが廃道化する原因だったのかもしれません。

次は最終回です。

つづく…ほいじゃ

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武蔵国分寺と周辺~その2【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(17)

武蔵国分寺跡の背後にある参道を登り切ると薬師堂があります。夕方ともなれば人影もなくただ葉と葉がこすれ合うかすかな音が聞こえるのみです。国分寺崖線の上下に広がる新旧の武蔵国分寺を堪能しています。
薬師堂(国分寺市)
現在に残る国分寺薬師堂は1333年の分倍河原の戦いで焼失し1335年に再建、江戸時代の宝暦年間(1751~1764)に現在の地に移築、再建されたものです。薬師堂には国指定重要文化財が安置されています。

作者不明ながら鎌倉時代初期に制作されたとされる「木造薬師如来像」です。像高は191.5cmもあるそうです。鎌倉時代初期の作ならば武蔵国分寺が焼失する前からあったことになります。
薬師堂前のお地蔵様(国分寺市)
薬師堂の前には古いお地蔵様が三体あり堂の方向を向いています。不思議なバランスの気になるお地蔵様です。九頭身というか現代風に言えば小顔なお地蔵様です。案内板には何も記載されていません。
武蔵国分寺-001
位置関係をもう一度見直してみます。旧武蔵国分寺は国分寺崖線下の広大な土地に作られていました。現在の武蔵国分寺は崖線直下にあります。崖線の法面に作られた参道を経て薬師堂に到達できます。
八幡神社(国分寺市)
薬師堂のすぐ西隣には本村八幡神社があります。参道は「堂の坂」の途中にあります。創建年は不明です。神仏習合の時代を考えられば寺院と神社がセットになっているのは不思議な話ではありません。
本村八幡神社 境内社 祓戸神社、榛名神社
狛犬の横には境内社(祓戸神社、榛名神社)があります。神社の名に残る「本村」とは旧国分寺村を指す古い地名です。昭和40年の新住居表示制度後は現在の「元町」になっています。
国分寺公園
本村八幡神社の裏手には「国分寺公園」があります。旧武蔵国分寺の寺域の西辺と北辺あたりに位置しています。寺院、神社に面しており歴史的な重さを持つ名前にも関わらず一見すると普通の児童公園です。
土師竪穴式住居跡 国分寺公園内(国分寺市)
国分寺公園の一角に「土師(はじ)竪穴住居跡」と書かれた案内板があります。昭和31年の調査で武蔵国分寺の僧寺「金堂」、「講堂」と同じ時代の竪穴式住居が発見され「二号竪穴式住居」を史跡指定した場所です。

現在は埋めなおされています。土師とは土師器のことで使われた時代を指しています。弥生式土器の流れを汲む土師器は古墳、奈良、平安時代まで生産されていた土器です。

住居サイズは4.0×4.2mの正方形に近い形をし竈(かまど)跡が三カ所、土器も見つかっています。土器のほかには鎌(かま)や鍬(くわ)も発見さています。

この遺跡の位置関係が遺品が気になります。

1、武蔵国分寺の北西端
2、「東山道武蔵路」から100mほど東に位置する
3、窯×3、鎌、鍬、多数の土器が見つかっている

私は武蔵国分寺で寺社内で食料調達・加工をしていた人かメンテナンスのおじさんが寝泊まりしていたのではと想像しています。

最後に古代日本史のロマン「東山道武蔵路」へ向かいます。

つづく…ほいじゃ

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武蔵国分寺と周辺~その1【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(16)

フィールドワークを行う際に近い距離に見所が多くあるとコースが設定し易いものです。武蔵国分寺跡周辺はビューポイントが集中しています。歩けばすぐに何かがあり散策には持って来いの場所です。
武蔵国分寺-001
【拡大できます。】
日没が近づき辺りは薄暗くなって来ました。低い光量が歴史の重さを演出します。国分寺崖線の下と上の広大な土地にまたがった武蔵国分寺跡と焼失後に建てられた建物が重複している地区を歩いています。
武蔵国分寺 楼門(国分寺市)
間口6.2m、奥行き3.7mの国分寺楼門は武蔵国分寺前の不自然な位置にあります。それもそのはず明治28年(1895)に東久留米(東京都)の米津寺から移築されたものです。江戸時代の建築様式を見る事ができます。
武蔵国分寺(国分寺市)
武蔵国分寺は鎌倉時代の終焉に登場する舞台です。新田義貞率いる反幕府軍は分倍河原の戦い(1333年)で時の権力者北条高時の弟である泰家率いる幕府軍に一度敗れ敗走する際に武蔵国分寺を焼き払ったとされています。

分倍河原は立川崖線の下に広がる多摩川の氾濫原です。多摩川は幕府軍が死守したい自然の要害でした。

翌日に反幕府軍が再び攻め込み今度は圧勝します。幕府軍は鎌倉までの退却を余儀なくされました。反幕府軍は丘陵に囲まれた要塞都市鎌倉を攻めあぐねましたが最終的に稲村ヶ崎から攻め入り鎌倉時代は終焉を迎えます。
仁王門(国分寺市)
武蔵国分寺の墓地を抜けると参道があります。参道の途中に宝暦年間(1751~1764)に建てられた仁王門があります。材料には建武2年(1335)に新田義貞が再興した薬師堂の古材が使われています。
薬師堂の参道(国分寺市)
武蔵国分寺を焼失に至らせた新田義貞は分倍河原の戦いの2年後に国分寺金堂跡に国分寺薬師堂を建立するために寄進しています。現在の薬師堂は参道を上にあります。これは宝暦年間に場所を変え再建されたものです。
北院跡(国分寺市)
参道の途中で怪しげな石を見付けました。「北院跡」と刻まれています。北院とは武蔵国分寺の北側にあった建物です。武蔵国分寺が崖線の下にあったのに対して北院は崖線を登り切ったところにあります。

今は草ぼうぼうの平地ですが古の武蔵国分寺が広大な土地を有していたことを認識できます。
堂の坂(国分寺市)
「真姿の池」を過ぎてから暗くなり始めたため興味深い場所をいくつもスルーして来ました。「武蔵国分寺」では野川の支流である「元町用水路」の源流の一つを見逃しました。

国分寺薬師堂の参道とは別に国分寺崖線を湾曲しながら登る坂もスルーしました。

この坂をネットを調べると「堂の坂」と書いてあります。水平距離約130m、高低差約11.5mの坂でパミールに変換すると88.5と歩きなら比較的緩やかな坂です。

次のフィールドワークでは見逃した部分を散策したいものです。次は国分寺薬師堂と八幡神社、そして遺跡を紹介します。

つづく…ほいじゃ

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七重塔跡、武蔵国分寺跡【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(15)

東京の国分寺を午後だけで回り尽くすのは無理です。お鷹の道も真姿の池を過ぎれば終わりですが辺りはうす暗くなり始めました。到底「武蔵国分寺尼寺跡」や「伝鎌倉街道」まで足を延ばせそうはありません。
おたカフェ(国分寺市)
史跡の駅「おたカフェ」と「おたかの道湧水園/武蔵国分寺跡資料館」が見えて来ました。しかし、武蔵国分寺跡と東山道武蔵路を陽のある内に踏破する策に切り替えたため無念にもスルーします。
おたかの道湧水園(国分寺市)
ゆっくりと回われる時間があれば国分寺の歴史と自然を深く味わえる場所だっただけに残念です。とりあえず武蔵国分寺の史跡群を目指しました。まずは「おたカフェ」から200mほどの所にある「七重塔跡」です。
七重塔跡(国分寺市)
突然、殺風景な場所に出ました。この辺りがすべて史跡なのでしょうか?片隅にぽつんと大きな木とむき出しの礎石があります。看板には「七重塔跡」と書かれています。名前の豪華さからは程遠い様相です。
七重塔跡(国分寺市)
「金字金光明最勝王経」を納めるために建てられた塔です。「続日本後紀」によると835年に落雷で焼失し十年後に再建の申請が出された記録があります。昭和39年の発掘で再建されたことが確認できました。
武蔵国分寺跡(国分寺市)
七重塔は武蔵国分寺南門の東です。250mほど歩くと武蔵国分寺跡はあります。奈良時代中期に聖武天皇は仏教の力で国を安定させようとし東山道武蔵路の東に広大な寺院を建立しました。金堂跡には礎石が残っています。

金堂の奥には講堂がありました。何やら工事をしています。
武蔵国分寺跡(国分寺市)
国分寺市のHPには次の様に書かれています。「平成25年度は、講堂跡の基壇復元工事を実施します。講堂基壇の外装には瓦が積まれていたことが発掘調査により判明しており、今回の工事では、その様子を復元します。」
武蔵国分寺跡(国分寺市)
案内板にあった復元模型の写真のことだと気付きました。基礎部分のみの復元なので上物はお目にかかれません。今回は「史跡武蔵国分寺跡整備工事」の第一期工事ということで第二期には建物も再現されるのか興味があります。
武蔵国分寺跡(国分寺市)
ちなみに「史跡武蔵国分寺跡整備工事」で手掛けられる部分は他に「中門平面表示」、「南門平面表示」、「(七重)塔2周辺環境整備」、「伽藍地区画溝平面表示」などがあります。

詳しくは国分寺市の「武蔵国分寺跡第一期整備の基本設計がまとまりました。」に書かれています。PDFには図面もありどの様になるか分かります。

今はビジュアル的にかつての武蔵国分寺をとらえることは難しい状態です。工事が進めばどこに何があったのか「見える化」が進みます。講堂跡の工事は3月末まで終わるそうなのでまた訪れてみます。

つづく…ほいじゃ

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地下水と真姿の池【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(14)

水道の蛇口を捻ると飲み水が出る日本で感謝の気持ちを失っていませんか?現代はスーパーに並んでいる鶏肉を何気なく買うが自ら鳥をさばいたり、そう言った現場をほとんどの人が見たことありません。

水も同じです。蛇口を捻るだけだと水資源は無限にあると思いがちです。水源を見る事は大切です。
真姿の池(国分寺市)
東京都国分寺市の「真姿の池」です。日本は地形と気候ゆえに地下水の循環する年数が短く伏流水も多いことから比較的浅いところから水を得ることができる土地が多いことが特徴です。
真姿の池(国分寺市)
「真姿の池」は中心に弁天島と弁天堂があります。「お鷹の道・真姿の池湧水群」として昭和60年に環境庁が「名水百選」に選んだ場所です。昔は「水口八十八カ所」と呼ばれる程豊富だった湧水も今は減っています。
真姿の池(国分寺市)
「真姿の池」の由来は一人の美女に起因します。848年に絶世美女と言われた玉造小町が病にかかり美貌を失って仕舞いました。国分寺で21日祈願すると童子が現れ池に案内しこの水で体を清めるようと言いどこかへ消えました。

玉造小町はその通りにすると元の美貌を取り戻したという伝承です。
真姿の池湧水群(国分寺市)
「真姿の池」の案内板にはこの辺りに3カ所の湧水があるとされています。一つは「雑木林のみち」の奥、二つ目は「真姿の池」、三つ目は池に注ぎ込む小川の先です。昔はもっとあったのかもしれません。
真姿の池(国分寺市)
弁財天の裏に国分寺崖線に沿って池に注ぐ流れがあります。武蔵野段丘面に浸み込んだ雨水は「立川ローム層」、「関東ローム層」を抜けて「れき層」に到達し地下水となり崖下から湧き水として地表に現れます。

地下水は「涵養」「流動」「流出」にはプロセスがあります。「涵養」とは水が浸み込むことで英語ではリチャージと言います。日本はこのサイクルが短い地域が多い特徴を持っています。

地球上の水のうち淡水は2.66%しかありません。その内、地下水だけに限れは0.66%です。地下水は土地により数万年から数年で一巡しますが世界平均は600年です。(「地下水の科学」著井田徹治より)

高度成長期に地下水を組み上げ過ぎて地盤沈下や湧水枯渇等の問題が起きました。

現在は反省点を活かし「涵養」を促進する対策を行政が取り組んでいます。水が豊富な日本でも水資源は無限ではありません。やはり水が出る現場を見て考えるのが一番の勉強になります。

つづく…ほいじゃ

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お鷹の道~雑木林のみち【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(13)

細い道を歩くとなぜか懐かしさを感じます。現在は建築、防災関係の法律で道は拡張されて続けています。思えば昔は人や馬がすれ違うことができれば十分な道幅だったのでしょう。

今は車社会で消防車が入るにも引っ越しをするにも車なしでは語れません。
お鷹の道遊歩道(国分寺市)
「お鷹の道遊歩道」に入りました。寛延元年(1747)に尾張徳川家のお鷹場に指定されいつの頃からお鷹の道と呼ばれる様になりました。慶応三年(1867)に廃止されましたが昭和47~48年に国分寺市が整備しました。
お鷹の道遊歩道(国分寺市)
「元町用水路」の横に自転車乗り入れ禁止の遊歩道があり両側に住宅が続いています。歩いていると本多さんが多いことに気づきます。国分寺市には武蔵野段丘面に本多という地名あるほどです。
お鷹の道遊歩道(国分寺市)
環境庁の「名水百選(昭和60年)」に指定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」から湧き出る水が「元町用水路」を流れています。国分寺市では地下水の枯渇を危惧をして地下水保全の条例があります。
お鷹の道遊歩道(国分寺市)
遊歩道は350mと書かれていますが初めて歩くともっと長く感じます。蛇行していることも一つの要因だと思います。半分以上歩くと「雑木林のみち」と書かれた案内版が目に入ったので曲がりました。
真姿の池湧水群(国分寺市)
道は緩やかな登坂になっています。途中には農家があり直売所をやっている様です。一番奥まで行くと水が左手に「真姿の池」が見えます。まずは「雑木林のみち」横を流れを追いました。
真姿の池湧水群(国分寺市)
崖下まで来ると湧水があります。ここも「水口八十八ヶ所」と呼ばれた「お鷹の道・真姿の池湧水群」のひとつです。環境庁の「名水百選(昭和60年)」に指定された湧水です。環境省の「名水百選」には次の様に書かれています。

『水量は約千m3/日の流量を有している。飲用としては不適。』
雑木林の道と真姿の池湧水群(国分寺市)
さらに奥へ進むと「雑木林のみち」の階段があります。断行した魅力的な階段です。国分寺崖線を一気に武蔵野段丘面まで導いてくれる階段です。暗くなり始め時間がなくなって来たのですが上り下りしてみました。
雑木林の道と真姿の池湧水群(国分寺市)
「雑木林のみち」をカシミール3Dを使い断面図にしてみました。国分寺崖線がくっきり浮き上がります。標高は61mから77mまで上がります。約15.5の高低差がある140mほどの古い道筋です。
雑木林のみち断面
【拡大できます。】

次は「真姿の池」です。848年に不治の病に苦しんだ絶世の美女「玉造小町」が完治したと伝わる場所です。

つづく…ほいじゃ

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お鷹の道の生活感【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(12)

東京都国分寺市で不思議な公園に出会いました。真福寺児童遊園地という名の公園です。寺の名前が付いた公園に出会うのは初めてです。児童遊園とは市立公園の古い呼び名だと国分寺市のホームページに書かれていました。
真福寺児童遊園地(国分寺市)
一見するとどこにでもありそうな公園です。真福寺は移転されたのか?廃寺となったかのか?ネットで調べても答えは出ませんでした。でも寺があったはず!
真福寺児童遊園地(国分寺市)
周囲を歩き回ると公園のすぐ横に墓地があります。寺があった証拠でしょう。明治時代前期の地図「迅速測図」からお寺らしき建物は見つけられません。道筋も今とは違います。
墓地 真福寺児童遊園地の横(国分寺市)
寺は墓を残してどこへ行ってしまったのでしょうか?市立図書館へ行けば答えがあるかもしれません。ミステリーを残したまま公園を後にしてお鷹の道へ戻ります。公園から数十メートル進みました。
三峰荘 お鷹の道から(国分寺市)
国分寺崖線を背にしたアパートが見えます。Mapionで調べると三峰荘という名前です。1975年に建てられた2階建木造の風呂なしアパートです。昭和の雰囲気と国分寺崖線の組み合わせが何とも魅力的です。
お鷹の道(国分寺市)
突然、道はクランク状に曲がります。迅速測図にはクランク状の道はありません。道筋は今よりも崖線沿いを先ほど見た三峰荘辺りから崖下沿いに湾曲していました。

道筋は変わっても写真に左端に写っている「大けやき」が歴史を感じさせます。
元町用水(国分寺市)
写真を撮りながらストップ&ゴーを繰り返しているとある歩行者と抜きつ抜かれつ進んでいる事に気が付きました。突然、その歩行者は道のない方へ曲がって仕舞います。その方向を見ました。

「お鷹の道」から離れて流れていた「元町用水路」です。
元町用水(国分寺市)
住宅密集地の狭い合間を縫うように直角に折れながら流れてます。近づくとその人を再発見!川をぴょんと飛び越え先にある建物の中へ消えて行きました。その瞬間、町の見え方が変わりました。

ここまで「お鷹の道」と「元町用水路」を史跡、文化財として見て来ました。それが生活の場としての風景に変わりました。真福寺児童遊園地も地元の人からすれば生活の一部です。

歴史ある古い町並みでの生活に憧れを感じました。

次はお鷹の道遊歩道に入ります。

つづく…ほいじゃ

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水が集まる場所から【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(11)

狙って行けば見れる場所ですが、そうでないと出会わない場所があります。川と川が合流する場所です。国分寺市内で野川の源流と元町用水路という支流が合流する場所です。他に国分寺崖線から流れる水が集められています。
野川と元町用水の合流点(国分寺市)
野川は「日立製作所中央研究所」と「恋ヶ窪」の水を集め武蔵野台地を侵食してできた谷を通りここまでやってきます。一方で「元町用水路」は「姿見の池」や「武蔵国分寺」を源流とするハケの湧水が集められここまで来ます。

奥に見えるのが国分寺街道に架かる一里塚橋です。橋の下が煉瓦製とコンクリート製の2本の水路になっている点が特徴的です。2本に別れていますが先は1本に集約され野川として流れて行きます。
野川と元町用水の合流点(国分寺市)
他にもハケの湧水で生まれた暗渠となった支流が合流しています。現在、名が通る湧水以外にもハケからは水が出ていまし道路の雨水がマンホールの下を流れ崖下まで到達します。それらの水が集約された場所なのでしょう。

よく見ると鯉が泳いでいます。まさにハケの湧水でできた池です。
不動橋から見た野川(国分寺市)
野川はここまで武蔵野台地を侵食した谷間を通ってくるのですが、合流点横の不動橋から野川の上流方向を見ても谷を感じ取れません。一番の理由は建物で崖が面が見えなくなっているからでしょう。残念です。
元町用水(国分寺市)
「真姿の池」、「武蔵国分寺」からの湧水を集めて流れる「元町用水路」は不動橋付近では人工的な姿しか見せません。「名水百選 ほたるのすむ川 カワニナをとらないで!!」と書かれた看板が目に止まります。
お鷹の道(国分寺市)
水の集まる場所を後にして江戸時代に将軍が鷹狩の際に利用したと伝わる「お鷹の道」に入りました。「元町用水路」はすぐに道から外れ住宅街の間に消えて仕舞います。少し不安になります。
お鷹の道(国分寺市)
幾何学的な道はなく大小の湾曲を繰り返しながら「お鷹の道」は住宅街を縫っていきます。別の言い方をすれば「お鷹の道」沿いにできた住宅街を見ながらの歩行です。雪が激しくなり古道の情緒を演出してくれます。
ハケの道_迅速測図
明治前期に作られた迅速測図です。不動橋や国分寺街道はすぐに見つけられます。古地図上で「お鷹の道」を探すのは一苦労です。大方は当時の形で残っていますが今はない道や昔はない道もあります。

特徴的な点を2つほど挙げます。一つは崖線の下に集落があり崖線上にない点です。湧水の利用を考えれば当然かもしれません。二つ目は不動橋はハケと集落の境にあったことです。

「お鷹の道」を進んでいくと寺の名前が付いた不思議な公園に出会いました。そして、古くから集落があった場所へ…。

つづく…ほいじゃ

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一里塚、不動橋へ【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(11)

毎日の様に一つの地域について書いていると点と点が線でつながって来ます。今回は国分寺に通る昨今の道が合流する場所です。「お鷹の道」を目指して国分寺駅から「池の坂」を下りました。
国分寺一里塚と3道
【拡大できます。「ハケの道」=橙、「お鷹の道」=青、「国分寺街道」=赤】

カシミール3Dで「ハケの道」、「お鷹の道」、「国分寺街道」を描いてみました。坂下の「一里塚第2」の信号から「不動橋」辺りで3本の道が合流します。古の国分寺村の重要な場所だった様に見えます。
池の坂(国分寺市)
国分寺駅から「お鷹の道」へ案内版を辿り歩いて行くと台地が急激に落ち込んでいる所が見えてきます。「池の坂」です。ネット上の坂関係のページに「池の坂」は登場するのですが市史編纂室では認知していないそうです。
池の坂(国分寺市)
「池の坂」は距離にして約136m、高低差約10.6mの78‰の登山鉄道クラスの坂です。歩いた際に「坂だな~」と感じると勾配と湾曲して先が見えない風景が特徴です。個人的には好みの坂です。
一里塚と池の坂(国分寺市)
坂下まで下ると「一里塚第2」の信号があります。何街道の一里塚かと思い調べると国分寺街道でした。府中の大國魂神社を起点する街道の一本で現在の小平市まで続く道です。「東京都道133号小川山府中線」とも言います。
不動橋(国分寺市)
「国分寺街道」が野川と交差するあたりに「不動橋」があります。現在は木製ですが依然は石橋でした。橋の近くには石橋供養塔があります。石橋自体の供養と禍が橋を渡り村に入らぬよう防ぐ意味があると案内板にあります。
不動明王碑と庚申塔(国分寺市)
他にも石塔があります。写真の右側は庚申塔で1745年のものです。国分寺村講中11名が建てたものです。写真の左側は不動明王と刻まれた石塔です。いつ誰が建てたものなのか不明です。

国分寺村の重要な場所であったことは間違いないでしょう。

不動橋の横は「日立製作所中央研究所」から流れ出た「野川」と「真姿の池」から流れ出た「元町用水路」が合流するポイントでもあります。道のロマンだけでなく水のロマンもありそうです。

つづく…ほいじゃ

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野川でみた行政区分【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(10)

小金井市の貫井神社を南下して野川に合流しました。国分寺崖線から少し離れたので開けた風景に感じました。河原の風景に和ませられながら野川を遡り国分寺駅へ向かいます。
野川(小金井市貫井南町4丁目付近)
野川は国分寺市恋ヶ窪に複数の源流を持ち小金井市、三鷹市、武蔵野市、調布市、狛江市を経て世田谷区二子玉川で多摩川と合流します。延長20.5㎞の一級河川です。小金井市付近では河原が設けられ緑が映えます。
貫井南町4丁目古い野川
直線的で不自然に見えます。迅速測図の川筋、河川、道路の関係から推測した直線化工事前の野川をカシミール3Dに再現してみると昔の蛇行した流路が見えました。旧河道は道路となって残っているものです。
野川(小金井市貫井南町4丁目付近)
旧河道が蛇行した辺りが少し広目の河原になっています。小金井市内の野川の良いところは一部で河原を歩けることです。高度成長期に溝川と化した野川も今はカルガモがエサ取りできるまで回復しています。
野川(国分寺市東元町1丁目付近)
「鞍尾根橋」を超えると様相が一変しました。河原がなくなっています。コンクリートに囲まれた川と化していました。一番の理由は行政区域が変わったことです。国分寺市に入っていました。

ちなみに「鞍尾根」から北へ進むとある「くらぼね坂」の別名です。ハケ(国分寺崖線)の坂で尾根の様に見えることから「くらおね坂」とも呼んばれていました。
野川(国分寺市東元町1丁目付近)
市によって同じ川をまるで違う顔に変わって仕舞う事には驚きです。小金井市は野川を観光文化資源として活用しているために治水面の強化と合わせ景観やレジャー性を重視しています。

加えて小金井市は野川やハケに関係した観光情報を整理して上手に発信しています。一方で国分寺市は治水重視です。英家々が川沿いに密集していることも要因かもしれません。

国分寺市には武蔵国分寺や東山道武蔵路など知名度の高い史跡があるため野川やハケは優先順位で下になっている感も否めません。

何はともあれ小金井市の国分寺崖線と野川を体感できたことは収穫でした。今年中にハケの道と野川を辿り小金井市から調布市、三鷹市まで歩いこうと考えています。

今回の目的地は国分寺市なので…。

つづく…ほいじゃ

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古い道筋と貫井神社【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(9)

貫井(ぬくい)神社境内のハケ(国分寺崖線)から武蔵野段丘へ登れる階段がありました。地形好きならば99%登りたくなる道だと思います。古道好きにとってもそそるものがあります。
貫井神社(小金井市)
小金井市西端に位置して国分寺崖線の窪地に作られた貫井神社は湧水が安定的に流れ出る場所で水が絶えることはありません。豊富な水が長い年月をかけて崖を浸食してできたスリバチ地形です。
貫井神社(小金井市)
明治前期の迅速測図を確認しました。前々回のブログで紹介した「車屋の坂」と貫井神社境内から伸びる階段が描かれています。明治前期と言えばまだ江戸時代の風景が残っていた時代です。

不可解な点があります。貫井神社のところが愛宕社となっています。愛宕社(愛宕神社)は階段の上にある神社です。まだ神仏習合の感覚が残る時代で今も隣に残る真明寺の敷地と認識されたのかもしれません。

少なくと愛宕社は知られた存在だったのでしょう。ちなみにその数十メートル先には八雲神社があります。明治初期には存在したこの階段を「愛宕・八雲神社の階段(仮)」と表現させてもらいます。
貫井神社(小金井市)
愛宕神社まで登り切る手前に建物があります。木の板に「不動尊」と彫られています。不動堂の横にはお地蔵様が2体あり大きい方のお地蔵様は上部かけています。
貫井神社(小金井市)
刻まれた文字によると元禄12年(1699)頃に作られた様です。貫井神社の前身である貫井弁財天が真明寺の一部だった時代に作られたことになります。「供養地蔵講中二世安楽」と彫られています。

講中(こうじゅう)の意味をKotobankで調べると次の様です。「1講を作って神仏にもうでたり、祭りに参加したりする信仰者の集まり。」ということです。彼らが建てたお地蔵様という事なのでしょう。
末社愛宕神社 貫井神社(小金井市)
不動堂を出て真っ直ぐな階段の最上部にある愛宕社まで登り切ります。ここが迅速測図に書かれている愛宕社の様です。現在は貫井神社の末社になっています。見た目は簡素、情報はほとんどなく歴史は分かりません。
貫井神社(小金井市)
勾配差のほとんどない階段を経て数十メートル進むと八雲神社があります。ここも愛宕神社同様に簡素な造りで貫井神社の末社です。ここはハケの上、武蔵野段丘面です。

鬱蒼とした雑木林の丁度真ん中辺りにあります。道はさらに北へ続いています。
貫井神社‗現代MAPION
江戸時代の小金井市は幕府の天領でした。承応3年(1654)に玉川上水ができて分水が許可されると武蔵野段丘面は発展しました。享保年間(1716~1736年)にハケの下で武蔵野新田開発が行われました。

明治前期の迅速測図から推測するに水田は野川沿いに作られました。湧水が豊富なハケの下でも野川から一段高い微高地では畑として活用した様です。ハケの上の武蔵野段丘面も畑で玉川上水の水を活用した考えられます。

昔の地図を見た後に現代の地図を見ると色々なことが見えて来ます。

「車屋の坂」と愛宕・八雲神社の坂(仮)と道筋は当時からありましたが現在の様につながってなく別の道筋でした。また「車屋の坂」の南にある蛇行した現在の道路は直線化される前の野川の流れです。

貫井神社と野川は今よりも近い位置関係にありました。

古い道と古い流れを堪能した後は野川沿いを歩き駅に一旦戻ります。そして、お鷹の道を目指します。

つづく…ほいじゃ

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スリバチと湧水の貫井神社【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(8)

ここが小金井市の名前の由来になった場所です。貫井神社はその水が枯れずに湧き出ることから「黄金井(こがねい)」と呼ばれていました。2003年には「東京の湧水57選」にも選ばれています。
貫井神社(小金井市)
絶えず湧き出る豊富な水を貯めた弁天池が貫井神社の特徴のひとつです。崖上の武蔵野段丘面から貫井遺跡が発見されています。最大の遺跡は縄文中期から末期のものですが旧石器時代、縄文時代早期の遺物も出土してます。

ハケからの豊富な湧水により先史時代から人々は集落を営んでいました。
貫井神社(小金井市)
東京都環境局の東京の名湧水56選を紹介するページに次の様に書かれています。「国分寺崖線(はけ)の下の大きな岩の間から湧出。湧水量が比較的多く、枯渇せず、「小金井」の由来。周辺自然環境良好。」
貫井神社(小金井市)
貫井神社の東西と北は崖に囲まれています。神社の裏へ回ると崖が本殿を包み込んでいます。西側の崖は東側より切り立っています。武蔵野段丘に浸み込んだ水が浸食した窪地の様で今でも水のはけ口となっています。
貫井神社(小金井市)
貫井神社の創建は天正18年(1590)です。貫井弁財天が祀られました。明治8年(1875)に貫井弁財天は厳島神社と改称、さらに別の場所にあった貫井神社が合祀され現在の名称となりました。
貫井神社(小金井市)
スリバチ地形の外縁に水路が作られ湧水は流されています。一旦、中央の弁天池に合流し暗渠となり野川に流れ込みます。境内の西側にある水路を辿ると湧水が出る場所を見る事ができます。
貫井神社(小金井市)
西側の水路は神社の裏まであり東側の崖下にも続いています。湧水は複数ありそうです。また、スリバチ型の窪地であるため雨が降ると崖から水が流れ込み易い地形です。排水路は不可欠です。

水と地形の探索はここまでにして西側の崖にある気になる階段を登ってみよう…。

つづく…ほいじゃ

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車屋の坂と小金井風土記【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(7)

小金井市の坂は名前が簡単に検索できます。国分寺崖線沿いのほぼ全ての坂に名前があります。一方で国分寺崖線の由来までなった国分寺市は名前のある坂は少なく検索しても断片的な情報が目立ちます。
ハケの道(小金井市貫井)
国分寺市と小金井市の境にある「くらぼね坂」を横切り再び「ハケの道」へ入ります。小金井市の国分寺崖線に入りました。この辺りの「武蔵野段丘面」と「ハケの道」の高低差は11mほどです。
国分寺新次郎池-005
次の目的地は貫井神社です。有名な国分寺崖線の湧水のひとつです。神社は湧き水により浸食されたスリバチ地形をしています。そして、神社に至るまでの短い道中も興味深いものがあります。
ハケの道(小金井市貫井)
崖の急斜面が「ハケの道」近くまで迫って来ます。斜面には住宅が所狭しと並び人間の開拓精神と土木技術に脱帽します。ここは幅広い階段が設置され両側に比較的新しい住宅が整然と並んでいます。
ハケの道(小金井市貫井)
数十メートル進むと特徴的な階段があります。傾斜計で実測すると34度、674‰ある急な階段です。国分寺崖線に対して垂直に作られ崖線の傾斜を体感するのには持って来いの場所です。
ハケの道(小金井市貫井)
さらに数十メートル進むと斜めに崖線を上り下りする坂があります。先ほどの階段と坂は途中で合流しています。「車屋の坂」と検索で出てきました。上部でS字に曲がる距離約110~115m、高低差約16mの坂です。
ハケの道(小金井市貫井)
坂の名前の由来は水車です。「上の車」、「下の車」と呼ばれた鈴木家と秋和家がそれぞれ経営する二基の水車小屋が坂の脇にありました。貫井弁天前に通じる坂だったため弁天坂という別名があります。

坂に入ってすぐの所に庚申塔があります。

この辺りは享保年間(1716~1736年)に新田開発が行われました。明治中期までに作られた迅速測図にも「車屋の坂」の道筋は描けています。
貫井神社(小金井市)
寄り道をしながらもあっという間に貫井神社に到着しました。「車屋の坂」、「庚申塔」、そして「貫井神社」が隣接し歴史を感じさせてくれる地域です。ローカルな情報もネットで簡単に検索できます。

神社の境内は一段高い所にあります。背後には崖が迫り地形好きの期待値を上げてくれます。

小金井市の情報が充実している要因に芳須緑【よしずみみどり】(1908~1995)著の「小金井風土記」シリーズが上げられます。続編は「続小金井風土記」、「続々小金井風土記」まであります。

他にも「小金井風土記余聞」、「小金井の方言」など小金井の歴史、風土、風習を調べた書物を残しています。加えて行政も積極的に市の文化面を押しています。

現在、東京と周辺にある寺社の歴史が語られる時、その多くが「新編武蔵風土記稿」からの引用です。どこの地域にもいつの時代にも書き残す活動がなければ地域の文化は消えて仕舞います。

私も書き残す一人になれたらと思いつつ貫井神社へと進みます。

つづく…ほいじゃ

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新次郎池とくらぼね坂【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(6)

「ここだよね?入っていいの?」

「新次郎池」という妙な名前の湧水を目指して東京国分寺の「ハケの道」を歩いています。国分寺崖線にある東京経済大学が見え来ます。門の前に立つと「どうぞ入ってください。」という雰囲気です。
新次郎池 東京経済大学内(国分寺市)
門の近くに「公開空地・公開空間利用者の皆様へ」という看板がありました。大まか要約すると9:00~18:00に決めれた範囲で喫煙などをせずに自己責任で入ってくださいという内容でした。
国分寺新次郎池-005
【拡大できます。】

新次郎池は国分寺市で最も東に位置する湧水です。2003年に「東京名湧水57選」に選ばれています。言うまでもなく国分寺崖線のハケから湧き出た水です。水源は池を周囲に5ヵ所あります。
新次郎池 東京経済大学内(国分寺市)
敷地に入り谷底を進みます。まず見えるのが水の流れが暗渠となる場所です。池の方から流れて来た水で大学の敷地を出た後は道路の下を流され野川に合流します。野川の支流のひとつです。
新次郎池 東京経済大学内(国分寺市)
さらに進むと両側と前方を崖に囲まれたスリバチ地形になっています。右手には池から続く水路があります。大学の敷地になる前は山葵田(わさびた)として利用された場所です。

元々は赤坂葵町にあった学校がこの地に移転して来たのは1946年のことでした。空襲による焼失が原因です。
新次郎池 東京経済経済大学内(国分寺市)
新次郎池に到着しました。経済学者であり社会運動家だった北澤新次郎(1887-1980)氏が東京経済大学の学長だった昭和32年から昭和42年までに池として整備されました。新次郎池と呼ばれる所以です。
新次郎池 東京経済大学内(国分寺市)
池の上部を見ると斜面はさらに上へと続いています。国分寺崖線に露出する関東ローム層の法面です。ロームとは粘土質の土壌を指します。関東ローム層は風で巻き上げられた物質が100年で1cmという驚くべき時間をかけて体積した層です。

一般的には赤土ですが近1万年に堆積した層は色が黒く「黒ボク土」と呼ばれています。
新次郎池 東京経済大学内(国分寺市)
池の両脇はスリバチ地形らしく急な斜面になっています。大学がある西側の斜面は階段が設置されています。大学の構内と言うよりは山谷の光景です。池は標高59m辺りで標高70mまで続く崖に囲まれています。
新次郎池 東京経済大学内(国分寺市)
新次郎池には今でも清らかな水が湧いています。水量は季節によって変動するそうです。今回は水量が少ないと思わえる冬に訪れたので夏に来れば別の顔が見れと思います。

ここで新次郎池とお別れです。そして、東側の崖に注目しました。
くらぼね坂(国分寺市)
東京経済大学の門を出て東に「くらぼね坂」があります。新次郎池の東側の斜面の上に通る坂道です。尾根道の様に見えるためか別名を「くらおね坂」と言います。

国分寺市内の国分寺崖線の坂に殆ど名前はつけられていません。しかし、この坂は歴史がある坂なのか名前があります。

雨が降ると赤土で滑り易くなり歩いて登っても、馬(鞍)で登っても骨を折る坂だったため「くらぼね坂」と呼ばれる様になったという説があります。まさに関東ローム層ならではのエピソードです。

また、「くらぼね」とは段丘崖を意味する言葉だったという説もあります。

明治時代前期に作られた迅速速図にも載っている「くらぼね坂」は野川から始まり武蔵野段丘面に乗り切ったところで終わります。長さ240m、高低差19m、79‰(カシミール3Dによる計測)の坂です。

時間の都合上、残念ながらこの坂を昇り降りしながら堪能することはできませんでした。Sの字に湾曲する姿が魅力的な坂でした。次の機会にリベンジをしたい坂です。

次は小金井市内に入り貫井神社を目指します。ここにも国分寺崖線の湧水があります。

つづく…ほいじゃ

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ハケの道に入る【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(5)

長谷戸の緩やかな坂を下ると「ハケの道」に合流します。国分寺市が設定した国分寺駅を出発点として南下した後に国分寺崖線の崖下に沿いながら小金井市へ続く道です。崖を感じながら湧水巡りを楽しめます。

前回までに書いた殿ヶ谷戸庭園や三角台地「丸山台」の南側を通る道筋でもあります。
国分寺ハケの道-003
ハケとは崖の事です。まずは地形図の▲から東へと歩きました。谷戸や高低差のある地形を中心に歩いたため「ハケの道」に途中から合流しました。その後も一旦離れ再度合流する行程となりました。
国分寺ハケの道 坂
長谷戸の下り坂から「ハケの道」に合流してすぐの所に急な坂道があります。この道はハケの道でなく立川段丘面から武蔵野段丘面に上がる道です。標高差約15m、水平距離約115mの130‰の坂です。

この数字は坂下から坂上までの平均なので最も勾配がある所は数字以上の傾斜があります。
国分寺ハケの道
国分寺崖線が横切る国分寺市には多くの坂が存在します。しかし、ほとんどの坂や階段に名前がありません。調べを進めると隣の小金井市は「ハケの道」から武蔵野台地に登る坂のほとんどに名前がある事が分かりました。

とりあえず「ハケの道」を歩くために名無しの急坂を登らずに右へ曲がりました。
国分寺ハケの道
崖沿いの道は基本的には平坦ですが西に向かって徐々に標高を下げて行きます。左側に迫る崖を感じながらそこにある構造物、私道、公道を観察すると崖と人が共存する街の姿が見えてきます。
国分寺ハケの道 階段
これは行き止まりの坂です。坂の先に崖線を一気に上がる階段が設置されています。路面の状況から比較的古い道だと推測されます。坂下と階段上で標高差11mあります。参道の様にも見えます。

石垣を積んで土地を高くした様にも見えますし、崖を切り通して道が作られた様にも見えます。たぶん前者です、
国分寺ハケの道 階段
次に出会った崖線を登る道は公道です。崖線の傾斜を利用した地下ガレージがある家が角にあります。70mほど続き標高差が13mある坂です。185‰と急な坂です。この道も名前はない様です。

崖と構造物を楽しみながら「ハケの道」を進むと第一の目的地「新次郎池」が近づいて来ました。

つづく…ほいじゃ

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階段の宝庫~三角台地・丸山台【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(4)

丸山台は階段の宝庫です。東京の国分寺駅南東にある魅惑の三角台地は昔は丸山(台)と言われた様です。形成過程は前回のブログで紹介しましたが今回は台地上へのアクセスについて書きます。

丸山と言うだけあり勾配差があります。
国分寺三角台地丸山台
【Mapionより】
…公道の階段
…公道の坂
…私有地(推定)の階段(行き止まり)

台地上へアクセスする入口は8箇所あります。その内の75%、6箇所は階段が設置されています。車で登れる坂道は僅かに2本のみ、全体の25%しかありません。北か西の2本以外は選択肢はありません。

台地の法面にも多くの建物が建っておりおびただしい数の階段が確認できます。Mapionで掲載されている階段を数えると18もあります。一部は私有地だと思われます。まさに階段の宝庫です。
三角台地 国分寺丸山台(東京都)
最も東に位置する階段へ行きました。階段を登り切った所から東を振り返りました。視覚的に高低差を感じることができます。遠くにハケの道が崖下を通る国分寺崖線が見えます。山と認識された所以かもしれません。
三角台地 国分寺丸山台(東京都)
階段を登り下りしてみました。最大傾斜がある辺りで計測すると25度ありました。地図上では坂下が標高57m、坂上が71mあり水平距離約80mに14mの高低差があります。175‰、平均傾斜10度の道です。

階段と坂を組み合わせて登り易くしてあります。
三角台地 国分寺丸山台(東京都)
こちらは北東から台地へ上がる道です。階段は実測で傾斜角26度あります。三角台地・丸山台の法面に多くの家が建っているます。階段の横には地図上にない階段が連なっていました。
三角台地 国分寺丸山台(東京都)
こちらも北東の階段です。行き止まりです。石の劣化具合から古いものと推定できます。周りの家々も古い建物が多く他の面より比較的古い時代からあったと推定できます。なかなかの趣です。
国分寺三角台地
地形、坂、階段好きには魅力的な階段の宝庫です。時間の制約があり国分寺の三角台地・丸山台のすべてを歩けませんでした。機会があれば別の勾配も体感してみたいものです。

唯一残念なことは階段や坂の名前がないことです。

豊富な湧水が2本の谷戸を武蔵野台地に作り、人は道路を通すために2つの谷戸は結合しました。結果として急な崖に囲まれた三角台地が生まれました。

最後に丸山(台)という名前を裏付ける事が地図上で見付かりました。

北側の崖の丁度三角形の頂点にあたる所に丸山神社があります。余りにも小さな神社で通り過ぎた様です。宝暦5年(1755年)に創建にされ江戸時代は山神社、明治から丸山神社と呼ばれたそうです。

次は国分寺崖線のハケの道へ…。

つづく…ほいじゃ

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国分寺の三角台地に迫る【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(3)

この三角形の台地が気になります。底辺が約500m、縦方向に約250mの二等辺三角形に近い形をしています。まずは名前があるか調べました。丸山台と呼ぶそうです。鼻(岬)の形状をした土地に使われる名称です。

古い土地の名前を探る方法としてアパートや駐車場などの私有物や公園、通りなどの公共物の名前に昔の呼び名が使われてないか確かめて行くと見付かることがあります。
国分寺三角台地
三角台地の形成に興味をそそられます。左右に湧水があり川筋が存在したのでしょう。自然災害がきっかけに谷戸同士の敷居が崩壊したと想定してみました。答えは明治時代初期の迅速速図にありました。
迅速測図国分寺丸山台
明治時代初期までは三角台地は岬の先端でした。両側の谷戸はそれぞれが独立していました。西側に殿ヶ谷戸の湧水による谷があり東には現在の国分寺第二中学校付近から始まるが流れがあった様です。

国分寺駅から東へ伸びる道路を建設する際に谷戸の境は除去されてしまったのでしょう。
殿ヶ谷戸立体(国分寺市)
三角台地の先端に立ち北を見ると『殿ヶ谷戸立体』があります。JR中央本線と道路が交差する道です。開かずの踏切が問題となった中央線沿線です。立体交差を作るために線路下を掘る工事だったのでしょう。
丸山台と殿ヶ谷戸庭園の間の谷戸(国分寺市)
東側の谷戸は殿ヶ谷戸庭園の下と丸山台の間に形成されています。標高64台mから60m台まで下っています。殿ヶ谷戸庭園と丸山台の標高は72mです。西側の谷戸に比べ複雑な等高線でもあります。
国分寺丸山台_danmen1-001
丸山台の西側(国分寺市)
複雑な地形になっている様子は一本東側の道に現れています。丸山台から崖の法面を利用して緩やかな勾配の坂道が作られています。緩やかと言っても車が浮き沈みする様に見える道です。
丸山台の東側(国分寺市)
西側の谷戸は緩やかな傾斜になっています。野川の手前まで下ると長谷戸橋があります。この名前から推測するに長谷戸と呼ばれていたのでしょう。迅速速図による明治時代初期には樹林地でした。

谷戸が細過ぎて田んぼとしても利用できなったのでしょう。

次は丸山台の上へ…。

つづく…ほいじゃ

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水と多摩・殿ヶ谷戸庭園【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(1)

地形を見ると谷戸、殿は誰なのでしょう。殿ヶ谷戸庭園の名前の由来は庭園の辺りは殿ヶ谷戸という地名だったからです。地名の由来は何なんでしょう。「殿の谷戸」と解釈できます。
国分寺殿ヶ谷戸庭園
農村地帯では殿と言うと国人だった家系を指すことが多い様です。奈良時代に武蔵国分寺でき国人の子孫が国分寺周辺に代々住んでいても不思議ではありません。

接点はあるかは不明ですが平安末期から鎌倉時代の武蔵野国多摩郡を語る上で欠かせない武蔵七党の横山党や西氏との関係も気になります。八王子にも殿ヶ谷戸と呼ばれる地があります。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
明治時代前半に作られた迅速速図によると谷戸は田として活用され崖線は樹木地でした。大正時代になり貴族院の江口貞條(さだえ)が別荘を構え随宜園(ずいぎえん)と呼びました。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
昭和4年に三菱の岩崎彦彌太が別荘を買い上げて昭和9年に回遊式庭園に作り替えました。和洋折衷の木造主屋、庭園建築の紅葉亭、段丘上の芝生地、段丘崖下への道など現在見る姿が作られました。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
殿ヶ谷戸庭園で余り語られていない事はここの湧水が野川の源流の一つだということです。源流と言われる日立製作所中央研究所や真姿の池に比べると水量が少ないので支流と捉えられているのでしょう。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
切り立った崖の上にある紅葉亭ですが岩崎彦彌太の所有になってから作られた建物です。スリバチ状になった地形の底にある池を見下ろせます。昭和初期の姿を今に残しています。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
紅葉亭の横には井戸水を利用した『鹿(しし)おどし』があります。水流は見事に演出され崖下の池まで流れ落ち行きます。崖と水を巧みに活用した見事なランドスケープ設計です。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
高度成長期の開発の波が押し寄せる中で昭和40年代から保存を訴える住民運動が起こりました。昭和49年に都が買収して都立庭園として開園させまるに至りました。

平成23年までには国の名勝に指定されました。

園内には11基の馬頭観音が残されています。これらは別荘になる前からあったものです。実は古代から多摩地区は水に恵まれ馬の産地でした。現在、府中に東京競馬場があるのも偶然ではないかもしれません。

古代から現代までの東京多摩地区が殿ヶ谷戸庭園と水から浮かび上がります。

ほいじゃ

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裸の地形・殿ヶ谷戸庭園【国分寺フィールドワーク・スピンオフ編】(1)

この時期に来ると裸になった地形が見れます。東京都国分寺市の殿ヶ谷戸庭園は冬になると華やかさはありません。しかし、他に目を奪うものもなく国分寺崖線がより鮮明に浮かび上がります。
国分寺殿ヶ谷庭園
昨年の11月に東京スリバチ学会の国分寺フィールドワークに参加しましたが途中離脱となり改めて一人で訪れることにしました。家を出発した時に見た青い空は国分寺まで来ると消え雪雲に覆われていました。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
園内に入るとまず『大芝生』と呼ばれるエリアが視界に入ります。一見すると平らな武蔵野段丘面ですが崖で落ち込んでいるため先が見えません。木々により閉塞さえ感じられる不思議な空間です。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
『大芝生』を端まで歩くと崖線と台地の切れ目が鮮明に浮かび上がある場所があります。このスポットは武蔵野段丘の終わり国分寺崖線のはじまるところががはっきりと見えるところです。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
崖の法面を下って行きます。段丘面から段丘崖へ幾筋かの道が作られています。庭園の高いところで標高72m後半、低い所で61m台です。断面図にすると50mほどで約11.5mの高低差があります。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
『竹の小径』と呼ばれるエリアです。日本庭園としては珍しい孟宗竹が使われています。個人的には身近な種です。毎年、厚みがあり丈夫な孟宗竹で長さ10m以上の「流しそうめん」を作っています。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
スリバチ状に落ち込んだ底には『次郎弁天池』があります。国分寺崖線の豊富な湧水を活用して作られた人工の池です。これだけの水を敷地から得られるとは贅沢極まりない場所です。
殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)
切り立った崖の上にある『紅葉亭』から眺める『次郎弁天池』です。天然の地形を利用した見事な回遊式庭園です。国分寺崖線という素材を視覚的に演出した現代では稀な場所です。

次は殿ヶ谷戸と庭園と水について…

つづく…ほいじゃ

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長期天気予報 2014年3月~5月+8月までの寒暖予報

前回の「寒いぞ今年の冬! 長期天気予報2013年11月~2014年2月」は驚くべきほど当たりました。記録的な大雪が降り寒さも一入でした。3月1週目にも寒波が到来しました。

私が予報した訳ではなくTenki.jpの長期予報を読み解いているだけです。

長期天気予報2014年3月~5月」をTenki.jpの長期予報を基にチェックしていきます。今回の写真は見沼代用水東縁用水跡を公園化した見沼代親水公園の風景です。
見沼代親水公園(見沼代用水東縁用水跡)2013秋
基本事項として3ヶ月予報は「平年より低い(少ない)」、「平年並み」、「平年より高い(多い)」の3つの確率が棒グラフで示されています。(3つを足すと100%)

私は「平年並」と「平年より高い(又は低い)」を足した確率で気温と降水量の傾向を判断します。

ちなみに「平年並み40%」で、「平年より高い」と「平年より低い」がどちらも30%の場合は「平年並み」と傾向を判断することにします。

8月までの寒暖予報から見ましょう。

<2月~8月までの寒暖予報・気温>
北日本
↓↓平年より低い40%+平年並40%=80%

東日本
→(2月~8月)平年並40%

西日本、沖縄・奄美
↑↑(2月~8月)平年並40%+平年より高い40%=80%

北日本では冷夏になるのでしょうか?米の出来が心配です。東日本は平年並みです。電気料金も上がった今としては有難い限りです。西日本、沖縄・奄美は暑くなりになりそうです。

<3月~8月までの寒暖予報・降水量>
北日本太平洋側、日本海側
↑↑ 平年並+40%平年より高い40%=80%

東日本太平洋側、日本海側
→ 平年並40%

西日本太平洋側、日本海側、沖縄・奄美
↓↓ 平年より低い40%+平年並40%=80%

北日本は雨の日が多い冷夏と読み解けます。東日本は気温と同じく平年並みの春、夏が来るでしょう。西日本では雨が逆に少ない傾向です。水不足に陥り易い四国や中国地方が心配です。
見沼代親水公園(見沼代用水東縁用水跡)2013秋
さて3ヶ月予報です。

<2014年3月~5月までの3ヶ月予報・気温>
北日本、東日本
↓(3月)平年より低い40%+平年並30%=70%
→(4,5月)平年並み40%

西日本
→(3,4,5月)平年並み40%

沖縄・奄美
↓↓(3,4月)平年より低い40%+平年並40%=80%
→(5月)平年並み40%

北日本と東日本の3月は平年より低い気温ですが4,5月は平年並みになりそうです。西日本は軒並み平年並みです。沖縄・奄美では3、4月は平年より寒くなる予報になっています。

<2014年3月~5月までの3ヶ月予報・降水量>
北日本、東日本、西日本の太平洋側、日本海側
↓(3月)平年並30%+平年より高い40%=70%
→(4,5月)平年並み40%

沖縄・奄美
↓↓(3,4月)平年より低い40%+平年並40%=80%
↓(5月)平年より低い40%+平年並30%=70%

北日本、東日本、西日本の3月が要注意かもしれません。気温が低めで降水量が多めという事は標高の高い所で雪が降り易くなるとも考えられます。寒波が来れば平地でももう一降りあるかもしれません。

沖縄・奄美は3ヶ月間は雨が少ない予報となっています。
見沼代親水公園(見沼代用水東縁用水跡)2013秋
ただ、矛盾する事実もあります。それは1ヵ月予報です。直近の3月8日から4月7日までの予報ですが3ヶ月予報と違う点があります。1ヵ月予報のほうが直近なので精度が高いと見るべきか?

3ヶ月予報では北日本と東日本では平年より気温が低くなる予報になっています。しかし、直近の1ヵ月予報では北日本、東日本、西日本の気温はすべて平年並みです。

降水量に関しては本州全体の3ヵ月予報が平年より高い予報です。一方で1ヵ月予報は西日本日本海側を除き平年並みになっています。

この矛盾点をどう読み解くか?私はこう考えます。

予報は基本的に過去の実績から算出される傾向です。バラツキにより逆方向にブレたりする事もあります。期間内全体でみれば中心値は予測された確率に近いところで落ち着く傾向にあります。

一方で天気予報を見る側は行動計画を立てる上での参考にしたいのです。例えば冬服をいつ片付けるか?家族で遠出するのはいつにするか?など季節の変わり目の行動を決める重要な情報です。

よって、範囲と確率の高いブレ方向を重要視します。つまり、最悪の事態に対処できるようにする一方で範囲内のブレは許容できる行動計画を立てます。どちらに転んでも問題なしの状態にしておきます。

実際のところ関東地方では3月1週目は寒く、3月2週目は平年よりも温かくなりました。3,4週目は春に向かうと言われています。さてどうなるでしょうか?楽しみです。

ほいじゃ

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東山道武蔵野路跡と姿見の池【国分寺フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(7)

名も無き坂、階段、そして古道です。地球上に生まれた何十億人のほとんどが名も無きままこの世を去って行きます。道も現れたり消えたりします。中には後世に残る道もあります。
府中街道(西国分寺)
川崎と所沢を結ぶ府中街道です。西国分寺駅前を通っています。この道は江戸時代に整備された道と推測されています。明治前期の迅速速図によると国分寺駅の高台から現在の西恋ヶ窪の谷に道は通っていました。
東京 西国分寺の古道?
この道は中央本線の線路に阻まれた旧府中街道の道筋と推定できます。迅速測図を読み込んで行くと府中から西国分寺駅に至る道も現在の道筋と違い「伝鎌倉街道」と呼ばれる古道が使われたと推定されます。

何とも言えぬ寂しげな出で立ちです。しかし、建物もなく昔の様子を見ている錯覚を覚えます。
国分寺俯瞰2
西恋ヶ窪に残るこの古い道筋には平安時代末期の伝説にも登場する「姿見の池」や「一葉松」があります。当時は恋ヶ窪宿があり遊郭もあったと伝わっています。

近くには奈良時代の律令制下で作られた「東山道武蔵野路跡」もあります。
西国分寺 西恋ヶ窪 旧府中街道
江戸時代初期に玉川上水から恋ヶ窪分水が引かれました。この古い道筋沿いに北から恋ヶ窪用水が流れていました。そして、蛇行して現在「姿見の池」があるところを通り別の野川の源流と合流していました。

私はフィールドワークをここで途中離脱したました。離脱したとは言え自己の習性から西国分人駅へ向かう途中も道筋をつぶらに観察していました。
東京 西国分寺の坂
迅速速図によると明治前期の恋ヶ窪は谷下に幹線道路が通ったため武蔵野段丘面に登る坂は今ほどありませんでした。崖の法面は樹林地で段丘面は畑と樹林地が分布していました。

集落は街道沿いにあり段丘面にはありませんでした。名も無きこの階段は歴史的に見て新しいものです。
東京 西国分寺の階段
たぶん名前はないでしょう。崖沿いを歩くと坂がありました。明治時代前期までは少なくとも樹林地だったところです。もしかしたら樹木の中に地図にない人一人が通れる小道があったかもしれません。

坂下の標高は71m前後で府中街道まで登ると77m台です。84‰(高低差6.8m、距離100m)の坂です。
東福寺横の坂(国分寺市)
この坂だけ今迄の階段や坂と違い迅速速図に載っています。東福寺の横にある坂です。坂上近くには稲荷神社があります。街歩きをしている人ならば蛇行する様子と寺社の配置から古い坂だと直感するはずです。

坂下の標高は69m台で府中街道まで上がると77m台です。80‰(高低差8m、距離81m)の緩やかな坂です。
西恋ヶ窪 東福寺(国分寺市)
東福寺には野川の源流の一つだった湧水があった様です。案内板の古い川筋によると崖の法面辺り、現在の東福寺本堂付近から水が流れていた様です。東福寺の本堂付近からは一段高い所にあります。

恋ヶ窪用水(分水路)ができる前から谷は浸食されていた訳ですから他にも湧水があっても不思議ではありません。
西恋ヶ窪 東福寺(国分寺市)
突然、写真が昼間から夜に変わったと気付いた方もいると思います。実を言うとフィールドワークを途中で抜けたため2014年3月のとある午後から雪が降った日に国分寺を再度訪れました。

フィールドワークの際に配られた地図を参考にして行けなかった場所を探索しました。この様子は一回別のブログを挟み紹介します。ひと言で表すと国分寺崖線と豊富な湧き水を巡る小旅行でした。

ほいじゃ

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恋ヶ窪の昨今~姿見の池、恋ヶ窪用水、武蔵野路【国分寺フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(6)

まさかこの何げない谷にこれだけの歴史があるとは…。東京都国分寺市の恋ヶ窪地区にある「国分寺姿見の池緑地保全地域」です。「恋ヶ窪用水(恋ヶ窪村分水)」、「姿見の池」がある所です。

明暦3年(1657年)に玉川上水から灌漑用に引かれた水路でした。
恋ヶ窪用水 東山道武蔵野路跡(国分寺市)
高度成長期の昭和40年代に「恋ヶ窪用水」は暗渠化され「姿見の池」は埋立てられました。平成10年に「国分寺姿見の池緑地保全地域」として用水と池が復元されています。

バブル後に我に返った日本人は自らの手で壊した自然を取り返そうとしています。対極的な存在が日立製作所中央研究所です。昭和17年以来、一企業により武蔵野の自然は大事にされて来ました。
迅速測図 国分寺
迅速測図を確認すると明治時代は典型的な谷戸の風景であった様です。窪地は田んぼとして利用され明暦3年(1657年)に玉川上水から引かれた恋ヶ窪村分水が田の南縁を流れていました。

しかし、「姿見の池」は見当たりません。江戸時代より前は今よりも大きな池だった場所の様です。谷戸は洪水による逆流で土砂が塞いでしまい水が溜まっていた様です。
姿見の池(東京都国分寺市)
その後、上流からの土砂の流入で池は縮小し沼地化していったと推測されます。谷が狭くなる西武国分寺線あたりで水が止められていたとも推測できます。自然の一級スリバチだった可能性があります。

「姿見の池」の由来は次の様です。恋ヶ窪は鎌倉街道沿いの宿場町でした。遊郭があり遊女はこの池に姿を映していたという言い伝えから生まれました。
姿見の池(東京都国分寺市)
恋ヶ窪伝説は平安末期まで遡ります。源頼朝に仕えた畠山重忠は鎌倉街道の恋ヶ窪宿で遊女の夙妻太夫 (あさづまたゆう)と出会い二人は深く恋に落ちます。畠山重忠が出陣している間に仲を裂こうとした男が出来ます。

「戦死した」と嘘を伝えると夙妻太夫は悲しみ「姿見の池」で入水自殺します。地域の人は哀れに思い手厚く葬り墓印に松を植えました。すると珍しい「一葉松(ひとはまつ)」が生えてきました。
恋ヶ窪用水 再現(東京都国分寺市)
現在は「一葉松(ひとはまつ)」は枯れ東福寺に枝を植継いだ数本が植えられています。ひとつ分からないのは畠山重忠が戦場から戻り事実を知った後に建てた無量山道成寺がどこかです。近くには東福寺があるくらいです。
東山道武蔵野路跡恋ヶ窪地区(東京都国分寺市)
奈良時代には恋ヶ窪の谷戸を横切る様に東山道武蔵野路が通っていました。東山道は律令制時代に曳かれた「五畿七道」という都から各地へ続く古代の幹線道路です。特徴は直線的な道であったことです。

幅は12mある広い道は谷や台地があろうが真っ直ぐに作られています。政権の力を示すには十分過ぎるインフラ整備だったのでしょう。都から続くこの道は恋ヶ窪の南にある国府(現在の府中)へつながっていました。
国分寺恋ヶ窪-001
宅地化された街並みと再現された自然が現在の恋ヶ窪でした。昭和40年代に「姿見の池」が埋められた理由のひとつは湧水の低下でした。急激な都市化で地下水が減少したためとされています。

ところが、1991年に隣の小平市で武蔵野線新小平駅が大量の地下水で水没して数ヶ月も使えなかったことがありました。また、武蔵野線トンネル横の西恋ヶ窪三丁目でも地下水が湧き出て住宅が床下浸水しました。

実際は豊富な地下水が存在したということです。

平成12年にこれらの地下水を「姿見の池」及び「野川」へ導水することに国分寺市、東京都、JR東日本が合意しました。平成14年までに工事を完了させました。

これにより池と用水路の水量を増すことになり現在の清らかな流れがあります。

奈良時代、鎌倉時代、江戸時代、明治時代、現代の恋ヶ窪を紹介しました。人の営みがずっとあったエリアです。当然ながら先土器時代の遺跡も付近から出土しています。

現代人は恋ヶ窪をどのような形で次の時代に引き継ぐのでしょうか?

行政が高度成長期に失われた地下水の保全にも乗り出しています。一度は失われた自然は少しずつ復活して来ていてる様です。

つづく…ほいじゃ

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恋ヶ窪の水路【国分寺フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(5)

勾配がはっきり分かる道です。日立製作所中央研究所を出て南側に回り込み「姿見の池」を目指します。武蔵野台地に食い込んだ谷を複雑です。人工的な線路による盛土が加わりさらに複雑です。
恋ヶ窪地区(国分寺市)
フィールドワークの一行は谷へ吸い込まれて行きます。恋ヶ窪を流れた水が長い年月をかけて武蔵野台地を浸食した跡です。現在は中央本線が南を塞ぎ、西武国分寺線が谷を横切る形で四方囲まれた一級スリバチです。
国分寺俯瞰2-001
【拡大できます】

地形図でみると谷はY字になっています。歩いているところは日立製作所中央研究所の大池の西側(左)にある谷です。東側(右)の谷は研究所内の返仁橋が架かる谷です。自然の芸術とも言える美しい形状です。
国分寺駅北口の野川の源流
西武国分寺線の線路下を通り抜け西へと進むと住宅街です。水路らしきものが見えたので近寄って見ました。勾配から考えると西側の「姿見の池」から来ている流れです。台風時の水嵩が気になります。
国分寺駅北口の野川の源流
住宅のすぐ横を水路がある風景は高度成長期以前の東京では珍しくなかったかもしれません。都内の多くの川や水路は暗渠化され今は地中を流れています。写真の様に階段と水路が混在する水と密着した生活がありました。
恋ヶ窪地区(国分寺市)
この水路は平成14年に完成した「姿見の池」の湧水と「恋ヶ窪用水」の流れを合流させた水路です。中央本線の線路手前で野川と合流しています。

この水路が整備された理由は豊富な湧き水がある所以で存在したある問題からでした。姿見の池で分かります。

つづく…ほいじゃ

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日立製作所の活動【国分寺フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(4)

2010年に創業100年を祝った日立製作所と言えば「この木なんの木、気になる木」です。2010年に「生物多様性保全につながる企業のみどり100選」に選定されています。
日立製作所中央研究所 秋の一般公開2013
日立製作所中央研究所の一般開放日は春と夏に2回行われ多くの人々が訪れます。初めて行き驚きました。多くの人々が武蔵野自然に関心を持っているとは日本の未来もまだ捨てたもんじゃありません。
日立製作所中央研究所 秋の一般公開2013
日立製作所は一般公開日を「地域交流」の一環として位置付けています。近年は多くの企業が工場見学などで地域のみならず一般の人々に活動を公開しています。しかし、自然というテーマはユニークです。
日立製作所中央研究所 秋の一般公開2013
中央研究所内にある野川源流は武蔵野自然や地形を理解する上で貴重な財産です。昭和17年の研究所設立以来、守った自然です。営利団体が持続的に自然保護活動を行なっていることは今後さらに評価されるでしょう。
日立製作所中央研究所 秋の一般公開2013
日立製作所は2007年に「環境ビジョン」を発表しています。「地球温暖化防止」、「資源の循環的な利用」、「生態系の保全」を掲げています。環境技術の開発に余念はなく海外でも砂漠の緑地化など行っています。
日立製作所中央研究所 秋の一般公開2013
2010年にはWBCSD(World Business Council for Sustainable Development : 持続可能な発展のための世界経済人会議)の「Ecosystems Focus Area」のコアチームに加入しました。国内のみならず国際的にも活動を広げています。
日立製作所中央研究所 秋の一般公開2013
社会貢献は持続的に成長を望む企業にとって不可欠な要素です。足元の「地域交流」はもちろんのこと「自然保護」は企業が利益を社会と歴史にとって正しく得て分配している証しになります。

破壊して利益を儲けるだけの企業では顧客の心からの支持はないでしょう。「数百年の時」や「持続可能な社会」を考えた企業だけにできることでしょう。

つぎは研究所を出て姿見の池へと歩きます。

つづく…ほいじゃ

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大池と国分寺崖線【国分寺フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(3)

東京都は山間部を除いて自然はなくなっていると思っていました。そんなことはありません。国分寺にはしっかりと残されています。清らかな水が湧出て貯まる姿を見て安心しました。

日立製作所中央研究所の大池です。
大池と野川源流(日立製作所中央研究所)
日立製作所中央研究所の敷地に国分寺崖線が通っており野川の源流は大事にされています。全長20.5㎞の多摩川水系一級河川の野川は国分寺市から世田谷区まで流れた多摩川と合流します。
大池と野川源流(日立製作所中央研究所)
研究所内にいくつかの湧水があるそうです。実際に湧出る所は見れません。水は昭和33年に完成した「大池」に一旦集められます。そして、一本の水路にまとめて敷地の外へと流れ出します。野川のはじまりです。
大池と野川源流(日立製作所中央研究所)
崖線の事を地元の言葉でハケとかママとか言います。国分寺崖線には野川に合流するいくつもの湧水があります。研究所内のハケの湧水野川の中心的なものです。それ以外の代表的な湧水は御鷹の道にある「真姿の池」です。
大池と野川源流(日立製作所中央研究所)
2013年11月の秋の一般公開日の写真です。腕に頼らずとも良い写真が撮れます。東京都の中央線沿線というよりは山間部の静かな湖畔の様な写真です。東京多摩の自然はこれからも大事にしたいものです。
大池と野川源流(日立製作所中央研究所)
多摩地区の湧水がすべて残っている訳ではありません。神田川の源流として知られる井の頭公園の湧水「お茶の水」は高度成長期に枯れて今は井戸水を深い所からくみ上げています。国分寺崖線の貴重さが分かるでしょう。
広場の勾配(日立製作所中央研究所)
国分寺崖線の成り立ちは多摩川の旧河道だったと言われています。更新世(258万年~1万年前)に今よりも北側を流れた多摩川が武蔵野台地を浸食した跡です。その後に流路は南下します。

敷地内からは先土器(~16000年前)の遺跡が発見されています。武蔵野の古代日本人は多摩川の流れが崖線を削る様子を見ていたいのかもしれません。
野川源流(日立製作所中央研究所)
中央研究所内の崖線を登って行くと下から乱反射する光が目に飛び込みました。前のブログで紹介した谷から流れる湧水とは別です。すべての湧水を分け入って探したい衝動にかられます。
広場の勾配(日立製作所中央研究所)
国分寺崖線の上の武蔵野段丘まで上がりました。敷地内からは先土器時代だけでなく縄文、弥生時代の住居遺跡も発見されています。この辺りは奈良時代に武蔵国分寺として栄えた文化の中心地です。

営利団体にも関わらず素晴らしい光景を維持しいます。日立製作所には感謝します。国木田独歩が『武蔵野』で描いた武蔵野の山林を思わせる数少ない場所です。

つづく…ほいじゃ

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研究所に残る自然と文化力【国分寺フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(2)

「よい立木は切らずに、よけて建てよ」という精神があります。東京都国分寺市の株式会社日立製作所中央研究所です。武蔵野台地の切れ目にあり国分寺崖線が敷地を横切っています。
国分寺俯瞰2-001
【拡大できます】

地形図を見ると研究所内を南北に谷が通っています。そして、大池があり全長20.5㎞の野川の源流の一つとなっています。会社内に多摩川水系一級河川の源流があるとは羨ましい限りです。
返仁橋(日立製作所中央研究所)
日立製作所中央研究所の入口から100mほど進むと橋が架かっています。「返仁橋」です。興味を持ち調べてみると読みは「へんじんばし」で元々は「変人橋」と書いた様です。
返仁橋(日立製作所中央研究所)
日立グループで1953年に『変人会』が設立されています。日立創業者の一人である馬場粂夫博士(1885~1977年)の開拓者精神から来ています。博士号取得しさらに高みを目指す人材を育成する会です。

「高度な発明は変人以外期待し難し」と考え『変人会』と付けたのですが世間体が悪く1959年に『返仁会』と改名されて仕舞います。残念です!ケンブリッジの様に変人が尊敬される学会であって欲しいものです。
野川源流の谷(日立製作所中央研究所)
橋の由来は深いものだけでなく橋の下の谷間も同様です。底には谷の奥から流れる野川の源流があります。源流の湧水は一般公開されていません。ブラタモリで特別に撮影されていました。
野川源流の谷(日立製作所中央研究所)
研究所内を通る国分寺差崖線を下ります。すると先程の流れが再び現れます。今度は近くで見られるので水の清らかさが伝わります。東京都内の平野で原始的な川筋が見られるのは極稀で貴重な場所です。
大池の広葉樹林(日立製作所中央研究所)
国分寺崖線を下り大池に沿いに蛇行する小道を行きます。広葉樹林に包まれ日本の原風景と感じられる場所です。古の武蔵野もこうだったのでしょうか。研究所と全体としては120種27000本の木々に満たされています。
大池の広葉樹林(日立製作所中央研究所)
一企業がこれだけの自然を維持していることは驚きです。効率やコストなど他の企業が所有していれば有り得なかったのかもしれません。普遍的な精神が貫かれる企業文化が必要です。

長く残る企業の研究をしていると『文化』というキーワードが出て来ます。

企業が提供する商品やサービス自体が生活の一部となり文化となることです。その様な企業は文化や地域社会への関心が高いのも特徴です。貫き続ける普遍的な精神を持っています。

日立製作所は電機業界が破壊的な打撃を受けた時も利益を出していました。コアコンピタンスとドメインがしっかりとした企業です。そして、『文化力』が違うのかもしれません。

つづく…ほいじゃ

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国分寺崖線と武蔵野段丘【国分寺フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(1)

東京の多摩地区の地形を理解する上で多摩川が軸に見ると分かり易くなります。多摩川の沖積低地から南側は幅の狭い河岸段丘と多摩丘陵があります。北側は幅の広い段丘と崖線の織りなすダイナミックな地形が特徴です。
東京多摩の地形
東京多摩地区の地形【拡大できます】

立川(府中)崖線が多摩川の沖積低地と立川段丘の境界になっています。立川段丘と武蔵野段丘の境は国分寺崖線になっています。立川段丘は洪水の恐れが少なく国分寺崖線の湧水も豊富で古代から発展した土地です。
国分寺駅北口
2013年11月の東京スリバチ学会『国分寺フィールドワーク』が開催されました。1889年(明治22年)に甲武鉄道(現在の中央本線)ができた当初からある国分寺駅北口に集合しました。
国分寺俯瞰
国分寺駅を中心とした地形【拡大できます】

南口は昭和31年(1956年)にできました。当時は北口に比べ発展は遅れ江戸時代さながらの風景が広がっていました。現代でも南口は緑と史跡が多く残る地形的、歴史的に魅力的な場所です。
柄鏡形敷石住居跡
国分寺駅北口から西に向かいフィールドワークの一行は歩き始めました。ここは武蔵野段丘面です。一般的には湧水が豊富な国分寺崖線の下(立川段丘面)に太古から人の営みがありました。

しかし、国分寺駅北口から西側へ行った辺りは違います。地形を見ると野川の源流が台地を浸食して谷を形成しています。谷横から柄鏡形敷石住居跡という今から4千年前(縄文中期から後期)の遺跡が見付かっています。

武蔵台遺跡公園の柄鏡形敷石住居跡は都営国分寺四丁目アパート建設時に発見され隣の敷地に再生復元されたものです。遺跡は南北5.6m、東西3.8mの円形で深さは50cmあります。
株式会社日立製作所中央研究所入口
この日は株式会社日立製作所中央研究所の一般公開日でした。年2回春秋に開催されています。研究所の敷地内には野川の源流と浸食された谷間があります。

また、ハケと地元の言葉で呼ばれる国分寺崖線の一部を含んでいます。古の武蔵野風情を残した貴重な場所です。

つづく…ほいじゃ

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夜の新富町と陰影【東十条・王子・駒込フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(28)

夜だからこそのインパクトでした。仕事で通ったことのある新富町の踏み入っていない領域を歩きました。駅周辺とは一線画しています。湊2丁目です。
夜の新富町(東京)
DEEP東京というサイトにも掲載されています。バルブ期に地上げ屋が暗躍した場所です。街はズタズタに引き裂かれた状態になり廃墟の様に見える街並みに今も人々の生活は続いています。
minato2.jpg
UR(独立行政法人都市再生機構)により再開発が進められた地区です。予定では2棟のビルが建ち一方は地上37階、高さ133mの高層ビル(B街区)です。完成すれば現在の姿が一変するのは確実です。
夜の新富町(東京)
今は地上げにより歯抜けになった街並みが続いています。寂しさよりも侘しさを感じて仕舞う情景です。都心部としては珍しく空襲の被害がなかった地区もバブルの襲撃に燦燦たる状況です。
夜の新富町(東京)
江戸時代には本湊町として湊河岸などがあり栄えた町です。現在ではかつて多くあった紙業倉庫などの町工場が部分的に残る程度です。再開発と抵抗する住民の狭間で街の新陳代謝は止まっています。
夜の新富町(東京)
はぎ取られた街の一角から佃島を眺めると近代的な都市が対照的に浮かび上がります。大川端リバーシティーです。URと三井不動産が石川島播磨重工業跡地を再開発をした地区です。

117mから180mの摩天楼が8棟並んでいます。これが未来の新富町かもしれません。
新富町
忘年会を行う場所としては実に興味深い場所です。街歩きと言っても歴史、地形、だけでなく建物や街そのものを楽しむ分野もあります。特に古くなりいつなくなってもおかしくない建物は見るのは今しかありません。
夜の新富町(東京)
忘年会後に新富町駅へ向かう一行はとある建物に立ち寄りました。昭和6年(1931年)に竣工した正金アパートです。耐震基準を満たさずに建て替えが決まっています。

あのエンパイア・ステート・ビルディングと同期です。

古いものがなくなって行く姿は悲しいものがあります。街の新陳代謝はある程度必要ですがバランスを崩すと文化が失われていくような気がします。

完…ほいじゃ

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小さな谷と神社と空襲【東十条・王子・駒込フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(27)

最後は名も無き小さな谷戸でした。東十条から駒込まで歩いたフィールドワークも最終セクションに入り旧古川庭園、霜降銀座商店街を経て蛇行しながら駒込駅を目指しました。
komagome2.jpg
本郷通を駒込方面へ向かうと妙義坂があります。ここは古の石神井川が武蔵野台地を浸食した谷から台地へ上がる坂です。しかし、妙義坂を登らずに路地へ入りました。そこには小さな谷戸がありました。
妙義神社へ(豊島区)
横道にそれたら谷間だった…。武蔵野台地で構成される都心部に多い光景です。ここは旧石神井川が武蔵野台地を削ってできた谷間です。大きな谷の横にさらに小さな谷間がある興味深い場所です。
妙義神社(豊島区)
妙義と言えば群馬の妙義山ですが駒込の妙義神社は関係がない様です。『新編武蔵風土記国稿(1828年)』には日本武尊が東征の際に陣営を構えた所を651年に白鳥社と称した書かれています。

豊島区最古の神社です。

また、太田道灌(1432~1486)が3度の合戦の前に戦勝祈願をしすべて勝利したことから「戦勝(かちいくさ)の宮」として信仰を集めました。残念ながら妙義の名の由来は分かりませんでした。
妙義神社 庚申塔(豊島区)
江戸時代初期にこの地域で信仰を集めていた証しが残っています。寛永19年(1642年)に建立された庚申の碑です。昭和40年(1965年)の神社復興工事の際に発見されました。

ちなみに『新編武蔵風土記国稿(1828年)』には寛文2年の庚申の碑もあったと書かれています。しかし、こちらは見付かっていません。戦災で失われたと推測されています。
妙義神社から駒込駅へ(豊島区)
小さな岬状の台地上にある妙義神社を出て小さな谷底まで戻りました。そして神社の古道は無視して谷間の最も低い道を登って行きました。東京スリバチ学会らしいルートです。
妙義神社から駒込駅へ(豊島区)
明治初期の迅速速図を見ると谷間には建物はまばらで畑に使われてなかった様です。谷底の道も明治時代にはありませんでした。建物を観察すると昭和のテーストが残されています。

昭和20年4月12日から13日の空襲で駒込、巣鴨、大塚、池袋は焼野原になりました。駒込駅近くの妙義神社と小さな谷戸も例外ではありません。この街並みは戦後に作られたものです。
大國神社(豊島区)
小さな谷戸を抜けると駒込駅の前にある大國神社がゴールでした。天明3年(1783年)に大島家が邸宅と共に大黒天を遷座しました。神社の形態になったのは明治12年(1879年)です。

德川11代将軍家斉公が将軍職を継ぐ前から信仰していたため「出世大黒」と呼ばれました。ちなみに大國神社も昭和20年4月の空襲で焼け戦後に再建されています。
131207tour.jpg
東十条駅から駒込駅まで歩いたフィールドワークのゴールです。全体像を地形図にしてGPSの軌道を載せると武蔵野台地の上、東京低地の際、渓谷、谷間など様々な地形を歩いたことを実感できます。

破壊と再建が何度も起きた東京はほとんどが過去の姿を残していません。そこに面白味があります。推理する余白があるからです。江戸時代以前は記録も少なくはっきりしません。

しかし、先土器時代から現代まで人の営みがあり続けた場所です。徳川家康入府と大規模開発、江戸の大火と再開発、関東大震災と再開発、空襲と高度成長期の開発と破壊と創造の連続です。

だからこそ点と点をつなげる楽しさがあります。

12月だったこともありフィールドワーク後は新富町で忘年会がありました。まさかそこでも街歩きもするとは…。

つづく…ほいじゃ

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川の上の商店街【東十条・王子・駒込フィールドワーク(東京スリバチ学会)】(26)

3年前は公で暗渠という言葉を控えていました。当時書いたブログには「川を地中を流す工事が完成」と直接的な表現を避けていました。理由は暗渠という言葉が市民権を得ていないと思ったからです。

その後、人々がブラタモリに興味を持ち市民権を得えて来たと感じ解禁しました。
komagome2.jpg
旧古河庭園を出たフィールドワークの一行は本郷通りをそのまま進まず蛇行しました。訳がありました。暗渠となった谷田川がを歩くためです。知る人ぞ知る霜降銀座商店街です。
霜降銀座
以前のブログを引用します。「ここは昭和の初期まで谷田川が流れていました。昭和15年に川を地中を流す工事が完成しました。新しい道路ができるとそこにお店が集まり昭和31年には商店街として成立しました。」
霜降銀座
テレビで取り上げられることもあり都区部では人気の商店街のひとつです。全国で商店街がシャッター通りとなる状況の中で昔ながらの町並みが残る駒込で今でも多くの人々を呼び込んでいます。
IMG_2813.jpg
昭和初期に陸地測量部が作成した1万分の1の地図に谷田川が描かれています。この時点で谷田川周辺は商店街宅地化が進んでいました。同時に下水を直接川に流していたため悪臭がひどい状態でした。
IMG_2814.jpg
昭和30年代の地理調査所が作った1万分の1の地図には谷田川は地図から消えています。暗渠化された理由は生活排水による汚染に加え大雨の度に起きる都市型洪水のためです。
本郷通り 西ケ原霜降橋商店街
霜降商店街を抜けると本郷通(岩槻街道)に出ます。古地図によるとかつて都電が行き来していました。谷田川は街道を横切り不忍池へと流れていていました。

本郷通には霜降橋という土橋があり今でも交差点やバス停に名が残っています。
本郷通り 西ケ原霜降橋商店街
暗渠となった谷田川沿いと周辺は商店街が多い場所です。写真は本郷通り沿いにある屋根付きの西ヶ原霜降橋商店街です。本郷通を駒込駅へ進むと途中から駒込駅前通り商店街になります。

谷田川を上流から見て行くと西ヶ原銀座商店街、染井銀座商店街、霜降商店街と続いています。本郷通を超えしばらく行くと田端銀座商店街があります。「◯◯銀座」が多い点も見逃せません。

ひとつ言えることは江戸時代より前から街道があり相応の人の営みがあったことが想像できます。

明治中期までは畑が多い場所でしたが軍需工場ができたり人々が郊外へ住み始めたりと人口が集中する場所となりました。都市化による暗渠化は必然だったのかもしれません。

今は水の流れは見えずとも谷田川は確実に足元を流れています。

つづく…ほいじゃ

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