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【まとめ】台地に名前を!「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」(26)

「言語化すると実体化されます。言葉に出して表現することで認識されます。その時点で社会で実体化していきます。

新約聖書にも「はじめに言葉あった」という文があります。般若心経の「色即是空空即是色」でも認識と実体という点では同じ事を言っていると考えています。

東京のスリバチ地形は最たるもので皆川会長が言葉にして人々の認知が始まりました。
hiyoshidai2.jpg
この台地の名前は何?東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」をまとめていて1番悩ましい事でした。地形ごとの固有名詞がはっきり分かりませんでした。

名前はあるはずです。今昔の住人は固有名詞により場所を識別したはずです。

しかし、現在の行政区割りでは個々の地名を指す名前が失われた様です。憶測ですが新興住宅地に山という名前を避けた所もあるかもしれません。
hiyoshida_fukan_dai1.jpg
下末吉台地の先端に位置する日吉は台地と水が湧き出る谷に恵まれた豊な地形です。縄文、弥生、古墳、それぞれの時代の遺跡が見付かっています。

明治、大正、昭和の行政区画変更や高度成長期の急速な発達が相まって昔から存在した地名が薄れて行ってます。

台地と地形にそれぞれ名前を!昔を掘り起こす時期は今でしょう。

名前がなければただの高い所、低い所です。名前があれば台地や谷に個性が生れ豊かな地形として認知されます。モッタイナイことにしたくない…。
日吉(横浜市)大きな谷戸2
横浜市港北区日吉と川崎市中原区井田が尾根道で行政区間を分かれる「台地(図の奥)」は難儀でした。今使えるネットで検索では十分な情報が得られませんでした。

手に入る10,000分の1以下でも調べましたが分からず仕舞でした。

詳しい方の協力もあり「台地」は井田山と呼ばれ地形ごとに個々の名前があることも分かって来ました。そして、調べながら過去に纏わる事柄を地図にプロットして行きました。

1、下末吉台地に分布する遺跡群
2、古い地名
3、昔、神社や寺があった場所
4、上記を融合し台地名や谷戸名を絞り込む

一昔前の「大字+小字」を組み合わせた名前もヒントになります。地名に過去の名前が含まれていない場合は公園や施設に残る呼び名をヒントにして読み解きました。

1、現在の地名をヒントとして調べる

2番以降はこれから挑戦したい事です。

2、地名辞典など過去の調査結果から調べる
3、郷土史資料館、地元図書館の活用して調べる
4、研究者や昔を知る人からの聞取り調べる
ida_chimei2.jpg
「中原区市民健康の森」の横にある岬や井田病院がある所には丸山や平台と言われた様です。川崎市の地名辞典で調べて頂いた情報です。

「蟹ヶ谷」と「中原区市民健康の森」の間にある台地を伊勢台と言います。井田伊勢台遺跡がヒントになりました。調べると伊勢の由来は伊勢宮(大神宮)があった所でした。
ida_chimei1.jpg
ちなみに伊勢台から神庭遺跡、井田伊勢台遺跡、蟹ヶ谷古墳群が見付かっています。太古の中心地だった可能性が見えて来ます。

神庭遺跡(現在:中原区養学校):
 大規模な集落遺。縄文、弥生、古墳時代の遺跡が重なる様に発見された。
井田伊勢台遺跡(現在:井田伊勢台公園):
 弥生時代の墓を伴う住居跡。
蟹ヶ谷古墳群(現在:神庭緑地):
 6~7世紀頃の3基の古墳。1基は市内で現存する唯一の前方後円墳。

蟹ヶ谷は昔、神庭と呼ばれたところとされています。古い地名には谷底にある四方嶺があります。反対側の台地の名前は今ある崎が付く地名「鑓ヶ崎」かもしれません。

これらの事実が近隣の場所の推測に役立ちます。
hiyoshifieldwork131026route.jpg
地形を話す時に名前で呼びたい!この地図を完成させたい!

川崎市、横浜市の図書館で調べ、地図に地形ごとの名前で埋める計画をしています。遺跡や古い神社の位置もプロットしたいと思います。

また、はぐれて仕舞い行く事のできなかった場所も訪れる計画もしています。まむし谷、一の谷と周辺や箕輪一丁目の奥スリバチを歩きます。

今回はコースでなかった場所も訪れたいと思います。蟹ヶ谷、駒林の谷戸、高田付近の最も高い所、中原街道沿いも歩きたいと思っています。

1回じゃあ終わりそうもないですね。

「日吉フィールドワーク(スピンオフ編)」を乞うご期待!?という事で終わります。

自分でプレッシャー掛けて仕舞った…。

ほいじゃ
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駒林はスリバチ「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」(25)

駒林はスリバチでした。駒林とは現在の日吉本町にあった昔の地名です。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」では台地の縁を行き全体像に気付きませんでした。

カシミール3Dで作った絵を見て気付きました。
駒林神社(横浜市)の谷戸
かつて谷戸の風景があった場所です。明治42年陸地測量部の地図では古から続く村の営みが描かれていました。台地から流れる水と崖から出る湧水を活用した崖沿いの住居地区がありました。
駒林 明治42年
低地帯には田んぼが広がっていました。台地は里山として活用されていた様で日吉村は桃のなどの果物生産が盛んな地域でした。

この辺りの生態系は分かりませんが、唱歌の「ふるさと」に出て来る様な風景だったと想像しています。
駒林神社(横浜市)へ登る
古地図を見ると傾斜地に家はありません。高度成長以降はベットタウンの必要性から斜面を改良し所狭しと住宅が建てられています。

ただ、土砂崩れハザードマップに載っている地区もあり今でも改良を進められている様です。
駒林神社(横浜市)
駒林神社は斜面に築かれた中駒林村天神社と呼ばれた神社でした。初めて記録に登場するは1494年(明応3年)で金蔵寺の覚書です。神社はそれ以前からあったと考えられています。

当時は中村天神社という名前でした。

江戸時代の1804年から1829年に編纂された新編武蔵風土記稿にも登場します。中駒林の鎮守だった事が記載されています。明治15年に天照大神と天満大神を合併して「駒林神社」となりました。

大正14年には近隣の八幡社・十二天神社・熊野神社・妙義山神社を合併しています。港北区下田町の下田神社も同じ様に合併して生まれた経緯がありました。

実に興味深い共通点です。

現在の姿は慶応大学から買い取った土地と合わせ昭和37年に整備されたものです。また、境内に江戸城外濠の廃石を譲り受け使っている場所があります。
駒林神社(横浜市)横を登る
駒林神社を後にした一行は再び台地を登りました。そして、すぐに下りました。東京スリバチ学会らしい傾斜を好むルートでした。

ここから先は金蔵寺の回に書き終わっています。「日吉フィールドワーク」はここでお終い…

としたい所ですが、付随して進めている調査といくつかの宿題を残して仕舞いました。故に…

つづく…ほいじゃ

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素敵な坂道と沢跡?「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」(24)

魅力的な坂道と出会いました。低地へ下る閉塞感のある道です。台地を横断していた東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」は下りに入ります。

日吉本町のかつて駒林と呼ばれた地域を進みました。
hiyoshi_fukan_shimoda2.jpg
駒林は日吉町が生まれる前に存在した地名のひとつです。江戸時代には上駒林、中駒林、下駒林と3つの地域に区分されていました。

明治時代になると駒林上組、中組、下組と名を変えています。
駒林 明治42年
高台をランドマークとして3つの地域に区分けされていた様です。今回、通った坂道は中組の端に位置しています。明治42年の地図にもこの道が描かれています。

典型的な谷戸の風景だと言えます。

台地を里山として利用し、台地の際に住居を置き、水が豊富な低地を田として活用していた様です。
日吉本町 駒林 沢跡
最初は等高線を少しずつ横断する比較的緩やかなルートに道が曳かれていました。坂上の標高は約29mでした。通りに出る所は標高7mあります。

水平距離約175mを22m下る平均125‰の勾配です。
日吉本町 駒林 沢跡
坂の途中に骨組みだけの家がありました。倒壊し掛けの建物と言うよりは建設途中で放置された様に見えます。様々なストーリーが思い浮かびます。

想像力を掻き立ててくれる半建築物です。
日吉本町 駒林 沢跡
一ノ谷の戦いかと思わせる急な斜面です。地図が大体の数字を拾うと「標高13.0m→11.2m、水平距離約10m」の階段でした。

斜面を斜めに下る様に階段は作られているので180‰と傾斜はそれ程ではありません。しかし、階段がなければ崖です。
kamabayashi4-001.jpg
「こんな、不自然な道はおかしい…」、調べると昔の道は崖を垂直方向に下るのでなく、真っ直ぐと伸びていました。現代の地図に昔の道を描いてみました。

大体ですが上記の様になります。等高線を斜めに超えながら下る坂道でした。
駒林 昔の道
さて、現代の道を辿ると自然が作り出した様な曲線を描いています。耳を澄ますと水の音が聞こえます。もしかしたら、ここに小さな沢があったのかもしれません。
日吉本町 駒林 沢跡
ここのマンホールは横浜市のロゴだけで文字は書かれていません。水の音はこの下から聞こえた気がします。湧水?又は沢?が暗渠になったのでは?

明治42年のこの辺りは建物が1軒あり、現在、道があるところは敷地の一部でした。

家に湧水が流れている…フィールドワークの参加者達は箕輪町で見たはずです。昔は珍しいことではなかったのかもしれません。

台地の際に集落が広がっていた理由もこれで分かる様な気がします。

つづく…ほいじゃ

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駒林・水の流れ「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」(23)

水は素直です。低い所、低い所へと流れます。台地を削り痕跡を残します。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」はかつての水の流れを超えて行きます。

日吉村が生まれるずっと昔から「駒林」と呼ばれた地に足を踏み入れました。
松の川緑道(横浜市港北区下田町)
井田山の斜面にある下田神社を下り、谷戸を横断しました。「松の川緑道」と少しだけ合流しました。この谷を削った川の跡です。
松の川緑道(横浜市港北区下田町)
かつて谷戸の田を潤した松の川は暗渠となり面影はありません。日吉台と井田山の間を蛇行しながら流れた川筋は遊歩道として整備されています。
松の川緑道から丘へ(横浜市港北区下田町)
松の川を堪能する間もなく台地へ登りました。水平距離約90mを高低差約13mある144‰の坂でした。登り終えると標高32mの道にでます。
川跡?(横浜市港北区下田町)
100m弱はほぼ平坦な道が続き、標高27mまで一気に窪みまた登りになっています。かつて水の流れがあった場所だと見た目で分かります。

明治時代の地図にも載っている古い道です。
川跡?(横浜市港北区下田町)
最も窪んだ場所から台地の高い方を見ました。建物が邪魔して地形が凸凹が分かりません。手前には「おすい」と記されたマンホールがありました。

下水道は自然の傾斜を使い流すため、昔の沢が利用されている可能性があります。
川跡?(横浜市港北区下田町)
台地の低い方角を見ると慶応大学のテニスコートです。土地は改変されスリバチになっていました。沢は斜面を下り松の川と合流していたのかもしれません。

ただ、古地図で川は確認できません。小さな流れだった可能性はあります。
hiyoshi_shimoda1-001.jpg
調べて行くと丁度道路の窪み辺りが下田町と日吉本町の境界線でした。一般的には川を境界線にするケースもあるので一つの沢があった根拠となります。

上流部(地図の左側)を見ると少しだけ蛇行しています。短い沢だった可能性があります。
shimoda_sakai1-001.jpg
明治42年の地図によるとテニスコートと慶応大学下田寮の辺りは谷間になっていた事が分かりました。元々あった谷間を造成して今の様になったと考えられます。

等高線が表す窪みから水の通り道だった事はほぼ確実です。
駒林 明治42年
ここまで通って来た台地は明治42年の地図に「駒林中組」と書かれています。「駒林上組」、「駒林下組」という地名もあります。

特徴的な点は地名は地図上の高い所に記載されています。。

台地をランドマークとして地区を分けていたのでしょう。そして、台地の裾に居住地を置き、低地を田として利用していたと地図は語っています。

つづく…ほいじゃ

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下田神社と古の営み「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」(23)

風景は一変。かつて井田山と呼ばれた場所に造成された新興住宅地「さくらが丘」を過ぎ、谷戸へ下り始めると整然とした街並みは途絶え一昔前の風景に変わりました。

東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」は川崎市中原区井田町を後にして横浜市港北区下田町に入りました。
さくらが丘から下田神社へ(神奈川県)
道中は昨今の風景が走馬灯の様に止めどもなく現れては消え、消えは現れました。街(町)は人間の化身の様に感じます。人間の心が実体化された風景です。

個人と大衆のニーズや欲望、時に限界が町という形なって実体化しています。また、新しいものと古いものが同居する織物の様でもあります。
komagabashi2.jpg
明治42年陸地測量部の地図を見ると下田町は駒ヶ橋という地名でした。源頼朝がこの地を通った時に谷戸に流れる松の川を馬(駒)を橋替わりにして渡ったという伝説が残っています。

上組、下組と地域は細分化され、それぞれに村の鎮守があったことが地図から分かります。
下田神社(横浜市)
下田神社は傾斜地に立地しています。元々、熊野神社の敷地でした。上組の「天照大神」、下組の「熊野神社」と熊野神社境外末社「天満宮神社」が昭和45年に合併しました。

天照大神跡は現在「下田町会館」と児童公園になっています。
下田神社(横浜市)
町名から下田神社と命名されました。神社の案内板によると創建年は宝暦年間(1751~1763年)となっています。推測ですが熊野神社の創建年だと思います。
下田神社(横浜市)
合併した際に各神社から鳥居を譲り受けています。参道の石段上にある「天保二年九月吉祥日奉納」※と彫られた石鳥居は熊野神社にあったものです。

※天保2年は1831年
下田神社(横浜市)
石段下の石鳥居は「明治三十一年一月吉日奉納」と彫られており天照大神にあったものです。三社の合併は地域の悲願だったと書かれています。

経済用語で表せば友好的M&Aとでも言えるのでしょうか。
下田神社(横浜)庚申塔
下田町自治会のホームページから下田神社の紹介ページに辿り着きました。境内に近くを通っていた旧鎌倉街道の駒ヶ橋の橋桁が保存されいる事を知りました。

今は暗渠となった谷戸を流れていた松の川に架かる橋でした。

境内の奥に祠の並びに「北向庚申社」が鎮座されていました。庚申塔と言えば街道沿いを思い浮かべます。旧鎌倉街道と関係があるのでしょうか。

新たな疑問点が次々と浮かびます。

Wikipediaに特徴を示す面白い記述があったので引用します。
-------------------------
古道・鎌倉街道の特徴

なるべく平坦な直線距離を取る。
見晴らしがいいように丘陵や台地、微高地の尾根を通る。
-------------------------

旧鎌倉街道は見晴しを重視し日吉台や井田山を通るルートを選んでいたと考えられます。

下田町は古の営みを今に残す場所でした。

ほいじゃ

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かつての面影は「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」(22)

井田3丁目は平らな台地と深い谷戸が地形的に魅力的な地域です。しかし、歩みを進めるとかつての面影はほとんど残っていません。

唯一残る場所が前回書いた「中原区市民健康の森」でした。

東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」は井田山の谷間「中原区市民健康の森」をあとにして台地を登りました。
idadai_142mx15.jpg
川崎市地名辞典(小学生用)によると井田という地名の由来は「湧水(井)がある処(田)」となっています。今は「家ひしめく処」という様相です。
日吉3丁目
谷戸の真ん中を貫く道に入りました。字名は「中原通」でした。かつて田んぼが広がっていた所も今や両側から住宅がせり出し、ひしめく所です。
日吉3丁目
谷間を少し進み左折しました。なだらかな斜面に設けられた段差が低い階段を登りました。明治時代の地図を見ると針葉樹と広葉樹が混じった山の斜面でした。
井田3丁目
今は住宅が所狭しと並ぶ傾斜地です。路地を縫うように歩き、また階段に出会いました。今度は傾斜地らしい段差のある階段でした。
井田3丁目
気に入った階段に出会うと必ず振り返ります。そして、歩いた道程をもう一枚撮ります。曲がり角のある階段は不思議な魅力を持っています。

町の造形美です。
日吉3丁目
階段の先に続く細い路地に違和感が残りました。私の頭では「細い路地=歴史ある町、比較的古い町」と連想します。しかし、歴史が感じられません。

写真だけでも古さが出る様に加工しました。
井田3丁目 さくらが丘
昔、「平台」と呼ばれていた所に着きました。今は「さくらが丘」です。新日鉄先端技術研究所(旧八幡製鐵東京研究所)跡に造られた新興住宅地です。

「中原区市民健康の森」の出口(標高約12m)から「さくらが丘(約40m)」までの標高差は28mでした。
ida_danmen1.jpg
さくらが丘Issac日吉
総開発面積約:7万m2
計画戸数:346戸の建売住宅
分譲開始:2003年9月

整然した街並みに不自然さを感じました。余りにも人工的で計画的に映り、無機質にすら感じました。歴史が浅いためでしょう。

ネットで評判を調べると「駅まで遠い」、「スーパーが近くになく不便」、「永久に管理費がかかる」、「転売には不利な立地」など不満が目立ちました。

その中に「学校に20分かかって子供が気の毒」という投稿がありました。

子供はそんなに軟じゃないと思います。子供の頃にたくさん歩き、走れば基礎体力が養われむしろプラスです。ちなみにさくらが丘から通う子供はクラスで「リレー選手」に選ばれるケースが多いそうです。

当然、大人もです。長時間歩き、斜面で足腰を鍛錬することは体力維持、老化防止には最適です。また、多少不便な方が頭を使いボケ防止にも良いと考えられます。

ここは地歴を紐解けば井田山の頂上です。地図を見れば矢上川から一気に30数m登った所です。山の上に住んでいる訳だから当然です。

それよりも山の頂上という立地を選んだ認識の薄さに考えさせられます。やはり、自らの足で歩き、標高を知り、地歴を調べる事は大切です。

私は井田山がまだ山らしかった頃の風景にタイムトリップして歩きたいものです。

ほいじゃ

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井田山の谷戸に「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」(21)

都市に残るオアシスです。川崎市中原区の井田山では今でも谷間から湧水が流れ続けています。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」は湧水のある谷戸へ足を踏み入りました。

「中原区市民健康の森」です。
井田伊勢台
カシミール3Dで作成した地形です。図の下部に岬の様に突き出た所から台地が井田山です。「中原区市民健康の森」はさらに下の谷戸です。

かつて井田山と言われた範囲は岬部分だけではありません。

当日、一緒に歩いたShiraiさんが調べた情報によると現在、井田病院のある高台も含まれていました。岬の部分を「平台」、病院がある台地を「丸山」と呼んだそうです。
井田山付近 明治42年
明治42年陸地測量部の地図です。等高線が描く模様から改めて豊かな地形と感じます。谷戸には田の記号が並んでいます。

日本人が古来から営んだ谷戸と里山の生活がここにありました。

最高点には35.2mと記されています。現在の地図には35.4mの三角点があります。井田山横の谷戸は標高にして13~18mです。
中原区市民健康の森(川崎市)
「中原区市民健康の森」は平成13年(1993年)に発足した「中原区市民健康の森を育てる会」が管理しています。活動に参加された方の話しによると整備以前は荒れていたそうです。

1988年 井田山東斜面マンション開発計画
    「井田山の緑を守る会」発足
1997年 川崎市が0.6haを買い上げる
2001年 第一期工事完了。「中原区市民健康の森・井田山」オープン

止めどもない開発の波に立ち向かい自然を残そうとした人々の歴史が井田山にありました。井田の自治会、区民、ボランティア、行政が垣根を越えて協力した結果なのかもしれません。
中原区市民健康の森(川崎市)
谷戸の奥にある水が湧き出るところです。直前に雨が降っていた事もあり水は一定に且つ勢い良く流れていました。多摩丘陵や下末吉台地に浸み込んだ水が谷から湧き出る姿です。
中原区市民健康の森(川崎市)
湧水は「ギンヤンマの池」に流れ込みます。この池は森を整備する際に作られた聞きました。良質の水を必要とする生き物の名前が池と川に付けられています。

「ギンヤンマの池」しかり、その先にある「メダカの小川」も同様です。
中原区市民健康の森(川崎市)
斜面には上へ続く道がありました。「コナラの森」を経て、「カシノキの森」、「どんぐり広場」、「チョウの草原」へ連れて行ってくれます。

岬の先端にある傾斜地には「クワガタの森」もあります。
中原区市民健康の森(川崎市)
ナラ、樫、ギンヤンマ、メダカ、クワガタ、そして谷戸、全て並べて浮かぶ言葉は「日本の原風景」です。フィールドワークでは斜面はコース外でした。

次の機会に登ってみます。
中原区市民健康の森(川崎市)
敷地外ですが同じ谷戸に果樹園がありました。美味しそうな柿です。今は冬、写真を見てフィールドワークは秋に行われた事を再認識しました。

都市はかつては山谷、そして浜でした。

人は表層部を加工し、飽き足らず地下まで進出して行きました。都市の自然は失われたと感じて不思議ありません。しかし、水は時に都市に沿い、時に無視して流れ続けています。

素直な水は教えてくれます、都市は仮の姿であり、台地に本質があると。

ほいじゃ

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地形を体に刻む「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑳

尾根道をそのまま歩かないのは普通の人から変だと思われるかもしれません。スリバチ、谷戸が好きな人達は斜面を体感する事に喜びを感じています。

東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」で参加者は台地を堪能しました。
井田伊勢台
川崎市中原区井田を書いて数日が経ちました。未だに台地の名前は判明しません。井田伊勢台遺跡というのがあるので仮にこの名前で呼ばさせてもらいます。

本当の名前を知っている人がいたら是非教えてください。
矢上川沿い 生そば丸はし(川崎市中原区井田2)
矢上川沿いの渋い建築物にレンズを向けました。Mapionには「生そば丸はし」と書かれています。この後、私は大転倒しました。

ブロック塀が壊れていました。突き出た針金を跨ごうとして…。

カメラを守ろうと不自然な体制で地面に激突、生憎、小指、膝を打撲し、守ろうとしたカメラも地面に叩きつけられました。休みもなく歩き続けたツケです。
川崎市中原区井田2丁目
何はともあれカメラは復旧しました。一行は井田伊勢台の谷間を登って行きます。矢上川沿いは5.5m程度で坂上は36~37m台です。

道の水平距離は約305m、高低差を31mとすると平均勾配は約100‰と登り甲斐のある坂です。
川崎市中原区井田2丁目
徐々に勾配はきつくなります。坂が好きな人には天国のような場所だと思えました。体の調子が悪い日でも苦しいと言いつつも登ることを楽しんでいるからです。

体の痛みも登りで吹き飛んで仕舞いました。
井田病院 工事中(川崎市中原区井田)
トマソン的階段?高飛び込みの台の様に階段だけが空中にあります。尾根道沿いの井田病院は改築中です。シュール過ぎる風景が見れるのも期間限定です。

尾根道を歩いたのはほんの少しでした。
川崎市中原区井田2丁目
また下ります。平らな所は尾根を通された道と等高線に沿った道だけです。スリバチ学会らしく谷間の道を主体にコースが組まれています。

井田伊勢台の地形を体に刻むことができました。
井田2丁目の階段
時の流れが刻まれた階段です。古い段に新しい段が付け加えられた形跡を見付けました。こうした事を共有できるのもフィールドワークの醍醐味です。

普通の人にはどうでも良い話でしょう。参加者は街の機微に高い関心を持った人達がほとんどです。

私のブログタイトルの「活学問」は実際にフィールドに出てファーストハンドの情報を推奨する意味合いがあります。これは幕末の異人がやった学習方法です。

地図が読めて、勾配が分かったとしても実際に歩かないと分からない事はたくさんあります。

ただ、書物は要らない訳ではありません。実際に五感で体験した後に書物は大変役に立ちます。大事なのはむしろ復習です。

つづく…ほいじゃ

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水と共に下る「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑲

坂のある町に住んでみたい。そう思わせる光景が続きます。川崎市中原区の丘から多摩川沿いの低地を眺める事ができる場所まで来ました。

東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」は素敵な場所にも連れてってくれます。
井田2丁目の尾根道より
横浜市港北区日吉2丁目と川崎市中原区井田2丁目の境は尾根道になっています。空に遮るものがないと言うのは気持ちが良いものです。
井田2丁目の尾根道より
一行は井田台を下ります。理屈抜きに魅力的な街並みです。眼下には多摩川低地が広がり、遠くに東京を臨むことができます。
井田2丁目の尾根道より
フィールドワーク一行もここで足を止めこの景色を堪能していました。そして、標高35mから6mまで一気に坂を下りました。新たなる絶景が待っていました。
川崎市中原区井田2丁目
前回も書きましたが写真集が作れそうな街並みです。路面の摩耗が愛おしく感じられます。
川崎市中原区井田2丁目
コークスクリューの如き坂も見事です。是非、自転車で下りたい!
川崎市中原区井田2丁目
段差の小さい階段が曲線を描く風景も趣があります。生活感が漂っています。
川崎市中原区井田2丁目
宅急便泣かせの町です。私が配達員なら志願するでしょう。なぜなら、「坂」があるからです。
川崎市中原区井田2丁目
坂も終わり平坦になりました。誰からともなく「暗渠、暗渠」という声がしました。蓋の下に水が流れています。
川崎市中原区井田2丁目 矢上川と合流
矢上川に出ると合流点がありました。この日は午前中雨が降っていたこともあり水は勢いよく川へ流れ込んでいました。
川崎市中原区井田2丁目 矢上川
矢上川は多摩丘陵の宮前区水沢あたりを源流とした全長6.83㎞の一級河川です。横浜市港北区日吉と川崎市幸区加瀬で鶴見川と合流します。

今は二つの市を分断でしていますが、元々は川崎市側も日吉村と呼ばれた地域でした。

一行は水と共に斜面を下って来ました。そして、個性的な表情を持つ坂のオンパレードでした。本当に写真集ができそうです。

地形好きには堪らない住居空間です。

つづく…ほいじゃ

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区界の尾根道を歩く「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑱

写真集が作れそうな街並みが続きます。高台と傾斜地が生み出すバラエティー豊かな光景を生み出しています。日吉公園に到着した時、雨は完全に上がっていました。

東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」です。
日吉公園からの眺め(港北区日吉2丁目)
横浜市港北区日吉2丁目にある日吉公園は高台と傾斜地を利用した公園です。以前は何があったのだろうか?明治初期の地図には畑となっています。

それ以降の地図に印はなく、再びバブル期の地図で畑の印があります。公園の完成年を調べると1995年でした。
日吉公園からの眺め(港北区日吉2丁目)
駅から600m以上あり高台という立地が開発スピードを遅くした可能性があります。日吉駅の方角を見ると谷戸の窪みとその向こうの日吉台が一望できます。

日吉台とは反対側を流れる矢上川河岸との高低差は約30mにもなります。
井田伊勢台(横浜市港北区井田)
高尾山の麓から始まる多摩丘陵は徐々に標高を下げ下末吉台地へと続きます。その先端に位置するのがこの高台です。縄文海進の頃に海への玄関口でした。

いくら調べても分からない事が一点あります。この高台の名前です。

少し離れた場所に井田伊勢台遺跡というのがあります。「井田伊勢台」というのが台地の名前でしょうか?
川崎市中原区井田2丁目
尾根道をしばらく進んでいきます。横浜市港北区と川崎市中原区の区界が尾根道です。元々は中原区も日吉村の一部でした。1930年代にもめにもめ分断されました。

お!このコークスリューの様な坂は見事です。

台地の水を排水する機能もある様です。次に来る機会があればこの坂も歩きたいものです。
川崎市中原区井田2丁目
少し歩くとランドマーク的な建築物と巡り合いました。MAPIONを見ると「マイクロハウス」と書いてあります。街歩き人の多くはこの様な建物に反応します。

そうでない人でもこの建物は特徴的で忘れられないでしょう。
川崎市中原区井田2丁目
尾根道は空が開けた感じで爽快感があります。しかし、私が気になるのは斜面です。両側を観察していると多様な坂と階段のオンパレードです。

目を飽きさせない場所です。
川崎市中原区井田2丁目
まるで地形と土木の展示会場の様です。すべての坂と階段を一つずつ登り下りしてみたいものです。実際にやるとしたら日吉地区を歩くだけで1週間くらい要するでしょう。

それくらい起伏のある土地柄だからです。

この後も特徴のある街並みが続きます。

つづく…ほいじゃ

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日吉不動尊と日吉2丁目の階段「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑰

新しいフェーズに入りました。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」は昼休みの後、別の台地に足を踏み入れました。日吉駅から東京方面へ下り、台地が始まるところを目指しました。

矢上川沿いの台地の切れ目にある日吉不動尊です。午後の第一目的地でした。
日吉(横浜市)大きな谷戸2
地形をカシミール3Dで表現してみました。午後は矢上川沿いの切り立った台地から歩き、途中で谷戸へ下り、対面にある台地へと進みました。

一見して東京都の王子駅周辺に似た地形です。
日吉(横浜市)大きな谷戸1
王子と比較して一番の違いは台地が途切れる場所に音無渓谷の様な水が削った地形がない事です。現在の松の川は暗渠化されており水量はありません。

明治初期の古地図を見ると台地の切れ目はすでにありました。

松の川は谷戸に広がる田を縫うように細く流れていました。よって、台地の切れ目ができたのはそれよりもずっと昔です。
日吉不動尊(日吉2丁目89)
日吉不動尊は台地が途切れる所の斜面にあります。日吉には2箇所の日吉不動尊があります。一つはここ、もう一つは午前中にも訪れた天台宗の(清林山 佛乗院)金蔵寺です。

金蔵寺の方が明らかに有名で関東三十六不動尊霊場の一つになっています。日吉2丁目の小さな日吉不動尊についての情報は見付つけられませんでした。
日吉不動尊(日吉2丁目89)
午前の部で集団からはぐれて仕舞った私は先頭集団で歩くように心がけました。しかし、風景や地形を主体しとした写真を撮るためにはやはり最後尾がベストです。

人の顔が入らない様に、且つ、人を風景に溶け込ませた写真を撮る様に心がけました。
日吉2丁目の階段
日吉不動尊を出て一旦、来た道を少しだけ戻り、日吉公園へ続く日吉2丁目の階段を登りました。谷戸から台地へ登る傾斜地です。

階段の前で先頭集団は立ち止まりました。
日吉2丁目の階段
この階段に賛美の声を投げかけた後、各々は写真を撮っていました。地理院地図でざっくりと階段の数値を取りました。水平距離約33m、高低差約11mです。333‰となります。

「新建築法では建替えができないのでは」と声が上がりました。

大きな地図で見る
道幅は4m以下で建替えの時は道路の中心線から2mのところの後退線まで門すら作れません。そもそも、こんな狭い道に消防車は入れるのでしょうか。

階段の構造を見ると車輪は乗りそうに見えます。

入ったとしても出る時はバックするしかありません。太い道路が作れない傾斜地での防火対策は難儀だと感じました。
日吉2丁目の階段
先頭集団は軽快に日吉公園のある高台へと登って行きました。この時に最後尾集団はすでにはぐれていた事を後で知ることになります。

参加者は確かではありませんが70名いたと誰が言っていました。

ひとりひとりが大体3m間隔で歩くと200m以上の長さになります。信号がある道路や、角の多い路地を歩く時は前方を見失がちです。

一度、見失えば分からなくなってしまいます。

地図があり、目的地さえ分かっていれば経路は別としても再度合流できます。

つづく…ほいじゃ

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向方の消えた小山「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑯

ギリギリでした。最後の500mをダッシュして信号待ちしている集団に追いつきました。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」ではぐれため、昼休み中に見れなかった所を歩きました。

日吉台の際を歩き続け、斜面を登り下りしていたら休み時間が終わって仕舞いました。
箕輪町1丁目の谷戸へ下る坂
最後に訪れた場所は最初に訪れた箕輪町一丁目の谷戸を見下ろせる場所です。200‰の急勾配に所狭しと並ぶ住宅群が印象的でした。

今は標高37~38m台の台地ですが明治42年の陸地測量部地図では40m以上あった辺りです。
箕輪町1丁目 谷戸方 明治42年
ヤマコレというサイトに参加者が掲載したルートがありました。箕輪町1丁目の谷戸まで良かったのですが、その後は全く違うルートを歩いていたと分かりました。

明治、大正時代に「谷戸方」と記された谷戸を出た後は隣の「向方」を彷徨いました。
箕輪町一丁目 綱島街道裏の横道
「普通の道を歩いても面白くないだろう。」綱真街道に出ずに舗装されていない裏道を選びました。子供の頃にさびれた道を選んで歩いた事を思い出します。
箕輪町一丁目 向方の坂
高台に続く坂を付けました。古地図では向方と記載された地域です。この坂の上には標高45m台の小山があった所です。今は17~18m台に均されています。
箕輪町一丁目 向方の坂
元々あった谷間に惹かれた坂道を踏襲している様です。右手は崩され勾配はほぼなくなっていますが、左手は昔からある標高30m台の台地が残っています。
箕輪町一丁目 向方の坂
坂を登り切ると藤和ライブタウン日吉があります。バブル前夜に造られた高台のオシャレな街並みです。昔あった小山と谷間も面影はもはやありません。
東海道新幹線高架横 日吉5丁目
その後、向方を一旦下り、台地の際を歩き続けました。知らぬ間に箕輪町1丁目を過ぎ日吉5丁目に入っていました。斜面を見付けると登ってみましたが悉く行き止まりでした。

昼休みのタイムリミットが迫り焦りが出た結果です。気付くと東海道新幹線のトンネル手前まで来ていました。
日吉5丁目 慶応大学裏の階段
崖上に登る階段が現れました。明治時代初期の地図にも載っている細い道です。右手のトンネルが通された辺りは昔の地図に「山欠」と記されています。

地名にある「欠」はかつて自然災害があった証拠です。
日吉5丁目 慶応大学裏の階段と祠
崖の途中に神社がありました。神社庁のホームページで検索しても出て来ません。ネットで検索しても情報はありません。不思議な雰囲気を持つ祠でした。
日吉5丁目 慶応大学裏の階段
階段は100m程で30mの高低差があります。雨で暗くなった300‰というきつい勾配を登って行きました。休み時間が終わってしまう!時間がない!
箕輪町1丁目、日吉5丁目で彷徨う
GPSは便利です。ボタンを押せば私が辿った軌跡を記録してくれます。この彷徨いは何か意味があったのだろうか?ほとんどが無駄打ちだった気がします。

後で復習してみると土地は改変され、昔からの地形はごく一部しか残っていませんでした。

向方で特に驚いたところは45m級の小山が崩され17~18m台の平坦な土地になっている事でした。残土は一体どこへ行ったのでしょうか?

箕輪町1丁目は高度成長期前には今よりもワイルドな地形だったと知りました。いつか、3Dで再現できれば面白いと思います。

東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」も午後の部に入ります。

今回、行けなかった箕輪町1丁目の谷戸奥のスリバチ、熊野神社、まむし谷と保福禅寺、矢上川はひとりで訪れてみます。

つづく…ほいじゃ

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谷戸方と呼ばれた所「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑮

都市に存在する軸線を変えて見ると別の顔が現れます。現代の都市形成において幹線道路、鉄道(駅)が軸になり自然的、時に人工的な発展をみる事ができます。

昔の姿を紐解く時、手がかりになるのが地形、古道、古い字名(あぜめい)です。

東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」の昼休みにひとり箕輪一丁目の谷間に迷い込みました。
箕輪一丁目(横浜市) 谷戸方
高度成長期の横浜市港北区日吉と箕輪は南北を貫く東横線と綱島街道に軸線になり横方向に宅地化が進んだと考えれます。大正15年(1926年)に日吉駅が開業して以降の姿です。

それ以前の姿はどうだったのでしょう。

箕輪1丁目をカシミール3Dで角度を変えながら観察すると南北より東西のラインが目に留まります。

箕輪町は縄文時代から人の営みがある場所です。箕輪一丁目も同様です。慶応大学がまとめた情報によると周囲の高台から遺跡が発見されています。

図の左奥(北側):集落跡 【弥生後期、古墳以降】
図の奥(東側):集落跡 【弥生後期(欠山遺跡)】
図の右奥(南側):散布地、古墳 【縄文早期、弥生後期、古墳】
箕輪町1丁目 谷戸方 明治42年
江戸時代は武蔵国、明治以降は神奈川県(たちばなぐん)箕輪村でした。明治42年の陸地測量部地図によると箕輪1丁目に「谷戸方」という字名が記されています。

昭和初期までこの字名は地図に記載されています。

また、谷間の二股に分かれた道は現在も生活道路として残っています。箕輪村全体の土地利用は谷の奥と台地の周辺に集落と果樹園が形成され、谷の出口から低地に向かい田が広がっていました。
箕輪町1丁目(横浜市) 谷戸方1
箕輪町一丁目の谷戸に足を踏み入れました。まず気になった場所が北側の斜面です。写真にある階段は谷の上からのみアクセスできる道です。
箕輪町1丁目(横浜市) 谷戸方2
その横に台地がむき出しになった斜面がありました。Googleのストリートビューで確認すると2009年9月時点では建物がありました。
箕輪町1丁目(横浜市) 谷戸方3
谷底の道から外れ古地図にも載っている一段高い道を選びました。北側の斜面には谷上へ導いく3本の道が伸びています。20m程の高低差があります。
箕輪町1丁目(横浜市) 谷戸方4
逆に谷底の道を見下ろすと勾配差が一目で分かる地形です。標高差にして7m程度あります。昔は雨水を谷底に集める水路があったかもしれません。
箕輪町1丁目(横浜市) 谷戸方5
少しずつ地形は険しくなり道路を横切る切れ込みを見付けました。排水路だと思われます。斜面から流れる雨水を一ヵ所に集める施設でしょう。
箕輪町1丁目(横浜市) 谷戸方6
谷間を素直に進むと行くと最深部付近の藤和日吉ホームズに着きます。背後は崖です。建物は高台にあり一段下には小さな公園があります。
箕輪町1丁目(横浜市) 谷戸方7
公園から谷底のラインを眺めると三方を高台に囲まれた2級スリバチ地形であることが分かります。建物が少なかった頃の風景が見たいと思いました。
箕輪町1丁目(横浜市) 谷戸方8
帰りは南側の斜面を行きました。コンクリートウォールが織りなす高度成長期を象徴するランドスケープです。古から続いた生態系はもうないのでしょう。
箕輪町1丁目俯瞰図(横浜市)
谷戸方の入口は標高約10m、藤和日吉ホームズは標高約20mです。一つ残念だった事は標高19mから38mまで登る最深部の道を行けなかった事です。

そこには小規模ながら四方をほぼ囲まれた高低差約20mある上級スリバチ地形が存在しています。
箕輪町俯瞰図(横浜市)
箕輪町は多く語られる場所ではありません。しかし、調べて行くと不思議な魅力を感じます。それは地形であるのか、語られていない人の営みなのか分かりません。

箕輪町の俯瞰図を作りました。

ひと言で表すと東西に広がる湾です。縄文海進の頃は海辺だった事を考えれば谷戸方(箕輪1丁目)は船を泊めるのに最適な場所です。縄文人は漁をしたかもしれません。

高台からは権力の象徴である古墳が発掘されています。

向方へつづく…ほいじゃ

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浮かび上がる谷間とスリバチ「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑭

昼休み返上しました。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」で一行とはぐれました。見落とした場所があったため歩き続けました。

始めは一行が通った軌跡を踏襲しようと考えていました。

しかし、実際に歩き始めると新たに気になる場所が出て来て別プロジェクト化して行きました。
綱島街道 日吉
日吉駅前の綱島街道と周辺の不自然さが妙に気になりました。街道は日吉台をほぼ直線で貫いています。自然な地形でない事は明らかです。
綱島街道と日吉駅
明治42年の陸地測量部が作成した地図によると綱島街道が通る前は北と南にそれぞれ谷間がありました。谷間は蛇行しています。
日吉駅と綱島街道

明治時代と現代の地図を見比べて分かるか事は基本的な台地の構成は残しつつも土地の改変により一部で過去の姿は見る影も無くなっています。

特に南北の谷間です。違和感を一番感じた場所が綱島街道沿いのファミマの横にある窪地です。
日吉4丁目
道路から一気に建物1階分程度、土地は低くなっています。わざわざ掘ったという推理はコストパフォーマンスの点からほぼあり得ません。

綱島街道沿いの地形の今昔を整理しました。

1、現在線路と道路がある辺りに北側の谷間があった
2、南側には斜めに切り込む二股の谷間があった
3、南側の谷間の入口には溜池らしき窪地があった
4、30m台の日吉キャンパスに昔は40m台の高台(2箇所)があった。

北側の谷間と現キャンパス内は東横線開通(1926年)、慶応大学日吉キャンパス開校(1934年)によって大幅な土地改変が行われた様子です。
日吉(横浜市) 高度成長期前
南側の谷間の入口にあった池は高度成長期前まで残っていました。ファミマの隣にある十字型の東京・スチューデントハウス日吉台がその位置にあたります。

池は埋め立てられ基礎部分が高くなっています。

その先に続いたはずの二股に分かれた谷間は慶応大学の陸上競技場と協生館となり一つの窪地に改変されています。(四方囲まれた一級スリバチか!?)
日吉 ファミマの窪地
2つの谷間が存在したと思われるエリアで盛土の形跡がある箇所を整理しました。また、時間軸の流れを考慮して盛土が行われた経緯を「推理」してみました。

1、綱島街道と鉄道の勾配調整するため崖を崩し盛土した。

2、慶応大学の敷地内の工事で出た土を使い現スチューデントハウス(十字型)と陸上競技場の間に盛土して道を通した。

3、ファミマの北側(図では右側)
池を埋め立てスチューデントハウス(十字型)建設した。池の淵は崩壊を防ぐため以前からある程度は盛土されていたと推測する。

街道とのアクセスを考え基礎部分を盛土したと考えられる。

4、ファミマの南側(図では左側)
街道沿いからアクセスできる土地を造成した。街道との高低差が少ない所で造成を行った。ファミマとその横のマンションは高低差が6m程ありできなかったと推測する。

尚、建造物による嵩上げか盛土によるものかは未確認。(国土地理院の5mメッシュデータでは地盤と判断されている。)



ファミマの窪地を見付け調べた結果として、かつてのあった谷間が浮かび上がりました。人工的でありながらもファミマの窪地は三方向を囲まれた二級スリバチと言えます。

ファミマの窪地を回り込み入った所はその昔に「谷戸方」と呼ばれた土地でした。

次のスリバチ探索へつづく…ほいじゃ

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段丘を二度登り日吉キャンパスへ「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑭

「実は日吉神社は午前中の目的地ではないのでは?」東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」の一行からはぐれた地元の方1名と私は日吉神社で待ちぼうけでした。

「昼食を取る予定の慶応大学日吉キャンパスにすでに行っいるのでは?」
矢上台と日吉台と低地(横浜市)
どちらにせよフィールドワークに参加して動かないというのは無意味でした。日吉神社がある標高25m台の矢上台を下り、低地を超えキャンパスのある標高30m台の日吉台へ登りました。

カシミール3Dで作成した5mメッシュの図面では丘へ続く斜面は河岸段丘の様に見えます。
慶応大学日吉キャンパス北斜面
標高8mから27mまで登る120mの坂がありました。158‰と体力強化には丁度良い距離と勾配です。上からは慶応大学の学生が途切れることなく下って来ました。
慶応大学日吉キャンパス北斜面
坂を登り切ってもキャンパスはさらに上でした。平坦な横道を少し進むと標高33mへ6m登る階段がありました。水平距離にして23mと短い階段でした。
慶応大学日吉キャンパス北斜面
しかし、勾配は260‰と先程の坂に比べ急です。最終的にこの斜面を3回通ることになりました。2回は登り、1回は下りです。
慶応大学日吉キャンパス 食堂
キャンパス内で一行を探している途中に連絡が取れ日吉神社へ戻ろうとしたからです。個人的には歩き涯のある坂を2回通ることはむしろ良いことでした。

キャンパス内では地元の方が知っている食堂をすべてを回りました。教職員用の食堂では警戒されました。
慶応大学日吉キャンパス 眺め
私の意識の中では半分探しつつもキャンパス内を堪能をしていました。日本の大学のキャンパスを歩くのは初めてです。米国の大学に比べ広さは劣るものの美しさで負けていません。
慶応大学日吉キャンパス
当然、地形も観察していました。食堂のある窪地が気になりました。そして、藤山記念館の横から見る眺望に感動しました。標高25mの矢上台の下には低地が広がり多摩川方面まで続いています。

そして、開発ラッシュとなっている武蔵小杉の高層マンション群を一望できました。

学び舎にとって風景や自然環境は重要だと考えています。学ぶというのは覚えることでなく、発想して行動する(OUTPUT)力を付けることだと考えています。

そんな、発想を助けてくれそうな地形でした。あとは崖に飛び込むつもりで行動するだけです。

ちなみに慶応大学の調査によると日吉キャンパスに隣接する崖の一部は盛土により土地が改変されています。また、日吉キャンパス内には平坦な場所が多いのですが昔は西(駅の方向)に緩やかに傾く台地だったと推測しています。

つづく…ほいじゃ

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矢上台の補足「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑬

前回のブログを書き終えた後に2点ほど気付いたことがありました。東京スリバチ学会の「日吉フィードワーク」で訪れた日吉神社がある矢上台についてです。

どうしても気になってしまい追記せざるを得ませんでした。
日吉4丁目 矢上台
一つ目は矢上台の前を通る古い道です。明治初期の地図にも、明治42年陸地測量部の地図にも載っています。一部で直線化された形跡はありますが昔の道筋が大方残っています。

なぜ、気になったかと言うと、

日吉神社の入口から数十メートル南東の道沿いに「地神塔」をはじめ他三塔が並んでいたからです。観音像らしき塔には文化12年(1815年)と彫り込まれていました。
地神塔 日吉3丁目
下は明治42年に作られた精度が高いと言われる陸地測量部の地図す。道は台地の脇を北西から南東方向へ抜け矢上川を超えて行きます。

北西には台地の先端を舐める様に湾曲する古い道が描かれています。今でもこの道の名残が残っています。付け加えると、元々湾曲していた矢上川は昭和初期までに直線化されました。
明治42年日吉3丁目
もう1点は明治42年の地図に矢上台の最高点が30.6mと表記されています。今は丘の上部が平になっています。地理院地図で頂上があった辺りをプロットしました。

25m台です。周囲を広範囲でプロットしましたが25m台の土地が広がっています。

1971年に「教育・研究実験棟本館・別館、一般教室棟・厚生施設棟」が完成しました。工学部の前身が矢上キャンパスに移転を終えたのは翌年1972年のことです。
矢上台(日吉)
「慶応技術大学工学部新校舎」と書かれた1972年のパンフレットを見ると丘の上はすでに平坦に整備されています。30.6mの頂上は土地改良でなくなったのでしょう。

今より5m高い頂上があった頃の想像してみました。

カシミール3Dで作った標高を3倍に強調した図と古地図を交互に見て行きます。すると何となく見えて来ました。現在がいかに不自然な形か分かってきます。

図の奥にあった高い所を削り、手前(丘の上)に盛土した様に見えて来ます。

試してください。

以上、追記でした。

つづく…ほいじゃ

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日吉神社と作られる歴史「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑫

低地に一点残る台地の上を目指しました。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」の集団からはぐれた地元の方1名と私は先回りして日吉神社へと向かいました。

慶応大学のある日吉台を下り低地の向こうにそびえる矢上台を目指しました。
矢上台(横浜市)
矢上台は下末吉台地の名残でしょう。カシミール3Dで作成した図を見ると元々は台地を貫くように削られた谷戸の北東に続く斜面だった様に見えます。

北東の崖は何らかの理由で崩壊して孤立したと考えられます。

丘上は標高25m台で大部分が慶応大学工学部の敷地になっています。観音松古墳をはじめ縄文早期から古墳時代頃の遺跡が2箇所から出土でしています。丘の下にも遺跡が1箇所出土しています。
日吉神社(横浜市)
古くから人の営みがあったこの丘に日吉神社はあります。切り立った参道の階段下は標高約8.5m、階段上は24.5mあります。水平距離は約50mなので320‰の急勾配な階段です。
日吉神社(横浜市)
大正14年に日吉町が誕生する前は明神社と呼ばれていました。由緒によると創建時期は不詳です。祭神である天照大神は昭和51年(1976年)に鎮座二千年を祝った伊勢神宮から勧請されました。
日吉神社(横浜市)
雨に和の風景は合います。濡れた木々、石畳、土の色がしっとりした雰囲気を醸し出しています。フィールドワークの一行もまた他の人影もなく閑静な場所でした。。
日吉神社(横浜市)
25m台の矢上台から眺める日吉の風景は、建物が密集するがゆえに地形の凹凸を容易に想像させてくれません。一旦、建物がない姿を想像できると起伏が織りなす地形を認知する事ができます。
日吉神社(横浜市)
日吉神社は昌平坂学問所が文化・文政期(1804~1829年)に調査、編纂した「新編武蔵風土記稿」に登場します。「矢上」は元々「谷上」と書いたとも記されています。

ちなみに神社の略歴です。

天明5年(1785)修造
昭和11年(1936)本殿、幣殿、拝殿を改築
昭和14年(1939)社号を「日吉神社」と改める。
昭和51年(1976)社殿を修復、天照大御神を勧請。
矢上天神社(横浜市)
歴史は今も作られています。本殿横に2002年創建の矢上天神社があります。菅原道真公の没後1100年にあたり大宰府天満宮から分霊を勧請されました。

天神様を敬う日吉神社です。

歴史は掘り起こすものに感じます。しかし、今生きている私達も歴史を作っています。数百年後には今生まれたばかりの天神社も歴史として語られます。

ただ、物理的な物はなくなる可能性も秘めています。

だからこそ、記録することが重要です。未来に住む私たちの子孫へ届ける手紙です。私もそんな端くれであり続けたいものです。

つづく…ほいじゃ

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はぐれてもフィールドワーク「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑪

日吉駅前を貫く綱島街道に戻った時はすでに見失っていました。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」で地元の方1名と私ははぐれて仕舞いました。
日吉駅前の坂
駅前の通りという事でばらけながらも人通りは途絶えません。見知らぬ誰かの背中を追いかけて駅まで着いてしまいました。大群が慶応大学日吉キャンパスへ吸い込まれて行きます。
日吉4丁目
地元の方は次の目的地を日吉神社と迷いはありませんでした。私は出発前の説明を大雑把なルートでしか覚えていませんでした。「違うかも…」と言いつつも、一行がどの道を通ったか検討も付きません。
日吉4丁目
完全にはぐれたと認識した日吉駅付近で綱島街道を北上して日吉神社へ向かうことを事を決めました。上の図は右手が北になっています。一行は東へ、私たちは北東へ向かいました。
日吉4丁目
はぐれたとは言えただ通りを歩いては楽しくありません。慶応大学日吉キャンパスの丘をできるだけ沿うように崖細い道を歩きました。雰囲気のある小道を見付けました。
日吉4丁目
湾曲しながら登る印象的な階段だったため登り終わった所でもう一枚撮りました。捻じれるに下る様に何とも言えない趣を感じました。
日吉4丁目 第三校舎裏の道
右手の崖上には慶応大学第六校舎があります。あとで調べると縄文前期、弥生後期、古墳時代、古墳時代以降、それぞれの遺跡が見付かった場所です。
日吉4丁目 第三校舎裏の道
そして、日吉台1号古墳があります。太古の昔から人の営みがあった場所です。縄文海進の頃は海岸線だったと推測される場所を斜面に沿って歩きました。
日吉4丁目
舗装道路が終わり石畳のある道に変わりました。
日吉4丁目 第三校舎裏の道
少し進むと舗装された別の道が合流しています。ここを無視してさらに直進します。
日吉4丁目 第三校舎裏の道
段々と山道の様になって行きます。土の道は雨が降って泥濘(ぬかるみ)になっていました。
日吉4丁目 第三校舎裏の道
木々に囲まれた道に段々と光が差し込む様になります。木々がまばらになった間から崖下の風景が見えます。慶応大学の馬場が見えます。

距離にするとたかが二百四、五十メートルでしたが三倍に感じました。初めて通る道では無意識に神経が興奮して長く感じるのでしょうか。

日吉台と矢上台の間にある低地に出ました。目指すは日吉神社です。

つづく…ほいじゃ

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台地先端の湧水と視点「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑩

団体での街歩きなりの利点があります。一人で歩くと自らの思考の幅が見える物を制限します。団体ならば違った思考を持つ人と共有することにより幅を広げられます。

東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」で横浜市港北区箕輪3丁目の日吉台崖下を訪れました。
港北区箕輪3丁目
箕輪3丁目は多摩丘陵から続く下末吉台地の先端に位置しています。台地、谷、崖、平地を兼ね備えた場所です。民家の裏手にある崖から湧水が出ていました。

自然の崖ならば全く不思議に思わなかったでしょう。

しかし、民家という人工的な場所に、湧水と言う自然の営みがあることに戸惑いを隠せませんでした。人工物がある場所に自然がないという固定概念が私を支配していたのでしょう。
港北区箕輪3丁目
「え?人の家に入って行くよ!」50人以上が参加したフィールワークの一行は民家の中へ入って行きました。最後尾にいた私も驚きながらも入っていきました。

たぶん、一人ならば民家の裏手に湧水を見る事はなかったでしょう。団体として事前に住人にの方から許可をもらっていたはずです。
横浜市箕輪3丁目 湧水
後になって考えてみると「コロンブスの卵」だと気付きました。自然の法則を考えれば台地の先端にある崖から湧水が出ることは当然のことです。

私は自然や地形よりも街や人という視点で見ていたのでしょう。

もし、自然の観点で崖を見ていたのならば、すぐに「湧水があるはず」と考えたはずです。まだまだ修行が足りない様です。
港北区箕輪3丁目
湧水の出る民家から公道へ出ると「高床免震」と書かれた建物がありました。会社かと思いきや免震構造のマンションでした。建物の前には井戸があります。

箕輪の湧水?昔から井戸を再現?
港北区箕輪3丁目
調べるとこちらは豊かな自然に囲まれた人工の設備でした。しかも、近年に作られたものです。スターツ社の災害対応型マンション「オールセーフ」という建物です。

敷地内に災害時のための井戸が設けられています。建物が免震構造のため地震で壊れる可能性が低いのですが、大地震直後は高い確率でライフラインが断たれます。

被災直後の生活を考慮して井戸だけでなく「かまどになるベンチ」や「トイレになるマンホール」が設置されています。

外に井戸があると「昔ながらの何かでは?」と考えがちです。人間の思い込みや固定概念は怖いものです。

街は自然が形成された土地の上に成り立っています。しかし、長い時の流れの中で人が改変した土地が想像以上に多くあります。

街歩きで大切な事は「思い込まない事」かもしれません。

そして、「仮説、調査、検証」が欠かせないでしょう。

また、個人よりも団体の方が「視野」も広がり、「知識の共有」により多くを理解することができるでしょう。

つづく…ほいじゃ

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ミステリアスな箕輪3丁目「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑨

谷に神仏が祀られている場所です。景谷山東観寺大聖院がある横浜市港北区箕輪3丁目です。大聖院という文字を見てまず思い浮かべるのが宮島(厳島)の谷下に築かれた寺院です。

弥山(みせん)登山で大聖院ルートは最も厳しいコースです。

以前、思い付きで登り天国と地獄を見ました。日吉の大聖堂は規模が小さいものの裏側は傾斜のあるスリバチ地形です。
横浜市港北区箕輪3丁目
日吉一帯では縄文、弥生時代の遺跡が発見されており太古から人の営みが続く場所です。2001年に日吉台の丘の先端部で「箕輪洞谷(どうこく)横穴墓群」と呼ばれる7世紀頃の横穴式墓地が発見されました。

「箕輪洞谷」とは昔からある地域の呼び方です。
大聖院(横浜市港北区日吉)
本当に情報が少ない寺院です。「ミステリアス」という感は否めません。訪れた人が書き記した少数の簡単なブログしかありません。背後のスリバチにある墓地は写真も見付からず。

ちなみに東京スリバチ学会ではスリボチ(スリバチ+墓地)と呼んでいるそうです。
大聖院(横浜市港北区日吉)
日吉の大聖院を調べると必ず「日吉台地下壕」が浮びあがります。第二次世界大戦中、慶応大学日吉キャンパスに連合艦隊司令部が置かれ地下壕2.6㎞が掘られました。

日吉台の丘にも2㎞ほどの「箕輪艦政本部地下壕」がありました。

2002年に埋戻しが始められ、同時に学術的調査が行われてました。情報は「日吉台地下壕保存の会」のサイトで見る事ができます。
大聖院(横浜市港北区日吉)前の道 川跡?
「日吉台地下壕保存の会会報」を読んでいくと大聖院背後の「日吉台の丘」は昔に「夕日丘」と呼ばれていた事が記載されています。

軍事施設があった日吉は空襲の標的でした。大聖院も焼失しました。

今は一見すると閑静で戦争を思い浮かべる雰囲気はありません。しかし、この地には今でも公に語る事の出来ない秘密があっても不思議ではありません。
諏訪神社(横浜市港北区日吉)
次に立ち寄った場所は崖が付き出た場所に鎮座する諏訪神社です。創建は文安元年(1444年)と古くから箕輪の鎮守として祀られてきました。

安永5年(1777年)の「箕輪村景谷山東観寺大聖院」の記録に「支配宮」だったとあります。
諏訪神社(横浜市港北区日吉)
大正3年(1914年)に部落内にあった御嶽社、稲荷社、天神社、神明社、厳島神社、道祖神を合祀しています。まさに箕輪の鎮守様です。

本殿から眺めも爽快です。前を通る道路の標高は約6m、本殿周囲は10mと高くなっています。崖の下にできた小高い場所を活かし築かれた村の鎮守です。

古くてミステリアスな場所です。

「日吉台の丘」という名前は最近できた様で古くは「竹鼻」、「夕日丘」など呼ばれていた様です。また、箕輪3丁目は「箕輪洞谷」や明治大正の古地図に出て来る「根方」という地名もあります。

先史時代から大きく栄えることなく人が住み続け場所だからこそのミステリーもあるのでしょう。

多摩丘陵から続く下末吉台地の先端にある箕輪3丁目は湧水も豊富です。

つづく…ほいじゃ

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日吉台の丘を越えて【後編】「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑧

何度見ても豊かな地形です。横浜市港北区日吉本町3丁目と箕輪3丁目に跨る日吉台の鼻(岬)です。先端には日吉台の丘公園があり古くは「竹鼻」と呼ばれたことが古地図から分かります。

東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」の一行は日吉本町側から丘の上の登りました。
日吉の丘 箕輪3丁目側
日吉台は多摩丘陵に先端部に位置する下末吉台地の一部です。12万年の下末吉海進の頃は海底にありました。6千年前の縄文海進では海岸線となり入り江が形成されたと考えられます。
日吉台の丘 箕輪3丁目側
尾根道はしっとりとした木々の茂る道でした。雨が閑静な風情(ふぜい)を助長していました。この辺りは「日吉緑地保全区」に指定されています。
日吉台の丘 箕輪3丁目側
竹鼻と呼ばれた地らしく竹林がありました。谷の最深部です。現代の地図には竹鼻という地名や名称は記載はありませんが、明治、大正時代の地図にはありました。
日吉台の丘 箕輪3丁目側
谷間を回り込む尾根道から一気に谷戸へ下ります。緑に囲まれた細い通路が谷に沿って湾曲しながら伸びています。竹柵、石の階段、谷間の水をガイドする蓋つき水路が印象的です。
日吉台の丘 箕輪3丁目側
両側には建物はなくただ林が続くだけの道です。なぜか心が落ち着きます。全て開発し尽くすのでなくこういった風景が保全され残されるだけで価値があります。
日吉台の丘 箕輪3丁目側
左右に湾曲する階段を下ると勾配が緩やかなになり谷際の細い道が続きます。蛇行の具合から何となく川跡にも見えます。道の脇に水を集める口が開いています。
日吉台の丘 箕輪3丁目側
下り終わるとクランク状の道を経て大聖院前の道になります。谷間は何利用されているのだろうか?果樹園の様です。明治の頃から箕輪辺りは果物の生産で横浜方面と強いつながりがありました。
日吉台の丘 箕輪3丁目側
一つ疑問がありました。カシ―ミール3Dの画像で出現した大聖院の裏手にある小規模なスリバチ地形です。なぜ、ここに行かなかったのだろうか?

大きな地図で見る
スリバチの中に何があるかGoogle Mapで確認すると墓地でした。この後は大聖院に立ち寄り住職さんからもこの地域のお話を聞きました。

果樹園のある谷戸には昔は小川が流れていたそうです。

谷があれば水の流れが必ずあります。

つづく…ほいじゃ

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日吉台の丘を越えて【前編】「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑦

一見して愛宕神社の出世階段を思い浮かべます。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」で訪れた日吉周辺には多種多様な階段があります。

まさに階段の宝庫です。
日吉台の丘 日吉本町3丁目側
ここは下末吉台地の岬です。日吉本町3丁目と箕輪3丁目に跨(またが)り尾根道の先端には「日吉台の丘公園」があります。2つの顔を持つ斜面を有しています。
日吉の丘 日吉本町3丁目側
日吉本町3丁目側の勾配は急で魅力ある階段群が集中しています。驚くべき点は鋭角な傾斜角にも関わらず崖線面に多くの住宅が建ち並んでいることです。
日吉の丘 箕輪3丁目側
一方、箕輪3丁目側の斜面はスリバチ地形になっています。最深部には3方向を谷に囲まれた2級スリバチがあります。特筆すべき点は未熟なスリバチ地形が崖線上に連続していることです。
日吉台の丘 日吉本町3丁目側
傾斜角37度と言わる愛宕神社の階段と日吉本町3丁目7番の階段を比較してみます。地理院地図で標高をプロットして行くと階段下が7m台、階段上で18m中盤はあります。

水平距離は僅か21mで11m程度を登ります。

精度が心配だったので何度かやり直しました。しかし、500‰前後の勾配という結果になりました。同じように出世階段を図ると700‰でした。
日吉台の丘 日吉本町3丁目側
一旦、坂の途中の平坦な道路に出ます。右手には同勾配と思われる階段が丘の上まで続きます。但し、民家のため通り抜けが禁止されています。さらに魅力的に見えます。
日吉台の丘 日吉本町3丁目側
崖の中腹に等高線に沿って作られた勾配のない道に心惹かれます。嵐の後の静けさ、静と動、勾配と平坦など相反する存在の交差が交差する所だからかもしれません。
日吉台の丘 日吉本町3丁目側
中腹からの開けた景色には一目置けます。ただ、ここに住むとなると不便さは否めません。上に行くにも、下に行くにも階段を通らざるを得ません。
日吉台の丘 日吉本町3丁目側
丘の上に到達するにはもう一つ階段を登らなければなりません。1本目の階段と比較すると傾斜角は同等です。水平距離約8mを4m登るだけのこの辺りでは小規模な階段です。
日吉台の丘 日吉本町3丁目側
段差の摩耗具合に渋さを感じながら登り切ると丘の上に出ます。石製の古びたマンホールに愛着を感じます。この先は緩やかな坂が終わるところに尾根道があります。

丘の最も高いところで標高35mになります。

日吉台の丘がある岬は12万年前の下末吉海進の頃は海底にあり、その後の大規模な海退を経て6千年年前の縄文海進の頃は海岸線だったと考えらえられます。

明治42年の陸軍計測部の地図によると日吉本町3丁目の斜面は戸袋と呼ばれていた様です。また、大正14年の同部発行の地図によると岬の先端は竹鼻と書かれています。

箕輪3丁目側には竹林がありました。

つづく…ほいじゃ

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下末吉台地の崖崩れ「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑥

彫の深い地形はマニアにとって最高の嗜好品ですが、住人にとっては時に悩ましい問題となります。東京スリバチ学会「日吉フィールドワーク」で終盤に通った日吉本町二丁目の斜面は崩れていました。
金蔵寺と日吉本町2丁目の丘
前回のブログで登場した金蔵寺の裏山とこの崖は連続しています。金蔵寺の裏山は「日吉本町二丁目の台地」の南斜面にあたり、崩れた現場は西斜面です。
日吉本町2丁目の丘
この辺りは多摩丘陵の先端部に位置した下末吉台地(しもすえよしだいち)の一角です。下末吉海進で形成された崖面と掘りの深い地形が特徴です。
日吉本町2丁目の丘
崖崩れの現場は人工的に補強されおらず地層が露出する斜面でした。本来なら木々の根が支える法面なのですが、地中の水分が過剰に蓄積され崩れた様です。
日吉本町2丁目の丘
崩れた崖を眺めながら歩いていると偶然通りかかった親子と会話になりました。「怖いんですよ」とお母さんが言いました。「ここ崩れるですよ。」
日吉本町2丁目の丘
子供たちは強い子をアピールするかの如く「怖くない~」と一斉に呼応しました。そこにいた大人たちは苦笑いするしかありませんでした。大人になれば分かるだろう…。
日吉本町2丁目の丘
お母さんから話を聞くと何年か前に別の場所も崩壊したことを知りました。ビニールシートがある所と聞き探しました。現場に行くとシートはすでに劣化していました。

後で神奈川県の災害情報を調べると平成2004年10月20日から21日の台風23号(トカゲ)で起きた崖崩れでした。
日吉本町2丁目の丘
四国に上陸した台風で最も遅く、本土に上陸した台風としても過去3番目に遅いものでした。上陸直前に超大型から大型に勢力は弱まったものの秋雨前線の影響もあり平成の台風としては最大の被害を出しました。

全国で死者・行方不明者98名、負傷者552名でした。

2004年と言えば数日後の10月23日に新潟県中越地震が起きました。先日訪れた新潟県小千谷市の被災地でも崖崩れの現場を見ました。ここと同じように横穴が掘られた場所でした。
日吉本町2丁目の丘
「日吉本町2丁目の西斜面」を数字で表してみました。ある断面を切り取ると道路の標高は約6.5m、崖の高い所で約36.5m、直線距離100mです。300‰又は30%の傾斜です。

大まかですが傾斜が最も級な辺りで35%の傾斜でした。崖を下る階段も見事でした。
日吉本町2丁目の丘
階段の上部で標高約30m、下りた所が約9.5mです。距離にして約100mあるので勾配は20.5%の勾配です。歩き甲斐のある階段です。土の部分もありちょっとした登山感覚です。

横浜市オリジナルデザインのマンホールが街歩き好きには堪りません。

本来、人間がいなければ斜面が崩れるのは問題にはなりません。むしろ自然です。人間が無常の台地に住み、安心、安全、安定を求める余りに感じる問題しかありません。

これだけの崖が1000年後に同じ形をしている訳がありません。

科学技術の21世紀に自然を理解し共存を追求することが大切なのではないでしょうか。

次は箕輪町の丘を越えます!

つづく…ほいじゃ

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日吉の由来と歴史、神仏習合の裏山「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」⑤

「勾配があれば歩く」東京スリバチ学会の性なのかもしれません。私も同類なので願ったり叶ったりでした。「日吉フィールドワーク」で午前中に一度立ち寄った金蔵寺に戻り裏山を登りました。

ただの裏山ではありません。

現在、日吉と呼ばれる地名の由来になった場所であり、神仏が融合した不思議な空間でした。
金蔵寺 山門
本堂の左を抜けると「辨天堂」と書かれた建造物がありました。名前はお堂です。建造物下部は空洞になっており通り抜けできます。どう見ても山門です。
金蔵寺 山門
入口と内部には密教的な派手な装飾が散りばめられています。壁面には多彩に描かれた弁天様、天井に黒く描かれた龍が印象的です。弁天様と龍の関係は定かではありません。
金蔵寺 山門
立派な御堂なのですがあまり知られていない様です。検索しても公式ページは見付からず、個人ブログの情報ばかりです。

金蔵寺は平安時代に建立され江戸時代に最も栄えた寺でした。肩書きもたくさんあります。
関東三十六不動五番
関東百八地蔵八十五番
准秩父三十四観音三番
横浜七福神(寿老人)
金蔵寺 山門
お堂を抜けると鳥居がありました。「金五拾円也 正一位稲荷大明神 駒林 谷戸講中」駒林の谷戸で作る信仰の集まりがお金を出し合い鎮座させたお稲荷さんなのでしょうか?

お寺で鳥居を見たのは初めてかもしれません。神仏習合が残った場所なのでしょうか?
金蔵寺 不動明王
さらに登ると三体の不動明王が祀られています。嘉永2年(1849年)に木月(現在の川崎市中原区)が矢上川の水害に襲われ親子が亡くなりました。

被害者を弔い、再び惨事が起きない様に北加瀬、矢上、木月が施し、信仰した不動尊です。
金蔵寺 日吉山王権現の碑
次に「日吉山王権現の碑」があります。日吉山王権現は比叡山の山岳信仰、神道、天台宗が融合した神仏習合の神です。神仏習合の場所に感じて仕方ありません。
金蔵寺 日吉山王権現の由来
少し上がると「日吉山王権現の由来」と書かれた碑があります。日吉という地名の由来が書かれています。明治に町村合併される以前に日吉という地名は存在しませんでした。
金蔵寺 奥ノ院弁財天
次は「奥ノ院 弁財天」です。弁財天は元々ヒンドゥーの神ですが、仏教と神道の両方に取り込まれた神です。こちらも神仏習合が色濃く残っています。

日本は奈良の大仏が出来て以来、明治の神仏分離まで神仏習合の国でした。
金蔵寺 奥ノ院 不動
裏山の木々に囲まれた空間に入りさらに登ると最上部付近に「奥ノ院不動尊」があります。金蔵寺は天台宗のお寺なので不動明王が祀られている点に違和感がありません。

やはり、裏山の中腹にあった日吉山王権現と弁財天が異色です。
金蔵寺 奥ノ院の上
一つ残念な事があります。奥ノ院不動尊から「緑地化保存地区」と書かれた表示を超え登りました。丘の最上部には鉄筋コンクリトート製の建物が!

それまでのしっとりとした和の雰囲気が台無しです。
金蔵寺 奥ノ院への参道
本堂周囲の標高は5.5~6m程度、裏山の最高点は約36mです。本堂の裏から差異頂部までの直線距離約80m、標高差は約30mなので計算上約37.5度の崖になっています。

参道は100m程度で斜面を数回折り返し登って行きます。

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<日吉の由来と経緯について>
日吉村は現在の川崎市と横浜市にまたがる今よりも広い地域でした。今でも川崎市に日吉中学校、日吉小学校があります。明治時代に日吉の分割はもめた出来事だったそうです。

江戸時代から明治前半にかけて10部落が存在した地域でした。明治になり武蔵国橘樹郡から神奈川県橘樹郡に変わりました。多摩丘陵は武蔵国だったという事が伺われます。

<昔からある部落の名前>
駒林、駒ヶ橋、矢上、箕輪、鹿島田、小倉、北加瀬、南加瀬、苅月、木月

今でも大体が地名として残っています。

明治5年 大区小区制で各村々が区分けされた。
明治11年 郡区町村編成法で各村々が復活した。
明治22年 市町村制による町村合併で日吉村が誕生した。

多くの部落をまとめた名前を決めかね、一井寺(駒林金蔵寺)の裏山に比叡山日吉山王(現在の日枝神社)から分霊された日吉山王権現が鎮座されていることから日吉村になりました。

大正15年(1926年)東京横浜電鉄(東京急行電鉄→東急電鉄)
昭和8年(1933年)慶応義塾予科を誘致 
昭和14年 横浜市神奈川区に編入
昭和16年 横浜市北区に編入 日吉村の名がなくなる

元々、矢上川の左岸は稲作の水路の関係で川崎市側と関係が深く、右岸の地域では生産物である果物の出荷で横浜市側と強い関係にありました。

鉄道が敷かれその傾向はさらに鮮明にとなり、慶応義塾が横浜市の水道を引いたことで対立が頂点に達しました。最終的には神奈川県の裁量により現在の区分けに落ち着きました。

次回は金蔵寺裏山の崩落箇所について。

つづく…ほいじゃ

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金蔵寺と仏の化身?「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」④

街歩きをしていると不思議なことが度々あります。タイミング良く誰がすっと現れて、色々と教えてくれます。どこの誰だが分からず仕舞です。まさに一期一会の世界です。

後になって「仏の化身だったのでは?」と思う程です。
金蔵寺(横浜市)
東京スリバチ学会「日吉フィールドワーク」の一行は日吉の金蔵寺(こんぞうじ)に到着しました。住所は横浜市港北区日吉本町二丁目で、谷戸の崖下にある天台宗のお寺です。

本尊は智証大師作と伝わる大聖不動明王で、横浜七福神の一つに数えられる寿老人が祀られている寺院です。
金蔵寺 お地蔵さん
私はお地蔵さんに吸い寄せられる様に黙々と撮影していました。すると掃除道具を持った小父さんが話しかけて来ました。お地蔵様を撮っていると言うと珍しそうに見ていました。

それから親切に色々な事を教えてくれました。お地蔵さんが作ってくれた縁?
金蔵寺 隠れキリシタンの灯籠
まず、横にある隠れキリシタンの灯篭です。燈籠の下部には何やら人らしき姿が掘られています。後で調べると神奈川県内には隠れキリシタンにまつわる場所が数々あります。

東国の隠れキリシタンが江戸時代を通して存在し続けた証しです。
金蔵寺 山門へ
それから金蔵寺に「日吉」の由来が書かれた碑があることを聞きました。碑は金蔵寺の横を通り山門を抜けた斜面にあります。さらに上へ行くと奥ノ院がある事も教えてもらいました。

ところがフィールドワークの一行はすでに次の目的地に向かい出発していました。

「機会があれば行ってみます!」そう言って私も寺をあとにしました。この事を道中で皆川会長に話すと、帰りの道中で早速「次の機会」が訪れました。
金蔵寺 櫻大門
山門と碑の事は次に書くことにして、まずは金蔵寺について掘り下げます。櫻大門という参道がありました。「櫻大門」と掘られた文字の下に由緒らしき事が書かれていました。

後になって気付き写真を拡大しましたが読み取れません。

「貞享8年(1685年)」という文字の後に人名が並んでいます。金蔵寺の歴史と合わせ考えれば、その頃にできたとしても不思議ではありません。
金蔵寺 徳川家康、秀忠の梵鐘
金蔵寺の建立は平安時代の貞観年間(859~879年)です。天台宗第五代座主の智証大師が清和天皇の勅願を受けて造りました。江戸時代に幕府の庇護のもと寛永寺の末寺として栄えました。

また、德川家康、秀忠が寄進した梵鐘が残っています。通り過ぎた場所でしたが運良く写真には収めてありました。櫻大門が1685年頃に出来ても不思議はありません。

金蔵寺はフィールドワークの行きと帰りに立ち寄った場所です。

時間軸は前後していますが、内容的にはまとめた方が無難だと判断しました。次は金蔵寺の山門、日吉権現の碑、奥ノ院と明治以前の日吉史について書きます。

それにしても一期一会の出会いは大切です。「知る」きっかけを与えてもらいました。

つづく…ほいじゃ

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スリバチを臨む見事な階段群「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」③

道路から外れて階段へ。東京スリバチ学会の「日吉フィールドワーク」でまず訪れた場所は日吉本町3丁目の丘でした。丘の上に慶応義塾普通部があり、斜面から谷底まで住宅地が広がっています。
日吉本町3丁目の丘(横浜市)
カシミール3Dで作った金蔵寺の谷です。谷間に通るのが赤門坂です。谷下から見て赤門坂の左側が日吉本町2丁目、右側が3丁目となっています。
日吉 金蔵寺の谷
ここは日吉台の一角にある谷戸です。両側の尾根には慶応関係の施設と比較的高い集合住宅が建っています。スリバチ第一の法則に準じた下町系スリバチと言えるかもしれません。
日吉本町3丁目の丘(横浜市)
赤門坂を下り切らずに慶応義塾普通部横の細い階段を登りました。坂の入口は標高にして26mから35mまで上がります。約80m区間で約11度の傾斜です。
日吉本町3丁目の丘(横浜市)
丘の上から対面の日吉本町2丁目の丘を眺めました。本に出て来るような典型的な下町系スリバチです。谷間には低層の住宅が所狭しと並んでいます。

大きな地図で見る
スリバチ地形もさることながら、この後に始まる階段群は圧巻でした。標高35.6mから270mの間に蛇行しながら標高7.6mまで下ります。特に丘の上部が急斜面になっていました。
日吉本町3丁目の丘(横浜市)
夜に一人で通るには気が引ける階段です。木々に覆われ昼間でも薄暗いトンネルの様な場所でした。雨が降っていたこともありワビサビに代表させるような日本的の美意識をくすぐられました。
日吉本町3丁目の丘(横浜市)
斜面に建つ住宅が見えて来ました。下り階段の始まりからこの辺りまでは距離にして120m、高低差にして22mあります。183‰(パミール)という山地並みの急勾配です。
日吉本町3丁目の丘(横浜市)
さらに進むと木々が木塀を押し倒しそうな鬱蒼とした階段の坂になります。鄙びた感じがする階段です。外灯もなさげで夜分この階段を通る人は稀でしょう。
日吉本町3丁目の丘(横浜市)
急勾配の斜面が終わりました。ここから緩やかで段差の低い階段が谷底の赤門坂まで途切れては現れながら続きます。様々な表情の階段を堪能できました。
日吉本町3丁目の丘(横浜市)
谷底を通り谷頭へ至る赤門坂を女坂とすれば、日吉本町の階段群は男坂です。谷と尾根のグラデーションを昇り降りし、時に上から、時に下から眺めれば五感で地形を感じ取ることができます。

レーザー測量ならぬ体感測量です。

勾配好きな私には一つだけ残念な事があります。逆方向に進みたかった。つまり、急な階段を登りたかったということです。

一行は次の目的地へ金蔵寺へ向かいます。

つづく…ほいじゃ

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スリバチ地形と赤門坂「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」②

二級?三級スリバチ?左側の一部が三方を谷に囲まれた感じもします。東京スリバチ学会の日吉フィル―ドワークに参加して、まず訪れたのは金蔵寺の谷です。

往路、復路ともに通った地形です。順路を無視して金蔵寺の谷をまとめて書くことにします。
日吉 金蔵寺の谷
この谷をカシミール3Dで立体化してまず気になった部分は谷間の坂です。「赤門坂」という名前が付いています。赤門の由来を丁寧に取材した記事を発見しました。

「はまれぽ.COM」という情報発信サイトです。
赤門坂(日吉)
昔から赤く塗られた民家(横山邸)の門でした。鬼門の魔除けとして門は赤く塗られているそうです。坂の名前が付いたのは1947年に日吉台中学校が創立した後だったそうです。

隙間がない程に宅地化されたのは近年の事で当時は山中の様相だった様です。
赤門坂(日吉)
地理院地図の5mレーザー計測情報を使い坂の最高点を丹念に探すと標高31.5mです。坂下の位置は道が分岐する辺りが適当な様で標高は5.5mあります。

坂の距離はGoogle Mapのルート計測すると350mになりました。

大きな地図で見る
74.3パミールという登山鉄道並みの坂です。実際に歩くと淡々と勾配が続く心地良い坂でした。地形をかじった人なら金蔵門の谷が水が流れた形跡だと気付きます。

今でも雨が降れば谷底へと水が流れます。排水路が地中に巡らされているはずです。
赤門坂(日吉)
写真は駅に戻る時に撮影したものです。出発した時点では雨が降りしきっていました。赤門坂を登ったのも帰りで、行きは赤門坂を通らずに写真にある階段を登って行きました。
日吉 金蔵寺の谷
金蔵寺の谷の3D図でいうと左側の斜面です。頂上にあるのが慶応義塾普通部です。一行は斜面の住宅地を通り典型的なスリバチ風景を眺め、見事な階段群を下りました。

つづく…ほいじゃ

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日吉の地勢「日吉フィールドワーク(東京スリバチ学会)」①

最初に「日吉」と聞いた時にどこだから分かりませんでした。実際に行くと地形冥利のある見事な場所でした。10月26日の東京スリバチ学会の日吉フィールドワークは日吉に参加しました。

事前調査ゼロ、土地勘ゼロの状態で参加し、私にとってブラインドタッチ的なフィールワークでした。

東急東横線の日吉駅(1926年開業)に到着したものの誤って慶応大学キャンパス内の出口に出てしまい集合場所を探すだけで一苦労しました。
日吉台
日吉は多摩丘陵の東端近くに位置しています。駅前には綱島街道(県道2号線)が高台を貫いています。鎌倉街道の一部だった街道ですが日吉付近は旧道に該当しません。

わざわざ、高台を貫く街道を鎌倉時代に作らないでしょう。

旧鎌倉街道沿いの高台と言うのが妥当かもしれません。その頃は日吉という地名もありませんでした。北から東に回り込む矢上川と西から南へ抜ける早渕川に囲まれた台地です。

どちらの川も南下して鶴見川に合流します。
多摩丘陵
多摩丘陵の多摩と言う字に惑わされてはいけません。横浜市まで伸びている琵琶湖の半分弱ある300平方キロメートルの丘陵地です。多くの行政機関をまたがっています。

東京都八王子市、日野市、多摩市、稲城市と神奈川県川崎市、横浜市です。

北は日野台地と多摩丘陵を隔てる浅川、西は高尾山の麓まで、東は多摩川、南は三浦半島の根元にある横浜市の円海山緑地帯です。

丘陵地帯は三浦半島の三浦丘陵につながっています。

多摩丘陵の大部分は旧武蔵国であり、旧相模国だった三浦半島と合わせて武相丘陵と呼ぶこともあります。神奈川県側ののみを川崎・横浜台(丘陵)と言うこともあります。
日吉地図昭和5年
古地図を見ましょう。昭和初期の日吉は橘樹郡日吉村でした。これは昭和5年(1930年)の横浜市全域の地図ですが端の方にギリギリ描かれていました。

駅前の特徴的な放射状の土地は描かれていません。

線路も描かれていません。東急東横線の日吉駅ができたのが大正15年(1926年)だから省略されている可能性があります。
日吉地図昭和9年
4年後の昭和9年(1934年)には放射状になった駅前の道が出現します。特徴的なのは右側半分だけある事です。左側半分は後に作られたことが分かります。

東急東横線が「東京横濱電気鉄道」と書かれています。

また、この地図では現在も同じ場所にある「慶応義塾」、「金蔵寺(こんぞうじ)」、「大聖院」、「熊野神社」、「神明社(日吉神社)」の表記があります。

「駒林小学校」は位置が変わっています。
神奈川縣觀光圖繪(抜粋)昭和9年
同じく昭和9年(1934年)のものですが俯瞰図です。神奈川縣觀光圖繪から日吉を付近を抜粋してみると日吉と慶大の文字がはっきり書かれています。

東急東横線は「東京横浜電鉄線」と微妙に違う表記になっています。

また、絵を詳しく見ると日吉の名前の由来となった金蔵寺奥ノ院の高台が描かれています。明治時代以前の日吉と名前の由来については金蔵寺の部で詳しく記します。
日吉駅前普通部通(横浜市)
日吉駅前に無事集合した日吉フィールドワークの参加者と共に出発しました。生憎の雨にも関わらず大人数となりました。「普通部通」は行きと帰りに通った道です。

放射状の道の左側で後から作られた区画です。由来は道の先にある慶応大学普通部の様です。
日吉 金蔵寺の谷
第一の目的地はこの「金蔵寺の谷」でした。正式名は知りませんが取りあえずそう呼ぶことにします。この谷を登り下りしながら地形と寺を堪能しました。

つづく…ほいじゃ

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都電荒川線で東京地形横断【最終回】「高田馬場発 半日満足ツアー」⑧

かつての美しい面影はありません。神田川に架かる面影橋から水面を眺めるとコンクリートに囲まれた典型的な都会の川と言った風景です。

橋も鉄筋コンクリート製で趣はありません。

歌川広重の名所江戸百景にも登場する美しい流れがあった場所です。東京の街歩きで外せない数々の伝説が残る場所です。

「高田馬場発 半日満足ツアー」の最終回です。
面影橋
江戸時代の古地図には面影橋でなく姿見橋と書かれています。面影橋は姿見橋は別名であり同じ橋だったという説が一つあります。

別々の橋だったと対抗する説もあります。

歌川広重の名所江戸百景では二つの橋が描かれています。神田上水に架かる大きな橋が姿見橋で、その先にある小川の橋が「俤の橋(面影橋)」です。

中心から外れた鄙びた場所にあり記録が曖昧な点は否めません。

室町時代後期の武将「太田道灌」の「矢吹の里」伝説にも登場します。また、面影橋(姿見橋)の由来は数々あり、どれが有望かハッキリしていません。
面影橋
1、在原業平が姿を映した場所という説
2、徳川家光が名付け親だったという説

そして、

3、「於戸姫(おとひめ)」伝説が由来と言う説

於戸姫は美し過ぎる姫でした。美貌が災いとなり周囲で不幸な事件が連続しました。自らも人を殺めました。美貌を恨み黒髪を切落とし川面に写る自らの姿を見ました。

そして、身を投げました。村人はここで姫の面影を偲んだとう伝説です。
都電荒川線 熊野前
橋を渡った先の高田町に「山吹の里」の碑があったそうです。見逃しました!そんな事も知らず友人と私は都電荒川線の「面影橋停留所」から帰路に立ちました。

かつて東京中を巡った都電はモータリゼーションと共になくなり唯一残ったのが都電荒川線です。
都電荒川線
早稲田から三ノ輪までの12.2㎞を結ぶ豊島台・本郷台横断鉄道です。地形冥利のある区間は面影橋停留所から王子駅前停留所の台地横断区間です。

中川(神田川)が削った谷にある発着停留所「早稲田」、二つ目の停留所「面影橋」を過ぎると都電荒川線は豊島台に登ります。
山手線と都電荒川線
スリバチ本でも登場する雑司ヶ谷を通過する区間です。また、この区間では「弦巻川の谷」と「水窪川の谷」と窪みの浅い谷の上部をかすめるように路線が敷かれています。

大塚駅前停留所の付近でJRの路線とクロスします。大塚クロス!
大塚クロス
大塚駅は谷端川(やばたがわ)が削った谷にあります。下流は小石川と呼ばれる川で最終的に神田川と合流します。現在はほぼ暗渠化されその姿を見る事はできません。

大塚駅を過ぎると本郷台へ登ります。
都電荒川線と飛鳥山
本郷台では旧中山道とクロスします。庚申塚停留所がその場所です。中仙道沿いの庚申塚があるのでしょう。「妙行寺下の窪地」の上部を通り抜けると一気に音無渓谷へと下ります。

飛鳥山を迂回する都電荒川線が見事です。

飛鳥山停留所から王子駅前停留所までの迂回する路線は唯一残る車道と区分されない併用区間です。
都電荒川線 面影橋
友人は王子駅前停留所で下車しJR王子駅で京浜東北線に乗り換えました。私はこのまま熊野前まで行き都電荒川線と同じ「軌道線」を走る日暮里・舎人ライナーに乗り換えました。

すでに外は真っ暗でした。飛鳥山、音無渓谷、王子はいつか歩き回るチャンスが来るだろうと期待しつつ…。
都電荒川線 面影橋
都電荒川線は台地区間を過ぎると低地帯をひたすら進みます。小台、宮ノ前、と道路中央部分に準専用軌道があるセンターリザベーション方式の区間の終わりが熊野前です。

ここで「高田馬場発 半日満足ツアー」は終了!

山手線で高田馬場に乗り込み、秣川跡を辿り、戸山公園大久保地区を経て、戸山公園箱根山地区で箱根山頂上、高田馬場流鏑馬を堪能しました。

その後に流鏑馬の馬の尻を追いかけて穴神社へ行き、それから高田馬場跡を経て山吹の里ルートで面影橋に到着しました。

帰りは都内で唯一の都電に乗り豊島台、本郷台を横断しながら東京の地形を感じ、箱根山と並び都内では有名な飛鳥山の裾を回るディズニーランド並みのアトラクションでした。

今度はどのルートでぶらぶらしようか?まずは王子、飛鳥山付近には行かないと!

ほいじゃ

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高田馬場跡と古い坂のわびさび「高田馬場発 半日満足ツアー」⑦

高田馬場の流鏑馬で受けた余韻を残しつつ帰路に立ちました。街歩きでは帰路も大切なルートです。最短距離を選ばずに高田馬場跡へ向かしました。

そして、以前通りたくて通れなかった面影橋へ続く古い坂道を通ります。
穴神社、高田馬場跡、面影橋
まずは穴神社から高田馬場跡へ向かいました。友人にも高田馬場の由来となる場所を実際に目で見て欲しいと思いました。

実際は馬場は残っていません。しかし、周回する道の一部が残っています。
安政江戸図1859年
安政江戸図(1859年)には高田馬場が描かれています。この地図は上がおおよそ東です。時計回りに東の角を回り直線を西に向かうと最初に出会う南へ向かう道が神田川の面影橋(姿見橋)へ続く坂道です。

この坂道は下り坂になっており、高田馬場は高台にあったことが分かる場所です。
高田馬場跡 茶屋通り
高田馬場の東の角には現在「茶屋通り」と呼ばれる高田馬場沿いの道が当時の面影を残しています。高田馬場があった江戸時代には馬場の風景を見学できる茶屋が何軒かあったところです。

高田馬場は1636年に造営された馬術練習場でした。流鏑馬の奉納も行われた場所です。
高田馬場跡 茶屋通り
上にある写真の長い直線が高田馬場の北面にあたります。写真で見ると馬場は右側にありました。馬場は明治になり廃止されました。今では建物で埋め尽くされています。

高田馬場の由来は諸説あります。

1、高田藩主松平忠輝の生母高田殿の遊覧地だったから
2、高台にあるので民から高田と呼ばれていたから
高田馬場跡から面影橋へ下る坂
高田馬場から当時は姿見橋と呼ばれた現在の面影橋へ坂を見下ろすと馬場付近が高台にある事を視覚的に理解できます。この坂は平川(神田川)が削った台地です。

この坂は江戸時代の地図にも記載されている道です。そして、江戸時代以前は「山吹の里」と呼ばれていたと言われる場所です。山吹の里ルートと呼ぼう。
高田馬場跡から面影橋へ下る坂
江戸城を作った室町時代の武将「太田道灌」が鷹狩と称して探索に度々足を伸ばしたところと言われています。坂の西側にある水稲荷神社内には「太田道灌 駒繋松」が残されています。

また、水稲荷神社から続く甘泉園を歩けば「山吹の里」を想像させる様な雑木林が印象的です。
高田馬場跡から面影橋へ下る坂
この坂は歩く分には心地よく良く坂を堪能できる傾斜です。坂上が標高18.3m、坂下が標高9.4mと約270mの間に8.9mの高低差があります。

数値にすると33.0パミールです。

電車にはきつい坂ですが、歩く分には問題ありません。坂の途中には「松屋食品店」と看板が掲げられていた古い店があります。昭和の香りがします。
高田馬場跡から面影橋へ下る坂
街歩きをしているとどうもこうした建物に反応する自分がいます。蔓が看板や壁面を覆っているところに趣を感じずにはいられません。

古語で言うと「いとをかし」です。これが「わび・さび」なのでしょうか?

経年劣化して閑静な少し粗雑さな様子に美を感じるのは日本人らしくなった証拠でしょうか?それとも私が年を重ね心が経年劣化しているのでしょうか?

それはさておき、古道、特に古い坂を通ると当時の人達の息遣いが聞こえる気がします。

この坂を下り終わると東京唯一の都電「東電荒川線」が走る新目白通りにぶつかります。この通りは鎌倉街道だったのではないかと言われる古い道です。

そこに面影橋(姿見橋)があります。

つづく…ほいじゃ

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