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格好良い! 高田馬場 流鏑馬 「高田馬場発 半日満足ツアー」⑤

元来、馬好き。勝手に遊牧騎馬民族の末裔だと勝手に思っている私に流鏑馬は興奮に値する行事です。人馬一体となり的にめがけて矢を放つ姿は馬好きでなくとも興奮に値します。

毎年、体育の日に行われる高田馬場流鏑馬のシーンです。
高田馬場 流鏑馬 2013/10/14
流鏑馬の発祥は平安末期から鎌倉時代と言われています。馬上から的を射る練習が後に神へ奉納される様になりました。鎌倉時代以降に一度途絶えた流鏑馬を再興したのが八代将軍徳川吉宗公です。

古書を調査させ流鏑馬の儀式を確立させました。
高田馬場 流鏑馬 2013/10/14
行事の進行、服装は規定が細かく規定され同じルーチンで行われています。穴八幡から戸山公園の流鏑馬会場に行列を組んでやって来ます。

1、定刻前に衣装に着替える
2、午後1時 祭典 お祓い
3、行列に移る
4、馬場に到着。埒(らち)の左を通り馬場末まで行き馬から降りて跪く
5、名代役、日記役は日記所に着座する
高田馬場 流鏑馬 2013/10/14
馬が走る馬場を埒(らち)と呼びます。スタート地点を馬場元、反対側を馬場末と言います。その間に一の的、二の的、三の的が設けられます。

的毎に以下のスタッフが配置しています。
的奉行 1名
采揚、矢取 3名
的持 5名
高田馬場 流鏑馬 2013/10/14
吉宗公の時代に古文書を綿密に検証して再現された衣装です。開始前には射手1名と日記役1名が二の的あたりで開始を宣言します。

日記役:(一礼)「流鏑馬始め候へ」
射手:「承り候」(えしゃく)
高田馬場 流鏑馬 2013/10/14
この日は開始が遅れました。会場では例年より長い時間、今風に言うイベントDJの解説が続きました。切れのあるトークでなく、お爺さんがのらりくらりと話す感じした。

会場が和みました。

歴史的背景等を説明するのですが、長々と話した後に必ず「え~、よく、…わかっておりません。」と言う落ちが必ず付け加えられました、
高田馬場 流鏑馬 2013/10/14
実際に吉宗公が再興する時点で良く分からない事ばかりでした。突き詰めると所、再興時の規定を大切して純粋に流鏑馬を楽しみながら奉納することが大事だと察しました。

ちなみに上の写真が唯一撮れた的を射た写真です。

速い馬、遅い馬がいて流鏑馬の技量が求められます。写真撮影も同様です。サラブレッドらしき速い馬の時の成功率が低いのですが迫力満点です。
高田馬場 流鏑馬 2013/10/14
判定役が的を射たとジャッジすうと褒美がもらえます。見事、的を射た射手は一走毎に二の的の辺りで褒美を受ける儀式に立ち会います。相撲の様です。

高田馬場流鏑馬が始まってから現代までの流れは次の様になっています。

1728年 将軍家奉納の穴八幡神事流鏑馬が高田馬場で開催される
(明治になり途絶える)
1934年(昭和9年)皇太子ご誕生奉祝 場所:穴神宮境内 戦前数回
(戦前は数回開催される)
1964年(昭和39年)水稲荷神社が移転のおりに同宮内で流鏑馬を再興
(例年体育の日となる)
1979年(昭和54年)から戸山公園内に会場を移す
1988年(昭和63年)新宿区指定無形民俗文化財となる

神へ奉納される行事としては相撲と似てスポーツ感があります。やはり、良く決める射手は格好良く見え、スポーツ選手に向けたリスペクトの様な感情を抱きます。

江戸時代に射手はモテたことでしょう。

つづく…ほいじゃ
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新クリアファイルGET!箱根山の由来?「高田馬場発 半日満足ツアー」④

東京23区で登山というと三ヶ所が浮かびます。愛宕山、飛鳥山、そして箱根山です。もう一つ加えるならば鳩森八幡神社の富士塚でしょうか。標高からすると大した事はありません。

しかし、比較的平坦な都市で登山ともなれば、どこか滑稽で且つ嗜好性の高い遊びになります。それにしてもなぜ「箱根山」が都内になるのでしょう?
尾張徳川家下屋敷窪地
以前から気になっていたルートを行きます。明治通から戸山公園箱根地区の窪地へ下る道です。その先に箱根山が見えます。実際に深い切り込みを期待していましたが案外でした。

標高29mの明治通りから標高19mの箱根山口までの距離は約378mです。26.5パミールと比較的緩やかな坂でした。
尾張徳川家下屋敷窪地 蟹川(金川)跡
箱根山の麓には蟹川【かにがわ・かにかわ】が流れていました。現在は暗渠化されている上、川跡を探すのが困難な箱根山付近を流れていた川です。

ちなみに別名は金川【かねかわ】です。

水源は新宿一丁目の太宗寺付近と西武新宿駅付近の二箇所があり、下流でカニ川などと合流し神田川に流れ込んだ川でした。
戸山公園 箱根山(東京都)
標高44.6mの箱根山です。未だに残念なのが自然の山でなく江戸時代の築山だった事です。この窪地には尾張徳川家下屋敷の江戸時代有数の巨大庭園がありました。

当時の回遊式庭園では築山は一般的な事です。

尾張徳川家下屋敷の発掘調査が現在でも新宿区によって行なわれています。区役所第1分庁舎地下2階で出土品などの展示が行われているそうです。
戸山公園 箱根山(東京都)
築山とは言え立派な小山です。自然の地形を利用しのでしょう。ルートは距離にして200mで標高19m辺りから44.6mまで登ります。

勾配は所々で変わるので完全な比較にはなりませんが、78パミールと箱根登山鉄道並み(80パミール)の勾配です。

一つ気になることがあります。箱根山の公式な標高は44.6mとなっているのに「地理院地図」の頂上三角点のが42.5mになっています。
戸山公園 箱根山(東京都)
頂上を取り巻く円状の道に案内板があり昔の尾張徳川家下屋敷の姿が描かれています。庭園の見所は築山である箱根山に加えて大きな池があったことの様です。

現在は池はなく戸山ハイツとなっています。
戸山公園 箱根山(東京都)
頂上でサプライズ!偶然にイベント開催中でした。通常では「登頂証明書」は戸山公園の管理事務所で入手するのですがイベント中という事もあり頂上でもらえました。

加えて新たにできた特製クリアファイルとパンフレットを入手しました。
戸山公園箱根山でもらった物
「尾張徳川家下屋敷戸山荘遺構 箱根山(玉円峰)登頂記念」と書かれています。また、解説も書かれていました。要約すると次の様になります。

・箱根山は下屋敷のほぼ中央に位置した築山
・江戸時代の呼び名は麻呂ヶ嶽、又は玉円峰と呼ばれた
・小田原の街並みを原寸大で模した「御町屋」があった。
・箱根山と呼ばれる様になったのは明治時代から
・明治7年に戸山陸軍学校ができた。
・第二次世界大戦後は国有地になり昭和29年に一部が公園になった
戸山公園 箱根山(東京都)
クリアファイルとパンフレットで尾張徳川家下屋敷にあった庭園の全体像がつかめました。要するに小田原宿を模して庭園を作ったという事です。

東京の中になぜ箱根なのかという事も理解できました。

年に1回、体育の日の月曜日に行なわれる「高田馬場の流鏑馬」の開始時間が近くなりました。急いで開場へと向かいました。

つづく…ほいじゃ

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水源を探せ… 戸山公園大久保地区「高田馬場発 半日満足ツアー」③

水源を探す浪漫を始めて知ったのはNHK特集「大黄河(1980年)」でした。「将来、こう言う仕事がしたい!」と思っていた少年でしたが今は仕事の傍らでやっています。

やはり、大黄河から比較にならない規模の神田川支流の秣川(まぐさがわ、又はまつがわ)の源流に向かって歩きました。
戸山公園 大久保地区
秣川は戸山公園大久保地区の入口付近に流れていた様です。諏訪通り沿いの階段になった入口から入りました。通りの標高は22m台、公園内に入ると27m台なります。

距離にして50mあり、高低差は5mです。100パミールと箱根登山鉄道以上の意外な勾配です。
戸山公園 大久保地区
祝日という事もありイベントが開催され様々な団体が活動していました。公園内はほぼ平坦です。手前と奥とでは約2~3m程度の勾配差です。

昭和29年6月に開園した都立公園ですが、それ以前は陸軍の施設がありました。

陸軍戸山学校です。1873年(明治6年)に陸軍兵学寮戸山出張所ができ翌年の1874年(明治7年)に陸軍戸山学校となりました。
戸山公園 大久保地区
陸軍戸山学校の中心は戸山公園内と同じく箱根山地区です。ここ大久保地区は古地図によると「陸軍戸山学校 附属地」となっていました。

射撃場や5年ほどですが競馬場がありました。

競馬場は1879年(明治12年)に来日する元グラント米大統領を歓待するために造られました。
明治25年陸軍戸山学校付近
その後、共同競馬株式会社が設立され年2回ほど開催されていました。立地が悪いため1884年(明治17年)に上野不忍池競馬場へ移転しました。

明治前期の高田馬場付近は東京でも僻地だったという事です。

馬に関係した名前を持つ秣川(別名:馬屎川)らしく馬に関係する話です。江戸時代の戸山ヶ原には尾張徳川家の下屋敷がありました。下流に諏訪村、源兵衛村がありました。

川の名前からそれ以前も馬や牛に関係した事が行われた可能性があります。
戸山公園 大久保地区
戸山公園をふらふらと500m歩き一番奥までやって来ました。噴水があります。これが秣川の源流なのでしょうか?少なくとも湧出ている事は確認できました。

後日、調べて行くと多くの困難にぶつかりました。
秣川流路推測
まず、大久保付近の良質の古地図を見付けるのに難儀しました。江戸の境は戸山公園箱根山地区辺りで、明治初期の東京区部の境も同様です。早稲田さえ区部から外れています。

「川の地図辞典(菅原賢二著)」では戸山公園大久保地区の奥で流路が終わっています。しかし、iPhoneアプリの「今昔散歩」ではさらに先まで続いています。
戸山公園 大久保地区
戸山公園大久保地区から通り隔てた大久保三丁目に池がありました。流れはさらに先まであり、現在の三丁目と二丁目を隔てる大久保通で途絶えています。

ネットで検索できるあらゆる古地図を見ましたが裏付けが取れる資料が見付かりません。

フィールドワークも高田馬場流鏑馬の時間に間に合わなく戸山公園大久保地区の南端に丘の上で終了です。ただ、「今昔散歩」に表示される古地図は存在するはずです。
戸山公園大久保地区裏側
加えて別の疑問も解消されずに終わりました、戸山公園大久保地区の奥にある小山が盛土なのか昔からある地形なのかです。

江戸時代は尾張德川家の下屋敷、明治から終戦までは陸軍の施設でした。

土地の改変があっても不思議ではありません。財力に任せた庭園の築山、演習等のための地形改変の可能性が残されています。

新宿区の図書館などまだミステリーを解明する方法は残されています。大久保の「秣川の流れと池の存在」の探索と共にいつか再挑戦するつもりです。

煮え切らない状態ですが次へと進みます。

つづく…ほいじゃ

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秣川跡の道(馬尿川)「高田馬場発 半日満足ツアー」②

川跡歩きは町を知る上で重要です。上水道が整備された時代に生きる私には蛇口を捻れると水が出ることは当たり前のことです。しかし、それ以前は水がある所に住むしかありませんでした。

おのずと川筋に深い歴史が刻まれています。

歴史の深さ同様に、川は谷間を作り地形をより魅力的に、且つ豊かにしています。
高田馬場ツアー13
上流を秣川【まぐさがわ、まつがわ】、下流を馬屎川(ばしがわ)と呼ばれた川の跡です。秣【まぐさ】とは馬草と書くこともある様に馬や牛のエサになる草です。

馬屎の屎は「くそ」とも読み馬糞のことです。馬が関係した川ということになります。
秣川跡の道
秣川は大久保2,3丁目付近を源流として神田川に流れ込んでいた神田川支流のひとつでした。かつての川筋は道路になっています。暗渠になっているという情報はありません。

ここで、ひとつ後悔があります。

神田川の合流点付近からスタートせずに途中から川跡の道に入ってしまいました。上の写真にある急斜面は神田川合流点に近い川跡でしょう。旧源兵衛村のあたりです。
秣川跡の道
早稲田通りから上流に向かい歩き出しました。川跡らしい蛇行した緩やかな登り坂です。戸山公園までの区間は旧諏訪村です。ここで、ひとつ苦労したことがあります。

この辺りの古地図探しです。
秣川跡の道
高田馬場(跡)、戸山公園箱根山地区(尾張殿)、面影橋(姿見橋)までの地図は簡単に見付かります。しかし、すぐ隣の戸山公園大久保地区、秣川付近の詳細な地図を見付けるのに苦労しました。

江戸、東京府の境界線を超えた所が大久保村、諏訪村、源兵衛村だったからの様です。
秣川跡の道
川跡らしい塀が現れました。早稲田通りから旧諏訪村を通り諏訪通りまで抜ける約370mの区間は標高差が6mあります。16.2パミールの緩やかな坂ですが所々勾配が微妙に変化します。

一番最初に出した地形図を見ると深さはありませんがスリバチ状の谷間になっています。
秣川跡の道
左岸は自然堤防の様な小さな崖になっており見事な階段が設置されています。休日の昼間でも人や車の通りが少なく辺りをキョロキョロとしながらゆっくりと歩けます。

それにしても、秣川は一体どこへいったのでしょう。
秣川跡の道
マンホールを見ると「東京・下水道 管布設」と書かれています。失われた川の多くは暗渠化されていますが、この小さな神田川支流は下水道になっているのかもしれません。

下水道は自然の傾斜を利用して流します。
秣川跡の道
交差点がありました。右方向へ行くと玄国寺と諏訪神社があります。諏訪村の鎮守様です。
秣川跡の道
左方向を見るとなだからな坂になっています。浅いスリバチ状の地形であることが分かります。
秣川跡の道
とりあえず真っ直ぐの方向へ進み川跡を追いかけました。道は一段と細くなり勾配もきつくなります。
秣川跡の道
諏訪通りに出ました。ここで秣川の消息はなくなります。「川の地図」という本を見ると戸山公園(大久保地区)の奥が源流の様です。

戸山公園(大久保地区)に入り川跡を追跡しました。

つづく…ほいじゃ

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まず平川の谷間を堪能 「高田馬場発 半日満足ツアー」①

やっと、気になっていた所へ行けました。…と言っても友人と会う予定を活用したプライベート・フィールドワークです。街歩きに興味がない人でも楽しめるネタを2つ用意しました。

1、標高44.6mの箱根山登山(登頂証明書ゲット)
2、高田馬場の流鏑馬(毎年1回 体育の日)

さらに山手線で高田馬場に乗込み、都電荒川線で帰る鉄道嗜好もあるツアーです。
高田馬場ツアー131014
しかし、個人的に2つのディープな目的がありました。

1、秣川(まぐさがわ)跡を歩き源流付近(戸山公園)まで行く
2、高田馬場跡から甘泉園横の坂から面影橋(姿見橋)へ坂を下る
戸山公園大久保地区裏側
どちらも6月の東京スリバチ学会のフィールドワークに参加した時に生まれたテーマでした。写真にある戸山公園(大久保地区)裏手の小山を切り崩し通した様な道が気になりました。

反対側の風景が見たいと思いました。さらに大久保辺りの起伏のある地形を見て川筋があるはずと思いました。調べると秣川の存在に行き当たりました。

個人目的2番目の甘泉園横の坂道はフィールドワーク中に気になったが通ることのなかった道です。
高田馬場駅周辺
高田馬場に少しだけ早めに着いたので神田川までの傾斜を確かめることにしました。つまみ食いの様な行動です。「坂道で路地で昭和風だ!」

坂上が標高15.8m、坂下は12.1mで勾配は52パミール程度の徒歩で心地よい坂の傾斜です。
高田馬場 西武新宿線高架
しかし、電車にはきつい坂です。坂を下り終わると西武池袋線の高架横に出ます。西武新宿線高田馬場駅は高架駅です。曲線状に地上レベルまでに下ろして行く線路です。

川を越えた辺りで山手線の盛土でできた高架下をくぐります。

高田馬場駅は平川(神田川)が長い年月をかけて掘り込んだ谷間です。山手線をつなぐ時に谷間を通さなければならず難工事のひとつでした。
神田川 高田馬場
江戸時代初期までは平川と呼ばれ、後に神田川(神田上水)と呼ばれた川です。源流は三鷹市の井の頭公園にあり元々は日比谷入り江(現在の日比谷公園付近)に流れ込んでいた川です。

江戸時代に飲み水確保と治水のために流れが大きく変えられました。

また、もともとは蛇行していた川でしたが昭和の治水工事で直線的な流れになっています。高田馬場駅付近も古地図を見ながら歩くと流れていた場所が違う箇所に気付きます。
高田馬場早稲田口
地理院地図で三角点をチェックしました。高田馬場駅を貫く早稲田通りの三角点は標高15.9m、神田川横の三角点は標高11.6mで2点の距離は約125mあります。

34.4パミールの勾配、傾斜角3.4度と人にとっては緩やかな坂になっています。
神田川から高田馬場駅周辺
緩やかとは言え平川(神田川)が気の遠くなる様な年月をかけて削った谷間が視覚的に分かります。戸山公園(大久保地区)はさらに高くなっていて標高にして30m前後あります。

秣川の源流があったとされる場所は標高にして27m程度の所です。

余りにも神田川に夢中になり先に着いた私が遅刻しました。「ごめん!」友人と合流した後は秣川へ向かってジワジワ傾斜の道を楽しみました。

つづく…ほいじゃ

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朝日山「地元車優先」の道 『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』⑦

帰りは別の道を道を選びたい。

NPO法人まちづくり学校主催の『ブラニイガタ 小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』の3つコースのうち朝日山登山を選んだ一行は下山の途につきました。
朝日山 地元優先道路
2004年の中越地震で本道(市道朝日山線)が被災してから9年経過した今も不通のままです。歩いて登れる「恢興之道」と名付けられた旧道が2006年に整備されました。

今回、往路に使った道です。
朝日山 地元優先道路
復路は別の道へ入りました。地元の人によると四輪駆動車が必要な急坂です。頂上のメンテナンス、山道の整備に車で登れる道が必要なために整備している道です。
浦柄 朝日山への道
振り返ると急な坂だと視覚的に分かります。勾配を地理院地図の三角点とポイント計測で坂の度合いを調べました。写真にある本道と分かれてすぐの所は最大斜度区間は23度あります。

また、坂が急な130mの区間を調べると斜面は21度程度あります。
朝日山 地元優先道路
急な下りは精神的に楽なのですが肉体的にはダメージが歩くほどに蓄積されます。詳しい方が草花の解説をしてくださいました。私は不得意分野なので花の名前を忘れてしまいました。
朝日山 地元優先道路
大地震からの復旧には長い年月を必要とすることが分かりました。本道が復旧するのにあと何年かかるのでしょう。その間にニーズから別の道が整備されます。

2004年の中越地震で山は形を変え、さらに形を変え続けるのでしょう。
朝日山 地元優先道路
ここに工事用車両が置かれています。この頂上まで上がれる道もまだ整備の途中なのでしょう。さらに下ると道に「2012.9.28」と刻まれていました。最近、舗装された事が分かります。
朝日山 地元優先道路
麓に近い当りに「地元車優先」と書かれていたのを思い出しました。「観光道路」ではないという事であり、「観光道路」の復旧はまだ終わっていないということでもあります。
朝日山 地元優先道路
新潟県小千谷市の朝日山で特徴的な点は山の中にかなりの養鯉池があることです。中越地震の時は一部で崩壊したと聞きました。この道沿いの養鯉池はすべて復旧された様に見えました。
朝日山 地元優先道路
水が山肌から勢いよく出ている谷間がありました。新潟の山間部と越後平野が接するところらしい光景です。台地の端から湧水が出るのは一般的です。

朝日山を歩き思ったこと…。

「山の形は常に変わって行く」と言うことです。2004年の中越地震で変化した地形もありました。それ以外に水や風による浸食もあります。

諸行無常と仏教では言います。

山の形も同様で常に変化し同じ姿は二度と現れません。地震の傷跡と伴に前に進むしかないのでしょう。観光地としての朝日山古戦場の完全復興はまだ先だと感じました。

9年という年月…長いのか、短いのか。

次は最終です。中越地震で被害を受けた新潟県小千谷市浦柄地区ついて書きます。

つづく…ほいじゃ

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朝日山登頂!古戦場を見る『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』⑥

朝日山登頂!案内板を読み「あれ?」。この山が朝日山と呼ばれる様になったのは北越戦争の時かその後です。以前は大平木(大開)と呼ばれていました。

大平木登頂!です。

案内版には定かではなく、一説として名前の由来が書かれていました。新政府軍の兵士が麓から山頂に輝く朝日を見たとか…。
朝日山 頂上
NPO法人まちづくり学校主催の『ブラニイガタ 小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』の3つコースのうち朝日山登山を選んだ一行は山頂に着きました。

頂上は広く平らで大平木という名前がしっくり来ます。
朝日山 展望台からの風景
まずは展望台へ。展望台には朝日山の戦いと中越地震復興の資料が展示されています。展望台屋上からは小千谷の街と力強く流れる信濃川が一望できます。

同時に広い頂上を見渡せます。
朝日山 展望台からの風景
展望台から北側に小屋があります。気になります。早速、行ってみました。地元の方に聞くと観音様が納められている小屋でした。

戸を開けて中を見せてもらいました。
大平木観音 朝日山
薄暗い部屋の奥に小さな観音様が見えました。昭和16年に発足した朝日山史蹟保存会が観音様を制作依頼して、観音講(観音経を講じる会)とこの地に鎮座しました。

大平木観音と命名されました。戦死した白虎隊1名、朱雀隊20名の霊を供養しています。
朝日山 東軍野営地
頂上には看板が丁寧に設置されています。ここは東軍兵士が野営をした場所です。すり鉢状の窪地に位置しています。当時の光景を想像していました。

さらに奥へ進むと東軍兵士の墓がありました。
朝日山 東軍兵士の墓(頂上)
頂上でも戦闘が繰り広げらえたのでしょう。東軍兵士の墓は山の各所に点在しています。墓を建てのは浦柄の人々でした。そして、弔いを続けています。

次に「フランス兵法による塹壕跡」という案内板が目に入りました。
朝日山 フランス兵法による塹壕跡
写真にある溝が塹壕跡なのでしょう。メンテナンスをしていかないと埋まってしまいそうな溝です。朝日山古戦場は地元の人が協力し合い維持されています。
朝日山 展望台からの風景
朝日山頂上も中越地震で被災しました。2006年6月に行われた「朝日山古戦場復興 春の陣」でボランティアと地元の人々の力で今の姿に復興されました。

浦柄の方の話では都度都度草刈に上がって来るそうです。
朝日山 南西の城山からのビュー
疑問に思った事があります。山頂に東軍(旧幕府軍)は大砲を上げ陣を築いていました。水はどこから調達しのでしょうか?飲み水は不可欠です。

野営した跡があるので食事も頂上で作ったはずです。

地元の詳しい方に聞くと南西の斜面を少し下った所に湧水があるとのことでした。朝日山南西面の3D地形を見ると山腹に貯水池が何箇所かあります。

水の調達は問題がなかった様です。

朝日山の戦いでは旧幕府軍が山頂から麓にいる新政府軍を砲撃していました。記録によると1868年5月13日から19日の間は昼夜問わず大砲や銃の音が響き渡っていたそうです。

戦場は朝日山、浦柄地区、さらに北の三国街道榎峠の範囲でした。旧幕府軍が武力と兵力に優る新政府軍を撃退し続けた戦場でした。

戦局が一変したのは新政府軍が朝日山攻略を諦め手薄になった長岡城に進軍させたことでした。

5月19日に新政府軍は長岡城を陥落させました。しかし、7月24日に旧幕府軍は長岡城を奪取します。新政府軍は7月29日に再度攻撃をして手中に収めました。

勇敢に戦った同盟軍の人々はさぞかし無念だったことでしょう。

朝日山頂上を十分に堪能した一行は下山の途へ。

つづく…ほいじゃ

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朝日山の傷跡 『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』⑤

中越地震(2004年)から9年過ぎた今も生々しい傷跡が残っています。浦賀地区の風景を見た時は復旧終わっている様に見えました。しかし、奥に入ればまだ道半ばの箇所があります。

この崩落している道は朝日山の本道です。現在は通行止めになっており復旧作業が続いています。
朝日山登山
2006年に整備された旧道を登り切ると本道と合流します。まず目にするのは東軍兵士の墓です。私は困惑しました。東軍と言うと関ヶ原の戦いがまず頭に浮かびます。

勝者側という図式です。しかし、朝日山で言う東軍は旧幕府軍であり敗れた側です。
朝日山登山
道端にあること自体がショッキングです。明治政府は戊辰戦争後に旧幕府軍の遺体を片付けたり埋葬する事を人民に禁じました。

倒れた場所に何年も放置されたという事です。想像すればするほどにショッキングです。
朝日山登山
本道・旧道合流点付近は中越地震の被害が大きかった様子で1枚目の本道崩落現場も100m弱の距離にあります。地理院地図の1/2500には道が断絶された状態で表記されています。

また、頂上とは別に古戦場のひとつへ行く道も写真の様に通行止めになっています。
朝日山登山
生々しい地震、戦争の傷跡でした。一行は本道を頂上へ向かい歩きました。2006年に行われた「朝日山古戦場復興春の陣」で本道の整備も行われています。
朝日山登山
途中でアスファルトが途切れている部分がありました。当時の記録によるとアスファルトの路面は一部被災していたそうです。

未確認ですがこの場所がアスファルト被災箇所だったかもしれません。
朝日山登山
さらに進むと木々に囲まれたうす暗い空間がありました。よく見るとまた東軍兵士の墓がありました。まさにこの場所で亡くなり朽ち果てた場所です。

朝日山の戦いの後、遺体が山に散在していたい様子が分かって来ました。
朝日山登山
道端には野生のキノコが生えています。地元の方々と自然に目を向け、まったりとした会話をしながら登って行きました。冬期の朝日山の話も聞きました。

頂上の観音堂を雪下ろしをするために毎年3月に選抜隊が山を登るそうです。雪は深く苦労するそうです。
朝日山登山
今は秋。程良い気候、程良い勾配で負荷も感じずに標高230mの本道・旧道合流点から標高341mの頂上付近までやって来ました。このヘアピンカーブを過ぎれば頂上は目前です。

ここにも震災の跡らしき人工物がありました。
朝日山登山
壊れた道路ミラーです。まずミラーがありません。よく見ると棒の半分が地中に埋まっています。本道が途中で崩落している現時点で車で登る人はほとんどなく急いで直す必要性がないのでしょう。

ちなみに車で登れる道は1本あります。しかし、急過ぎて四駆が必須です。

その道が帰りのルートになるのですが、それはさて置いて次は頂上について書きます。朝日山の戦いでは大砲を頂上まで上げて麓の新政府軍を砲撃したそうです。

私はほぼ手ぶらで登ったのでその苦労は計り知れません。

つづく…ほいじゃ

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朝日山の「恢興之道」 『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』④

朝日山の頂上を目指し登山を介しました。頂上の標高は341mです。浦柄地区の登山口は標高46mなので295mを登ることになります。軽装備で登れるこの山も中越地震の被災地です。

3D地形図にGPSトラックデータを挿入して歩いた奇跡を表示してあります。
朝日山登山
NPO法人まちづくり学校主催の『ブラニイガタ 小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』の朝日山登山グループは被災箇所を見ながら登山を行ないました。

山全体が古戦場でもあります。
朝日山登山
まず、最初に目に付いた場所は登山口から700mほど行った所でした。山道なのにほぼ直角に左折をしました。明らかに地面の色が違います。崩落箇所を直した跡です。

地元の方に聞きました。

本道は左折せずしないで、まっすぐの方向だったそうです。車でも登れる道でした。本道は草がボウボウで廃道の様な状態になっていました。地震から9年経った今も復旧中です。
朝日山登山
中越地震で本道が使えなくなったために整備されたのが旧道です。2006年6月10日、11日に「朝日山古戦場復興春の陣」が行われました。140名程のボランティアと地元の方が作業を行いました。

「どうにか山頂まで上がれるようにしたい」という地元の要望が実現されました。「恢(かい)興之道」と名付けられました。
朝日山登山
歩きにながら地元の人から色々な話を聞きました。興味深かった話は草刈でした。写真でも分かる様にきれいに整備されています。つい先日も草刈りをしたそうです。

開通後は地元の人たちが協力し合い道を維持しています。
朝日山登山
道は徐々に険しくなり、さらに進むと桜の木のゲートがありました。斜めに倒れた桜が根を地中に残しています。春になると桜が咲くそうです。だから切らなかったのでしょう。

よく見るとキノコが生えています。朽ちて来た様です。
朝日山登山
桜のゲートを過ぎ右へ曲がると景色が一気に開けます。歩き易い長く緩やかな斜面が続きます。浦柄のホームページには「朝日山古戦場復興春の陣」というリンクがあります。

リンクを開くとこの道を整備した時の写真があります。多くの方の力で整備された道です。
朝日山登山
準備段階から実際の作業まで克明に写真で記録されています。また、浦柄地区の被災後の様子や復旧の作業など貴重な写真をインターネット上で見る事ができます。

地元の方が言っていた事が今でも忘れられません。

「後になると写真による記録が貴重だと分かる。人がほとんど写っていないのが残念だ。被災直後に地元民は写真を撮れない。プロの人は別だが。」
朝日山登山
旧道の終わりには急勾配が待っています。でも階段が設置されているので大丈夫です。この階段設置も「朝日山古戦場復興春の陣」で作られました。

当時の解説を読むと技術を持ったボランティアの方が大いに活躍しています。
朝日山登山
旧道の終わりは標高にして約227mです。登山口と頂上の標高差295mのうち約180m、6割程度登ったことになります。3D地形図でみると緑部分の上のあたりまで来ています。

旧道と本道が交わる場所がショッキングでした。

つづく…ほいじゃ

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浦柄神社と北越戦争 『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』③

正直なところ浦柄という地名を聞くのは初めてでした。新潟県小千谷市の信濃川右岸にある浦柄地区のことです。第一印象は谷間の長細い集落でした。

この地域について私が知っていた事は2つだけでした。

北越戦争の朝日山古戦場がある事と中越地震の被災地である山古志村の下流という事です。山古志村が印象に残っていた訳は前年のNHK朝ドラ「こころ」でドラマの舞台になったからです。
新潟県小千谷市浦柄地区
NPO法人まちづくり学校主催の『ブラニイガタ 小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』の集合場所である浦柄公会堂に到着しました。

主要な方々の紹介の後に3つのコースが示されてました。どれか1つしか選べません。苦渋の選択でした。

①東山を歩く(浦賀地区の崩落した山)
②家々を回り被災の話を聞く
③朝日山登山(選択!)

①②は被災と復旧・復興について知れることのできる最も有効な方法でした。しかし、歴史好きな私にとって③の朝日山は絶対に外せない選択肢でした。

結局は集会所や朝日山を登りながら地元の方々の話を聞き9年経った今でも生々しい崩落現場を教えてもらい、復旧のエピソード、日常の山の管理など貴重な話を聞けました。
浦柄神社
バックグラウンド情報が少ない私は展開に着いて行けていませんでした。それもそのはず参加者の大部分は地元と小千谷市内の方々、中越地震からの復旧に尽力された方々、新潟県内から来た方々でした。

私自身は先入観を持ちたくない理由から下調べもしていませんでした。

しかし、小高い丘の上にある浦柄神社に到着して「東軍兵士の墓」を見ると浦柄地区が北越戦争の激戦区だった事を感じ取りました。我に返りました。
浦柄神社
1868年4月27日に新政府軍は小千谷まで進行して本陣を設けました。同年5月2日の慈眼寺で中立を保ち和平を望んだ長岡藩家老の河井継之助は新政府軍の会談をしました。

しかし、話は決裂しました。長岡軍、会津藩、桑名藩の同盟軍は朝日山を奪い新政府軍の小千谷本陣に攻勢に出るため浦柄地区北側の榎峠に進行しました。
新潟県小千谷市浦柄地区
上の図で言うと左下の辺りが榎峠です。ちなみに峠は中越地震で山が崩落した場所でもあります。東軍は榎峠を突破することに成功して浦柄地区へ入りました。

5月10日 旧幕府軍が進行し榎峠で戦闘が始まる。
5月11日 旧幕府軍が浦柄地区を通過、朝日山を占領。
5月13日 新政府軍が反撃するも敗れる。

戦いは19日頃まで昼夜問わず続いたとされています。
浦柄神社
5月13日の戦いは最も激しいとなり両軍に多くの死者が出しました。「東軍戦士の墓」22基のうち20基は名前が分からないままです。しかし、2基だけは名前が判明しています。

一基目は会津藩士「新国英之助」の墓です。二基目は新政府軍の副参謀「時山直八」の墓です。朝日山唯一の新政府軍側の墓です。

新政府軍側の遺体は戦後に小千谷へ移され、後に船岡山の墓地に埋葬されました。なぜ一基だけ?
浦柄神社
あまり知られていない事かもしれませんが、明治政府は旧幕府軍の遺体は埋葬することを禁じました。特に会津藩士には厳しく放置しなければなりませんでした。

朝日山には朽ち果てた遺体が散在していたそうです。
浦柄神社
この弾圧は戊辰戦争後20年続いたそうです。山の中で骨になっていたはずです。昭和29年に福生寺住職と浦柄地区の人々は戦死地に墓標を建て手厚く埋葬しました。

現代まで脈々と続く会津人が長州人を嫌う理由がここにあると思いました。
浦柄神社
浦柄神社境内にある昭和16年建立の戊辰戦蹟記念碑は連合艦隊司令長官「山本五十六」の書が刻まれています。碑の裏側を見ると「海軍中将」と書かれています。

昭和9年 海軍中将に昇進
昭和14年 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
昭和15年 海軍大将に昇進
昭和16年 連合艦隊司令長官

建立年の昭和16年といえば12月8日に太平洋戦争開戦した年です。すでに大将だったので書を記した時はそれ以前の中将の時だったのでしょう。

山本五十六の出身地は新潟県古志郡長岡本町と浦柄地区からそう遠くありません。

また、地元の方から聞いた話ですが安倍晋三現総理大臣も以前にここを訪れています。バスで乗込みSPらしき取り巻きの人たちに囲まれていたそうです。

安倍総理は自らを長州人と言っています。

北越戦争が新政府軍にとっても大変な戦いでした。長岡城は世界史でも稀な一度陥落させた城が再び奪われ再陥落するという経緯を辿っています。

旧幕府軍:死者400人
新政府軍:死者1000人以上
(Wikipedia 北越戦争より)

1868年5月13日の激戦以降は戦場は小千谷、朝日山から長岡、蒲原へと北へシフトして行きます。朝日山は小千谷に本陣を置く新政府軍を砲撃するための拠点でだったため意味がなくなりました。

5月19日 新政府軍が長岡城を陥落させる
7月24日 旧幕府軍が長岡城を奪取する
     黒田清隆が海路から新潟町に上陸
7月29日 新政府軍が長岡城を再陥落させる

浦賀地区の激しい歴史に胸を打たれました。そして、浦柄神社も被災した事も聞きました。それらを胸に朝日山登山を始めました。

つづく…ほいじゃ

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小千谷の地勢 『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』②

ワイルドな地形です。地図ソフト「カシミール3D」で作った小千谷市の3D地形図は等倍でも見事な凹凸を描いています。平野部と山間部が交わる所の特徴を示しています。

NPO法人まちづくり学校主催の『ブラニイガタ 小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』で訪れました。
小千谷市
越後平野の南端であり、山間部の北端でもあります。上の地形図を見ると右下から信濃川、左下から魚野川が流れ込んでいます。信濃川は一旦小千谷市を出て魚沼市で魚野川と合流します。

再び小千谷市に信濃川として流れ込みます。蛇行の原因となっているのが「山本山」です。

大きな地図で見る
小千谷市は新潟県の中部に位置しています。中越地方です。中越と言えば中越地震で耳にした人が多いのではないかと思います。

2004年10月23日に直下型地震が起き甚大な被害があった地域です。
小千谷市
小千谷市は面白い形をしています。心理学のテストで「何に見えますか?」という質問に出て来そうです。私には手を前に出して歩くゆるキャラに見えます。

小千谷市の東側:東山丘陵
小千谷市の西側:西山丘陵(頚城丘陵へ続く)

水量の多い信濃川流域にあり両岸に河岸段丘が形成されています。2つ下の地形図を見ると段丘面がはっきり分かります。
小千谷 俯瞰図 広域
関越自動車道路や国道17号線(三国街道)で何度も通り過ぎ続けた場所でした。しかし、地理的には印象的な場所です。関東からトンネルを抜けると持続的に下り坂が続きます。

坂も落ち着いた頃に上の図で左下からクランク状に曲がりながら右側の小千谷市に入ります。
小千谷 俯瞰図
山本山を貫くトンネルを抜けると小千谷市の市街地です。小千谷ICはすぐです。ちなみに次のICは長岡です。関越自動車道路はここで終わります。

現在の小千谷市は長岡都市圏に属しています。長岡市のベットタウンにもなっています。歴史を紐解くと続日本書紀の時代には大部分が魚沼郡に属していた可能性があります。

当時の越中は頸城(くびき)、古志(こし)、魚沼(うおぬま)、蒲原(かんばら)という4郡に分かれていました。

山本山トンネル辺りの川口町には魚沼市とまたがり藪神荘と呼ばれる荘園がありました。江戸時代初期には魚沼郡が8組に分けられ小千谷組ができました。

1763年に会津藩の預かり地となりました。戊辰戦争の戦いのひとつである北越戦争が勃発する場所です。
小千谷市浦柄地区
ブラニイガタのタイトルにもあった「信濃川支流の山里を歩く」とは信濃川右岸の浦柄地区です。支流とは朝日川のことです。浦賀地区は谷間に長細く伸びた集落です。

南側の斜面には戊辰戦争(北越戦争)の戦場となった朝日山がそびています。

先程の郡の話しの続きですが、1879年(明治12年)に発足した当時の行政区画によると浦賀地区は古志郡に属してます。

谷を登って行くと山古志村があります。

信濃川対岸の小千谷市は魚沼郡だったのに対して、浦柄地区は古代から一線を画し古志郡だった可能性があります。

ちなみに浦柄地区がが小千谷市に編入されたのは昭和29年の事でした。

つづく…ほいじゃ

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小千谷を知る 『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』①

新潟路地連と東京スリバチ学会が行った「新潟 微地形散歩」でNPO法人まちづくり学校の方と知り合いました。

「ブラニイガタ2013@小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~」が開催されるということで参加することにしました。元々、小千谷には興味がありました。
新潟県小千谷市

第一の目的は「9年経過した被災地を見て話を聞く」でした。東日本大震災でも復興という言葉が独り歩きしていますが乗り超えた事と残った傷跡は何かを現場で知りたいと思いました。

第二の目的は歴史散歩です。戊辰戦争と言えば会津や函館が有名でしたが、ここ小千谷の朝日山は戊辰戦争の戦いのひとつ北越戦争のはじまりの場所です。

第三の目的は「小千谷を知る」でした。関越道で通過する場所だけに気になっていました。また、「千の小さい谷」という漢字に惹きつけられました。

私の住む東京都内の古千谷(こぢや)と音の響きが似ているため妙な親近感がありました。
小千谷市総合産業会館サンプラザ
まずは、「小千谷を知る」です。少々、早めに到着して小千谷市内を見ました。と言っても見切れる訳もないので一ヵ所に様々な施設が集中した小千谷市総合産業会館サンプラザを目指しました。

新潟県小千谷市城内1丁目8番25号
オープンは昭和58年7月6日
産直市けやきぱーく
農産物直売所「けやきぱーく」があったので最初に小千谷の野菜を入手しました。話によると冬期間はこの建物を使わず館内で営業するそうです。冬の厳しさを物語っています。
錦鯉の里(新潟県小千谷市)
サンプラザの対面には「錦鯉の里」がありました。現在は長岡市の山古志村が錦鯉の生産地という事は知っていました。小千谷もそうだとは今回初めて知りました。

隣接しているので不思議はありません。残念ながら時間が足りなく中を見学できなかった事が悔やまれます。
小千谷縮 織物工房(新潟県小千谷市)
小千谷についてはほとんど知識のないままに来ている私に「小千谷縮(おぢやちぢみ)」も初耳でした。「織物工房 匠之座」の展示スペースでは歴史や製法の説明があり勉強できます。
小千谷縮 織物工房(新潟県小千谷市)
私は五感で小千谷を知りたいと思い最も安価な小千谷縮のコースターを購入しました。「サラサラ」とした触感で夏の浴衣にしたら気持ちよさそうです。
小千谷縮 織物工房(新潟県小千谷市)
「織物工房 匠之座」では体験コースもあります。20分ほどで料金は500円です。もっと早く移動すれば良かったと後悔するばかりです。何でもやってみる事が大切!

ただ、小千谷縮という存在を知ったことだけでも収穫です。
小千谷縮 織物工房(新潟県小千谷市)
小千谷には古代から織物産業がありました。17世紀に掘次郎将俊が明石縮の技法を応用して越後麻布の改良に成功しました。当時は越後布と呼ばれたそうです。
小千谷縮 織物工房(新潟県小千谷市)
1955年には国の重要無形文化財に、2009年にはユネスコ無形文化遺産に指定されました。昔の織機と作業風景の展示です。説明によると織機で着物を織っていたそうです。

正味30分程度で得た情報ですが様々なことが学べます。

現在、町おこしが全国的に流行っていますが、大切なメッセージがここに隠されています。

①産業
作業がなければ収入が期待できず多くの人が定着できません。

②文化、独自性
オンリーワンの技術や製法などここならではの何かが必要です。

小千谷縮の製法には雪国故の雪を利用する工程が含まれています。デメリットに成り得る事も発想の転換で大きなメリットに変えることができます。

次は小千谷の地理について書きます。

つづく…ほいじゃ

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新潟町、ありがとう!また、会う日まで!

たくさんやり残して帰ることになりました。新潟島に正味28時間滞在しましたが、全てを見て回ることはできませんでした。どこの街でも同じかもしれません。しかし、ここは特別です。

新潟市中央区の場合は一本一本の通りが見所だからです。
木下小路(新潟市)
最大の見所は町中に巡らされた小路(こうじ)が最大の魅力です。上の写真は木下小路を古町通りから覗いた風景です。江戸時代からある道です。

建物は昭和の雰囲気を残しています。今となっては懐かしい雰囲気の小道です。
木下小路(新潟市)
路地連新潟さんのご苦労もあって各小路には洗練された案内板が立っています。そこには道の歴史や由来などが書かれています。こうした所を一ヵ所も見ずに去ります。

いつか、じっくりと一つ一つの小路を味わいたいものです。
夜の新潟市中央区(2013/9)
一日目に夕方に訪れた古町通りもしかりです。この道も江戸時代からある道です。酒が入った状態で古町演芸場前や飲み屋街をうろうろしていました。

素面(しらふ)の時にもう一度歩きたい道です。
上大川前通(新潟市)
今回は東横イン新潟古町に宿泊しました。後で地図を見てビックリしました。ビルに囲まれ昼間から日陰が多い通りが享保10年(1725年)頃は信濃川の左岸に面していました。

信濃川の土砂によって常に形を変えて来た新潟町らしい話です。
西堀通(新潟市)
新潟市といえば堀の町でもあります。これは西堀通りです。柳の木がその名残です。1964年までには全ての堀は埋められてしまいました。かつての風景を想像するとさぞ雰囲気があったことか!

小路を訪ねながら西から東まで歩いたら一体何キロあるのだろうか?
新潟市中央区
他にも興味深い道が数々ありました。鳥瞰的に見ると曲線を描く主要道路に垂直に交差する数々の小路が新潟島の街並みです。そして、海沿いには大規模な砂丘の山があります。

地形の成り立ち、その姿には驚かされました。砂丘…エキゾチックな響きです。

私にとって新潟はちょっと遠い場所です。日帰りという訳には行きません。次回、訪れことになるのはいつの事か?20年前にも縁があったし、今回もありました。

きっと、またあるはずです。

その時は小路を巡り、他の場所にも行って見たいと思います。新潟町、ありがとう!また、会う日まで!

ほいじゃ

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新潟市の全国唯一 新潟県政記念館 新潟の町一人歩き③

新潟市には全国屈指の貴重な明治遺産が残っています。先に訪れた新潟税関庁舎も開港五港の税関庁舎で全国唯一残っている建物でした。

ここ新潟県政記念館は明治時代に建てられた新潟県議会旧議事堂です。国の重要文化財に指定された明治初期の府県開設期の現存する唯一の議事堂です。
新潟県政記念館
明治16年(1883年) 県会議事堂竣工
(2代目 1代目が大火で焼けたため)
昭和7年(1932年)新設議場完成、移転
 戦前:新潟郷土博物館、海軍新潟港警備隊船舶警戒部
 戦後:県庁分館

昭和44年(1969年)国のの重要文化財に指定
昭和47~48年(1972~1973年)修復工事
昭和50年(1975年)新潟県政記念館航海

平成16~18年(2004~2006年)毀損箇所全面改修
平成18年(2006年)リニューアルオープン
新潟県政記念館 議場
圧巻は明治時代の議事堂です。明治16年から昭和7年までの50年間に渡り使われた議事堂です。コの字型にに議席が配置されています。二階は傍聴人席でした。
新潟県政記念館 議場
見学は自由にできます。基本的には当時のままだと職員の方がおっしゃっていました。それもそのはず明治時代末の写真をもとにして復元されています。
新潟県政記念館 マントルピース
明治時代の調度品に興味がそそられます。マントルピース(暖炉)です。文明開化の時代の日本をリアルに感じさせてくれる一品です。今は平成、昭和さえ遠い時代です。
新潟県政記念館 明治時代の調度類
明治時代は遥か昔、遺物を見て、話を聞いて想像するしかありません。同じ部屋には明治の調度品としてテーブルと椅子が置かれていました。シートはすでにボロボロです。
新潟県政記念館
それにしても美しい建物です。屋根の部分が特にオシャレです。屋根はトラス小屋組みという西洋技法を使って組まれました。当時の大工たちが新しい技術を貪欲に修得して成されました。

新潟地震にも耐えました。

明治と言う時代は江戸時代の終わり、西洋文化が急速に流入した時代です。数十年の間に劇的な変化を遂げた時代でもあります。

ある意味、IT文化や世界との距離が急速に縮まる現代と似ている気がします。

先人の知恵と心意気を少々拝借したいものです。新潟市に残っている二箇所の明治時代の遺産は貴重です。

ほいじゃ

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オールインワンな神社 白山神社 新潟の町一人歩き②

この神社は『ALL IN ONE』だ!Wikipediaによるとオールインワンとは「幾つかの物や機能などが一つにまとめられている形態」という意味です。

新潟一人歩きで訪れた白山神社について調べていました。

公式ホームページを読むと何にでも御利益がありそうな気がしてきます。
白山神社(新潟市)
御祭神は菊理媛大神(くくりひめのおおかみ)、別名は白山比咩(しらやまひめ)です。加賀の霊峰白山の頂上付近に祀られている女神様で新潟へ勧請されました。

日本書紀ではイザナギとイザナミの夫婦喧嘩の際に中に入って仲を取り持った神さまです。そんな所以からか?様々な御利益が書かれています。

農業の神、海上の神、国家と郷土の鎮守、家内安全、商売繁盛、事業繁栄、金運上昇、開運招福、子宝、安産、子孫繁栄、厄除け、工事安全、歯の神、医療安全

一度お参りすれば殆どの願いは叶いそうです。
白山神社(新潟市)
白山神社の創建は分からないそうです。その理由は1500年代に2度の火災があり記録が燃えてしまったからです。最も古い創建説は延喜年代(901年~)です。

元亀年代(1570年~)に現存する古文書に登場します。上杉景勝は戦勝を感謝して鏡と啓を寄進した記録もあります。
白山神社(新潟市)
古町通りから見える赤い大鳥居です。拝殿までに到達するのに赤い鳥居を通り、少し先に石のの鳥居があります。その後、直角に右へ曲がり第三の通りを過ぎます。

また少し行くと、第四の鳥居があり拝殿は随神門という立派な山門の向こうです。
白山神社(新潟市)
なぜか不自然な参道です。直角に曲がる参道というのもあまり見かけません。元々そいう言うものなのか?公園ができた時に造り替えられたのか?分かりません。

違和感の裏には必ず何かがあるはずです。今回は未解決のまま…。
備前焼狛犬 白山神社(新潟市)
インパクトがあったのは二番目の鳥居の先にある備前焼狛犬です。石と木々の色が目立つ宮内で紅い狛犬は一際目に付きます。大正6年(1917年)に作られたそうです。

なぜ、備前焼なのだろうか?ミステリーは解決できず…。
白山神社(新潟市)
白山神社宮内で最も印象的な建造物は随神門でした。こんなに立派なのに…。色々な調べてみましたがネットだけでは作られた年代すら分かりません。
白山神社(新潟市)
裏取りができていないのですが500体の女神が納めらているそうです。これだけ立派な門にも関わらず説明や案内板らしきものが見付かりません。

公式ホームページには随身門は参道の石橋の所にあったそうです。なぜ移された?今回は未解決のまま…。
白山神社(新潟市)
一方、本殿と拝殿に関しては神社のホームページに詳しく書かれています。これだけ古い建物が戦争や災害を経てよくぞ残ったものです。

本殿 正保4年(1647年)竣工
拝殿 正保5年(1648年)竣工
 [建替、修繕1]宝永年間(1704年~1710年)
 [建替、修繕2]享保元年(1716年)
 [建替、修繕3]延享4年(1747年)
戊辰の松 白山神社(新潟市)
最後に「戊辰の松」にぐっと惹かれました。NHK大河ドラマ「八重の桜」で戊辰戦争の回では北越戦争は少しだけでした。新潟県も歴とした戦いの舞台です。

知らいない事がありました!

「戊辰の松」の案内板には新潟の中心部でも激戦が繰り広げられたと書かれています。白山神社の境内にも砲弾が飛び交ったそうです。

皮一枚になって生きていた松が「戊辰の松」として現代に引き継がれています。

この数週後に北越戦争の発端となった場所へ行くとは、この時点では予想していませんでした。

その件は後日ということで。

ほいじゃ

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白山公園の歴史と地形! 新潟の町一人歩き①

勿体ないから行きました。2日間に渡り新潟の町を堪能した『新潟の町 微 地形散歩』を終え、時計を見ると13時でした。車で来ているし時間もあるのでもう一箇所行ってみよう!

やはり、ここしかない。新潟市で日和山と並びに名所と言われる白山公園です。
白山公園
日本で最初に造られた公園のひとつです。新潟市の白山公園です。園内を散策すると江戸時代の回遊式庭園を彷彿させる雰囲気を感じました。

調べると実際はオランダ風回遊式庭園なのだそうです。

私には和の部分が感じられ江戸(和)と明治(西洋)の接点が刻まれている気がします。
白山公園(新潟市)
明治6年(1873年)の太政官布告によって全国25箇所に都市公園が作られました。それ以前の日本には庭園はあっても公園という概念は日本にはありませんでした。

個人の庭でなく公(おおやけ)の園です。

オランダの一等軍医ボードワン博士は明治政府に公園を造ることを提言したのがキッカケでした。第一号は東京の上野公園です。
新潟最古の石灯篭 白山公園
園内には新潟最古の灯籠が残されています。1723年(享保八年)に建立されたものです。案内板に書かれた「神燈万船を照らす」が心に響きました。当時の風景が一瞬見えた気がします。

当時の新潟は湊町として栄え、燈籠が燈台の役割を果たした事が書かれています。
白山公園(新潟市)
白山公園のある場所を遡ると江戸時代初期は信濃川の中州で白山島と呼ばれていました。当時は白山島と寄居島という大きな中州がありました。

次第に土砂が溜まり1600年代の終わり頃には砂丘の浜辺と接近してた様です。

現在の新潟町は砂丘の上の古新潟町が白山島と寄居島に移転して形成されたとなっています。移転の理由は砂丘から海までの距離が遠くなり湊町が機能しなくなったためです。

白山公園の横を走る「一番掘通り」は名前が示すように掘でした。1698年の地図には公園付近は白山島と書かれています。
白山公園(新潟市)
地形マニアならどこへ行っても勾配を探したくなります。ひょうたん池の横に小高い丘がありました。地理院地図の5mメッシュレーザー計測によると標高は3m台です。

明治11年(1878年)に明治天皇の巡幸の際に野立所(休憩所)を作る為に築山した場所です。

巡幸後に「美由岐賀岡」と名付けられたそうです。大正5年(1916年)に当時皇太子だった昭和天皇が植樹された松があります。
楠本正隆銅像 白山公園(新潟市)
頂上には石碑や銅像が並んでいました。これは明治維新後に新潟県令として着任した楠本正隆の銅像です。白山公園を作った人物でもあります。

この微地形が築山という事で少々残念な気持ちになりました。
白山公園(新潟市)
白山公園にはもう一つ蓮池があります。この脇にも3m級の小さな丘がありました。登ってすぐ下りる道でした。こんな妙な築山をしないだろう。自然の地形かもしれない。

そう言えば駐車場の横にも高い場所がありました!
白山公園(新潟市)
園内で一番起伏がある場所です。最も高いところで標高7mにもなります。真下がトンネルになっており道路が通っています。不自然な地形と感じたため後で調べてみました。

人工地盤でした。元々は園地内を二分する川岸町通りがありました。今は人工地盤により公園は一体です。
白山公園(新潟市)
この空中庭園はまるで親水公園です。さらに南には県民会館、体育館と続きます。1964年の新潟地震でこの辺りは液状化現象の被害を受けた多くの施設が破損しました。

その後、建替えられた施設も老朽化して1990年代に淘汰して建て直したそうです。
白山神社(新潟市)
新潟市一番の公園「白山公園」は緑に包まれた安らぎを感じる場所でした。公園という概念が早い時期に日本で取り入れられた事へ感謝ができる空間です。

微地形も興味を持って臨みました。

公園内の微地形には信濃川中州の白山島にできた自然堤防の跡も残っているのではと思い探しました。結局、候補は一つしか見付かりませんでした。これも蓮池を作る際の築山かもしれません。

同時に頻繁に流路を変えて多くの土砂を運んだ信濃川なら小規模な自然堤防が点在していても不思議ではありません。今回はどうやら分が悪いようです。

歴史ある白山公園の緑と地形を堪能した後は白山神社で参拝です。

つづく…ほいじゃ

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新潟市民の取組み 日和山から『新潟の町 微 地形散歩DAY2』⑪

新潟に行き一番驚いたことは人々が自分の住む町、市、県を主体的に楽しんでいることでした。『新潟の町 微 地形散歩』路地連新潟、東京スリバチ学会、北書店のコラボで実現しました。

参加者には他の団体で活動される方々や志を持った個人の方が参加されており横のつながりにも関心しました。新潟の今後が楽しみです。
日和山(新潟市)
今回は1日目に撮った日和山の写真とともに書いて行きます。

日和山は明治以降に日和見の場として憩い場でした。明治13年の焼失した住吉社、櫓(やぐら)、茶屋が再現されようとしていました。
日和山(新潟市)
住吉社は2009年に再建されました。あとは櫓と茶屋です。眼下に見える五合目に日和山カフェの予定地があります。庭には櫓らしき木の塔がありました。
日和山(新潟市)
許可を得て上に登ってみました。今の造りだと登るのに一苦労です。その分、眺めは一入でした。一枚目の写真も櫓の上から撮ったものです。

水戸教(水先案内)の発祥の地としては櫓は切り離せないものでしょう。
日和山(新潟市)
日和山住吉社の夕暮れは何とも言えぬ情緒があります。砂丘方面が開けた眺望が見事です。江戸時代中期の海岸線が付近にあった光景を想像しました。波の音も聞こえたのでしょう。

水戸教の人たちがどの様に船を湊に誘導したか興味が湧いてきました。再現をすると面白いかもしれません。
日和山(新潟市)
日和山頂上は狭くもなく広くもありません。祭りの時にプチ縁日があったら盛り上がるでしょうね。金魚すくい、ヨーヨーすくい、綿あめ、…子供たちの思い出になるかもしれません。

近所迷惑も気になりますがビアガーデンがあるといいですね。
日和山墓地(新潟市)
日和山付近は野良猫が多い場所でした。このまま増えていけば尾道の様な名所になるのかもしれません。これもまた近所迷惑なのかもしれません。

『新潟下町あるき 日和山 登山のしおり』には昔の絵や写真が載っています。

長谷川雪旦(1778-1848)の『北国一覧写 出羽越後』に描かれた日和山の姿が印象的です。当時は水先案内のために使われていたため頂上には松の木と柵がある程度だった様です。

市民の憩いの場となったのは明治元年に水戸教が移転になってからです。焼失前は頂上に立派な櫓があったことが当時の写真から伺えます。今なら建築基準法にひっかかりそうな建物です。

しおりを持っている方はもう一度、持っていない方は入手て見ていただくと時の流れと風景の移り変わりが感じられます。

2日目の下町歩きで掘の街を再現しようとしている人々もいます。これだけ市民に愛され、行政と一緒に取組みができている町ならば、今後は今以上に魅力的な町に変わっていくでしょう。

他の地域の手本になる新潟の姿を『新潟の町 微 地形散歩』で見付けました。

すでに新潟の取組は凄いよ!と色々な場所で話しています。

ほいじゃ

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ゴーーール! 日和山登山2、3 『新潟の町 微 地形散歩DAY2』⑩

ラストスパート!『新潟の町 微 地形散歩DAY2』は最後の直線に入りました。日和山浜第三突堤から新日和を超え坂の途中にある日和山を目指します。1日目と同様に2日間のゴールでもあります。

前日、医学町通りの北書店をスタートしてからほぼ1日が経過していました。
日和山浜第三突堤から新日和山へ(新潟市)
日和山浜から見上げる新日和山は標高にして16m台ながら立派な斜面に魅力があります。砂丘だと言う事を忘れてしまいます。そもそも、なぜ、この場所が「山」と付くのだろうか?

明治13年(1880年)に日和山頂上にあった住吉社、茶屋、櫓が焼けて砂丘の上(現在の新日和山)に日和見の場所を移転させた事がきっかけです。
日和山浜第三突堤から新日和山へ(新潟市)
浜からの登り坂は本ツアー最急勾配です。路地連新潟から提供していただいた「新潟下町あるき 日和山登山しおり」の「登山」という文字が最も際立つ場所でした。

傾斜の上方に見える日和山展望台の頂上は海抜約25mです。人工物ですがある意味山です。
新日和山と日和山の坂(新潟市) 
新日和山を越え日和山へと続く坂道を下りました。1日目のブログでも取り上げた場所で170パミールの下り坂です。一旦、斜面はほぼ平坦気味になります。

日和山付近再び標高が1.5m強ほど上がります。推測ですが道路を作る際に日和山の裾が削られたためでしょう。
日和山(新潟市)
日和山です!ゴールと言いたいろこですが、前日に裏参道から登ったので2日目は表参道からにしました。ここで執筆中にアクシデントが…先日は日和山の最高点を11.6mと書きました。

しかし、もう一度、地理院地図で小まめに標高を拾っていくと12.4mの地点が見付かりました。新潟シティガイドには12.3mと書かれています。

やはり、地図上で標高を拾うのには限界があります。精度が疑わしいものです。
日和山(新潟市)
そこで、今できる最大限の事をしてみました。今ツアー三大傾斜の比較です。表参道、裏参道、新日和山浜ルートです。地理院地図を航空写真モードに切り替えてカーブをなぞり数字を取りました。

日和山の道 勾配ランキング※
1位 新日和山(海から)
(坂下:5.3m、坂上:15.3m、距離:約30.0m=333‰)
2位 裏参道
(坂下:5.2m、坂上:11.0m、距離:約23.5m=306‰)
3位 表参道
(坂下:5.0m、坂上:10.5m、距離:約18.0m=247‰)
※精度は保証できません。

新日和山、日和山の各ポイントに実際に測量した標高が書いてあると登山雰囲気を盛り上げるでしょう。そして、新旧の山頂に正確な標高表示がされれば萌えるでしょう。
日和山(新潟市)
参道を登ると中腹には五合目、七合目の標識があります。江戸時代に江戸市民の間で盛り上がった富士塚の様です。新潟版富士塚と思いきや日和山の歴史は全く違うところにありました。
日和山(新潟市)
七合目にある碑がそれを物語っています。日和山は「水戸教発祥の地」です。宗教ではなく「水の戸を教える」仕事、つまり水先案内と海難救助をする仕事です。

江戸中期の海岸線は日和山近くにあり水戸教に就いた伊藤家が世襲で従事しました。

江戸時代後期になると海岸線は北に伸びたため、慶応元年(1865年)に水戸教の拠点は1.3㎞ほど東北の雲雀町へ移転しました。現在の水戸教公園です。昭和4年(1929年)まで続きました。
水戸教移転(新潟市)
ゴーー―ル!日和山の山頂に着きました。2日間の達成感と思い出が溢れた瞬間でした。鳥居から眼下を眺めると五合目の日和山カフェ予定地が見えます。

オープンはいつなのでしょう?
日和山(新潟市)
私が当日使ったRun Keeperというアプリによると1日目と2日目の行程は合計で9㎞以上の距離を示していました。私の場合は撮影で往ったり来たりするのでもう少し少ないかもしれません。

それ程長い距離を歩いた訳ではないのに中身は魅力ある町姿が満載でした。この回でブログは30回目です。
新潟の町 微 地形散歩2日間
住んだことのない新潟島に愛着が持てました。「新潟の町 微 地形散歩」の2日間については次回が最終回になります。一日目に日和山で撮った光景を交えて書きたいと思います。

写真を整理していると解散後に訪れた場所の写真があります。

スピンオフ企画があります。まだ、続くのか…。

つづく…ほいじゃ

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思い出の海に 日和山浜第三突堤 『新潟の町 微 地形散歩DAY2』⑨

浜辺でやっと砂の街・新潟を実感できました。今やアスファルトと建造物で覆われた新潟島は砂の街を実感できる場所がほとんどありません。砂の上にある事さえ忘れてしまいます。
新潟 日和山海岸 第三突堤
日和山展望台のある新日和山から眼下に見える突堤(とってい)へ下りることになりました。日和山浜第三突堤と言います。地図上の北東の方角に第二、第一と突堤があります。
『新潟の町 微 地形散歩DAY2-4
新日和山の16.3m地点から4.9mの海岸線沿いの道へ一気に下ります。直線距離35mです。326パミールという急勾配をジグザグと刻みながら下ります。

「新日和山下山」と言って過言のない険しい山道級の勾配です。
新潟 日和山海岸 第三突堤
突堤の先端を目指して歩いていると左右の風景に大差を感じました。左手は砂浜がテトラポットで囲まれいます。この場所の端には地図上に日和山海水浴場と表記されています。

1922年に大河津分水ができて以来進む海岸浸食を食い止めるために護岸工事を施した場所です。
新潟 日和山海岸 第三突堤
右手を見ると大きく抉(えぐ)られた砂浜が視界に飛び込みます。大河津分水の副作用で最大で400mも砂浜が後退した場所もあるそうです。

この辺りの砂浜も昔はもっと海の方へと伸びていたと聞きます。
新潟 日和山海岸 第三突堤
日和山浜第三突堤の先端にある丸い場所へ到達しました。Google Mapで道路からの直線距離を計測すると約360mほどでした。海岸浸食前はこの辺りも砂浜だったのかもしれません。
新潟 日和山海岸 第三突堤
海上にはヨットがスイスイと風を切り進んでいきます。「懐かしい!」私は下越にいた2年間いました。地元のヨットクラブに加入して毎週ヨット、カヌー、ウインドサーフィンをやった記憶が蘇りました。

春夏秋冬通して日本海と触れ合いました。私にとって日本海は青春の海です。
新潟 日和山海岸 第三突堤
私には世界中どこに行ってもやる儀式があります。「◯◯海を触る」です。太平洋、大西洋、地中海、バルト海、インド洋、東シナ海、瀬戸内海そして日本海…。

数々の海を触りました。
新潟 日和山海岸 第三突堤
海水に触れたると「来たんだ」という実感が湧きます。できるだけ五感で捉えたいという願望から生まれる行動です。それぞれの海で触感、匂い、色、味、音が微妙に違います。

生物を育む海をリスペクトしています。
日和山浜第三突堤から新日和山へ(新潟市)
『新潟の町 微 地形散歩』の一行は日和山浜第三突堤をしばし楽しんだ後、再度新日和山の326パミールの坂を超えて行きます。

最終目的地の日和山へ!

つづく…ほいじゃ

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一瞬の坂の町 新日和山登山Ⅰ 『新潟の町 微 地形散歩DAY2』⑧

風景が一変します。低地を歩いていた『新潟の町 微 地形散歩』の一行は勾配を感じ始めたと思いきや突如として坂の町へ引き込まれました。

新潟島の浜寄り砂丘の尾根道に出れば日本海の風景が広ろがります。
浜寄り砂丘 開運ルート
一部例外はあるものの「新潟下町あるき 日和山 登山のしおり」に描かれたルートを歩いて来ました。開運稲荷神社で「こんこん様」とご対面した後は浜寄り砂丘の際に沿って坂下までやって来ました。
浜寄り砂丘 開運ルート
砂丘の際を左折すると尾道を思い出させる坂の町が一瞬だけ現れます。坂の途中で振り返ると眼下には登って来る一行が一望できました。日和山登山に入った証しです。

坂下の標高は9.0m、坂上は15.0mです。50mを6m高さまで登る120パミールの坂でした。箱根登山鉄道を凌駕する勾配です。
浜寄り砂丘 開運ルート
坂の途中で横道をちら見する癖があります。飼い犬が野良猫を威嚇する光景が目に飛び込みました。坂と言えば猫!?尾道ほどではありませんが多くの猫たちが坂の番人の様に坂の途中にいました。
浜寄り砂丘 開運ルート
景色は開けました。坂上の尾根道から眺める秋の日本海は水平線まで続く静かなる青き海原でした。やがて来る灰色の冬の日本海とは一線を画す光景です。
浜寄り砂丘 開運ルート
尾根道は木々に囲まれていました。道は思ったより凹凸が激しく、周囲は木々に囲まれています。勾配は少ないながらも登山気分を味あわせてくれます。

坂上から日和山展望台までの距離は約145m、勾配差は僅か1.7mという大変緩やかな11パミールの坂でした。
『新潟の町 微 地形散歩DAY2-4
勘違いしそうです。砂が露出した場所が少なく砂丘の上にいることを忘れてしまいます。何度も何度もここは砂丘だと自分自身に言い聞かせました。そうしないとすぐに忘れます。

日和山展望台の辺りは新日和山と呼ばれる場所です。

標高16.7mの三角点があります。第一の登頂で日和山登山はは終わりませんでした。第二、第三と続きます。最終ゴールは「新」の付かない日和山です。

昨日は時間も遅く回避した日和山浜第三突堤へ新日和山を下りて行くことになりました。

プチ登山の後にすぐ海へ行けるなんて地形のディズニーランドです!ワクワク感が止まりません。私の思い出の海へ…。

つづく…ほいじゃ

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微高地へ 願髄寺、開運稲荷神社 『新潟の町 微 地形散歩DAY2』⑦

そろそろ坂が欲しくなって来ました。海抜ゼロメートル地帯の新潟下町(しもまち)を歩いてきた『新潟の町 微 地形散歩DAY2』の参加者は願隋寺まで到着しました。

願随時の入口はまだ標高-0.9mです。

目的地は日和山です。そろそろ勾配のある土地へ入るはずです。
『新潟の町 微 地形散歩DAY2
願隋寺は背の高い松が印象的なお寺でした。幕末に河村修就(ながたか)が松の植栽を築いた場所です。1843年に新潟町は幕府領となり初代奉行に就任した人物です。

1617年に長岡藩主の堀直寄が始めたされる砂防林事業は二百年以上引き継がれ進められました。
願随寺(新潟市)
願隋寺は幕末の新潟町で迎賓館としての役割を果たしたお寺です。1958年に幕府は米国、オランダ、イギリス、フランス、ロシアと修好通商条約を結び函館、新潟、横浜、神戸、長崎を開港場としました。

翌1959年に新潟港をロシア船、オランダ船が調査のために訪れ、願隋寺を外国人応接の場として使いました。
願随寺(新潟市)
一行は墓地の中の道を通り次の目的地「開運稲荷神社」へ向かいました。来ました!勾配です。墓は一段高い所にあり手すりが設けられていました。

墓地には立派な松の木が連なっています。河村奉行植栽の松林の名残なのでしょう。
『新潟の町 微 地形散歩DAY2-2
『新潟の町 微 地形散歩』2日目は『新潟下町あるき 日和山 登山のしおり』にあるコースに沿って基本的には歩きました。時々、コースから外れ墓地の道や民家の路地へ突入しました。

コースの前半は平地を行き、後半は微高地に入ります。

谷を愛する東京スリバチ学会とのコラボという事もあり路地連新潟らしい「お・も・て・な・し」でした。
新潟市中央区栄町、西受地町の路地
新潟市中央区栄町、西受地町にある民家の路地です。生活空間に密着した極細の閑静な道を一行は声を抑えて通り抜けました。家々からテレビの音がはっきりと聞こえました。

過去にない街歩き体験でした。人の生活空間にお邪魔させていただいた感覚です。
開運稲荷神社(新潟市)
路地を抜けると期待通り砂丘へ登る緩やかな坂道が現れました。海寄り砂丘に近づいた証拠です。坂の先には開運稲荷神社の鳥居が見えました。

願いを叶える「こんこん様」で知られるお稲荷さんです。
開運稲荷神社(新潟市)
元々は米蔵の守り神として領主の牧野氏が関屋村に創建したのが始まりです。その後は場所を転々として現在に至ります。

1649年:関屋村に創建。
1821年:白山へ移転。開運稲荷神社に改称。
1874年:古町通りの秋葉神社宮内に移転
1877年:現在地の四ッ屋町へ移転

「こんこん様」は明治初期に生まれました。出雲国の廻船問屋が越後まで米を仕入に来た際に船のバランスを取る錘(おもり)として使った出雲石が使われました。
開運稲荷神社(新潟市)
現在、「こんこん様」の口先は破損しています。地面に落ちた破片を合わせると狐様というより鳥類の様でした。これはではいかん!早く直してあげましょう!

前回の修理は平成13年だったそうです。

次は力学的に無理のない口の形状であって欲しいと願うばかりです。

地理院地図で調べた標高
願隋寺の入口:標高-0.9m
願隋寺の墓地:標高2.2m(最高点辺り)
民家の路地:1~2m
開運稲荷神社の鳥居:2m

新潟下町の海抜ゼロメートル地帯を抜けました。次は標高16m台の新日和山を目指します。

つづく…ほいじゃ

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新潟下町の未来? 金刀比羅神社 『新潟の町 微 地形散歩DAY2』⑥

九月の新潟は心地よい気候です。九月末の事を十一月に書いていると季節感が狂いそうです。しかし、写真を見返すとあの日に肌で感じた気温、湿度が蘇ります。

『新潟の町 微 地形散歩』の街歩き人達は金刀比羅神社に到着しました。
金刀比羅神社(新潟市)
金刀比羅神社は金刀比羅大権現に感謝して作られた1821年頃創建の神社です。大阪から新潟の航路を行く北前船「白山丸」難破しそうになりました。その時に金刀比羅大権現が現れ救ってくれたそうです。

船主の鈴木彌五左ェ門(やござえもん)が霊験に感謝し建立しました。

建築物としてはコンパクトながらオープンな印象を演出する道に面した神楽殿が気に入りました。
金刀比羅神社(新潟市)
その時の光景が大きな絵馬になって神社に奉納されています。「難船彫刻絵馬」です。『新潟の町 微 地形散歩』は拝殿の中に入れてもらい彫刻を堪能させていただきました。
金刀比羅神社(新潟市)
拝殿内には今回のガイド役を務めた路地連新潟の野内さんが「難船彫刻絵馬」を撮影しトレースした絵が奉納されていました。作品よりも名前が大きい点に一同から笑いが出ました。

『新潟の町 微 地形散歩』の直後に路地連新潟+新潟市は2013年日本グッドデザイン賞を受賞しました!
金刀比羅神社(新潟市)
街歩きをしていて神社の拝殿内に入ることは滅多にありません。上の写真の拝殿から参道を見るアングルはなかな出会えません。貴重な一枚を収めることができました。

『新潟の町 微 地形散歩』の街歩きでは普段は見れない視点を提供され価値があっと感じています。
金刀比羅神社(新潟市)
金刀比羅神社で湊稲荷神社と同様に気になった事があります。足止めの願懸けです。何かを止めたい、誰のある行動を止めさせたい、そんな願いを成就するために狛犬の足を縛ります。

上の写真は金刀比羅神社のもので下が湊稲荷神社です。
湊稲荷神社(新潟市中央区)
なぜここまで願懸けが定着しているでしょうか?率直な疑問として浮かび上がりました。土地柄を考えました。川の氾濫、海の危険、地震と津波、砂と風による災害、…。

地理的に厳しい土地柄です。

他の海辺の町にも波除神社が祀られています。大きな自然の力の前では人は最終的に無力であり、あらゆる手を尽くした後にできることは願を懸けることだけなのでしょう。
金刀比羅神社(新潟市)
もう一つ金刀比羅神社で気になった事があります。切株にしめ縄が付けられていました。これは御神木を切った跡なのでしょうか?何気ない事が非常に興味深く感じられます。

街歩きの楽しみの一つです。

路地連新潟と東京スリバチ学会が開催した『新潟の町 微 地形散歩』の参加者は金刀比羅神社を後にして次の目的地へ向かいました。
金刀比羅神社(新潟市)
ここで「みなとぴあ」から金刀比羅神社まで歩いて来たルートをおさらいしてみました。地理院地図で確認すると早川掘、艀下川跡周辺の下町は海抜ゼロメートル地帯です。

信濃川沿いの堤が2mあり進水を辛うじて防いでいます。

土砂が積もってできた土地なのに0m以下と言うのは妙です。思い当たるのは大地震、そして天然ガス採掘による地盤沈下です。新潟市の歴史を語る上で地盤地下は外せない出来事です。

また、新潟島の地理を語る上で1922年(大正11年)の大河津分水完成が分水嶺だと確信しました。

河口より手前で信濃川の水と土砂が海に出る様になり、太古の時代から続いた河口付近の土地の自然拡大は止まりました。反転して海寄りの砂浜が数百メートル単位で後退する土地減少と戦うことになりました。

河口付近の水量減少は新潟島の風景そのものを変えて行ったのでしょう。

新潟の上島、下島は江戸時代に土地が形成され、明治時代にかけて開拓され町の形が作られました。1964年(昭和39年)までには町から堀が消え今の下町がここにあります。

2013年9月の空気をまといながら10年後、20年後の姿を想像してみました。

最終的にはそこに住む人次第でしょう。

つづく…ほいじゃ

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湊町新潟と文化 湊稲荷神社、艀下川跡『新潟の町 微 地形散歩DAY2』⑤

新潟は東京と読み方が違います。東京なら下町(したまち)ですが新潟は下町(しもまち)と読みます。調べて気付いた事は新潟は古の京文化の影響が残っています。

加えて新潟独自の風習もありました。

新潟島の下町を歩く『新潟の町 微 地形散歩』の一行は湊稲荷神社に到着しました。そして、ショッキングな光景を目にしました。狛犬が縛られています。
湊稲荷神社(新潟市中央区)
いたずらでも呪いでもありません。「足止め狛犬」と言われる俗習です。足止めしたい相手が男性の場合は右、女性の場合は左を結びます。

悪所通い、家出人、商売繁盛、酒断ち。煙草断ち、縁結びなどを願掛けします。

地元の方には日常の光景なのでしょうが、旅人の視線にはサディスティックな光景に映ります。足止め狛犬」は新潟の花柳界文化を色濃く残しています。
湊稲荷神社(新潟市中央区)
湊稲荷神社は創建は1716年(享保元年)と江戸時代中期まで遡ります。当時は新潟湊の玄関口にあたり、木々が茂っていたため航海の目標となりました。

湊稲荷神社は海運業者、漁業者が海上安全、船運長久を祈願する神社でした。

この辺りには花街がありました。客である船乗りを足止めするために遊女達の願掛けが俗習として形を変えて今に残っています。神社の別名を「道楽稲荷」とも言うそうです。
湊稲荷神社(新潟市中央区)
湊稲荷神社には「願懸けの高麗犬(こまいぬ)」があります。他と違う最大の特徴は狛犬が回しながら願懸けを行うところです。願懸けのやり方が書かれていました。

1、拝殿に向かい男性は右側、女性は左側の狛犬を回す
2、願いを心で念じながら高麗犬を回す
湊稲荷神社(新潟市中央区)
当時の帆船が主流の時代です。新潟湊の特徴として西風が吹くと船が出港できなくなります。遊女達は客を足止めするために高麗犬(こまいぬ)を西に向けて西風が吹くように願懸けをしたということです。

時は経ち俗習として高麗犬(こまいぬ)を回して願懸けする形に変化しました。

私が気になった点は「こまいぬ」という漢字です。一般的には「狛犬」ですが湊稲荷神社では「高麗犬」となっています。狛犬が日本に定着する歴史と関係します。

古代エジプト、メソポタミアのライオン像が発祥の狛犬は唐(618~690年,705~907年)の獅子像が朝鮮半島を経由して日本に入って来ました。

当時の日本人は獅子という未知の生物を犬と勘違いして高麗犬と呼んだという説があります。これも新潟に残る古の京文化の名残かもしれません。
艀下川跡(新潟市)
湊稲荷神社を出た『新潟の町 微 地形散歩』の一行は艀下川(はしけしたかわ)の跡にできた道路を歩きました。艀下川は江戸時代に上島と下島と呼ばれていた土地の境を示す流れです。

周辺の土地は明治維新後に新潟県が有力者に分譲して開拓させた町です。

その名残として買い取った人の名前が町名として残っています。明治末期には住宅、商店、工場が立ち並ぶ活気ある町に成長していました。
下島公園(新潟市)
艀下川の跡にできた道路から細い道に入ると三角形の公園があります。「下島公園」という看板が目に入りました。ここが川を渡り下島だった事を今に伝えています。

湊稲荷神社、艀下川は「湊町新潟」の顔を見せてくれました。

新潟文化とは何だろう?この時点では古の京文化を残しつつも独自に発展させた文化を持つ新潟の横顔が垣間見えました。

つづく…ほいじゃ

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早川掘跡、浅草観音堂、湊稲荷神社 『新潟の町 微 地形散歩DAY2』④

街歩きが好きな人は目的地へ向か道中も色々なものを見ています。普段は当たり前に見える町の風景も視点を変えると別の表情が浮かびあがって来ます。

時に見えないものさえ見ようとします。
湊町通り(新潟市中央区)
『新潟の町 微 地形散歩DAY2』の参加者達は「みなとぴあ」を出て湊町通りに入りました。看板が昭和のテーストです。地元の人ならば古臭いと思うのかもしれません。

しかし、旅人なら懐かしさを感じます。古くなればなるほど価値は上がります。昭和はもう遠い過去です。
湊町通り(新潟市中央区)
現代風の建物の間にぽつりと残る木造建築を見付けました。何とも言えない違和感が心をくすぐります。もしかしたら、数年後にはないかもしれません。

なくなってからでは後の祭りです。いつ撮るか?今でしょう!
早川掘跡(新潟市中央区)
湊通りを直角に右折し西湊通りに入りました。少し行くと広い通りに出ます。早川掘の跡です。戦後しばらくは生活に物流に活用されていました。

色々調べましたがいつできて、いつ埋めたられたか正確に分かる資料が見付かりませんでした。
新潟市 税関付近 大正13年
分かったことは1964年の新潟国体向けて新潟島の掘はすべて埋められたという事です。また、埋めたられた理由としては大河津分水や地盤沈下による堀の水質悪化、モータリゼーションによる掘の存在意義消滅でした。

今はなき掘の姿を頭に描くことも街歩き醍醐味です。
浅草観音堂(新潟市中央区)
西湊通りが突き当るところに寺の様にも老舗の様にも見える建物がありました。閑静な新潟の下町で意外な文字が目に飛び込みました。「浅草観音堂」!?

浅草との共通点は下町、水辺でしょう。調べてみました。
浅草観音堂(新潟市中央区)
時は明治維新直後、浅草寺は明治開港五港を祈願するために観音像を作り各地へ分身させました。1879年(明治12年)、新潟港には遅れて分身されお堂が建てられたそうです。

浅草との相違点は「賑わい」です。

ネットで「早川掘」を検索してみました。古い写真が出て来ます。多くの人で賑わった活気のある水辺が見えて来ました。閑散としたこの地域も当時は賑わいがあったという事です。

数十年後には「堀の町にいがた」が再現されているかもしれません。

「堀割再生まちづくり新潟」が市と協力して掘の再生を試みています。また、「みなとぴあ」に早川掘や西堀をイメージした小さな堀が再現されています。

その時にはまた訪れたいものです。
新潟市 税関付近 大正13年
一行は湊稲荷神社へ向かっています。「あれ?」

もう一度、大正13年の地図を見ると当時は上記のルートには艀下川(はしけしたかわ)を渡る橋がありません。お稲荷さんへ行くには税関の横にある橋を利用しなければならなかったのでしょうか?

他の古地図も確認してみました。

明治44年の地図には大正13年と同じく橋は税関の横にあるだけです。ところが、さらに古い明治34年の地図には通り一本北に行った所に橋が描かれています。

真実は?

どの様に対岸へ行ったのか興味深いものです。過去の他愛のないミステリーに遭遇できるのも街歩きの面白さです。

つづく…ほいじゃ

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擬風洋風建築 旧新潟税関庁舎  『新潟の町 微 地形散歩DAY2』③

威風堂々と新潟市に残る旧新潟税関庁舎です。明治2年(1869年)という明治維新後、間もない頃に造られた歴史遺産です。国の重要文化財(1969年)に指定されています。

新潟が有する全国でオンリーワンの建築物です。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
明治維新の引き金となった出来事一つに「日米修好通商条約締結(1858年)」があります。横浜、長崎、函館、神戸、新潟が開港されました。当時の税関庁舎が残っているのは唯一新潟だけです。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
建物は「擬風洋風建築」と呼ばれる日本建築の技術を用いながら洋館を真似して設計された建物です。明治時代初期の地方都市を象徴する建築物なのかもしれません。シンプルで洗練されています。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
アーチ状の通路にある鎧戸は印象的でした。「後世に残されるものは奇抜なものでなくむしろシンプルなもの」という考え方があります。まさに単純な幾何学造形で人を飽きさせない魅力があります。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
裏手に回りました。白く斜めに交わる格子と茶色の鎧戸が守るガラス窓が印象的でした。壁は奇抜なデザインにも思えますが幾何学的で規則性があるためか落ち着きがあります。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
建物内部も同様に落ち着いた雰囲気です。職員の方に質問をしていると建物の図面を持ってきてくれました。「旧管理係事務室」と書かれていました。

図面を読むと縦7.272m、横11.030mと表記されていました。各部屋の詳しい使われ方は多くが不明です。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
アーチ状の通路の反対側には小部屋があり展示室になっていました。図面に「旧会議室」と書かれていました。サイズは6.454m×5.454mと小ぢんまりしています。

展示のために窓は締切りでしたが2つある窓から光は十分に確保できたと想像します。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
この建築物はやはり日本式だと思えたのは廊下でした。祖父の戦後に建てた家を思い出しました。この造りと雰囲気は過ぎし昭和の懐かしさを感じさせてくれます。

ドアの構造、ノブ、引手、蝶番を見ても昭和を感じさせます。是非、細部まで見て欲しいものです。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
旧新潟税関庁舎の見所は塔屋です。遠くを一望するために作られた櫓に見えます。内部には急勾配の階段があり、中二階を経て上へ到達します。

不便な造りで頻繁に使われた場所ではない様です。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
海側を見ると税関内の状態が一望できます。船の行き交いや進捗状況を俯瞰的に把握するには最適でしょう。反対側を見ると砂丘方面に広がる町が臨めます。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
資料を読んでいくと荷揚げ量は少なく稼働率が低い税関だった様です。当時の新潟港は対外貿易は振るわなかったものの遠洋漁業の基地としては栄ました。

水量が豊かな河口港の宿命で、川底が頻繁に浅くなる状況に悩まされたそうです。

太平洋戦争中はB-29による機雷投下があり、戦後の新潟港復興を遅らせる原因となりました。また、1964年には新潟地震による液状化と津波による被害を受けました。

それでも1967年には日本海側初の特定重要港湾に指定されました。1969年に海岸を開削して造られた新潟東港が完成しました。元々の新潟港は新潟西港と称される様になりました。

「みなとぴあ」の対岸である万代島は旅客ターミナルとして活躍しています。

地政学的に重要な位置に新潟がある証拠です。砂と風、地震と津波、戦争と度重なる困難を克服しながら新潟港は場所と範囲を変えながらも今も日本の重要な港であり続けています。

「みなとぴあ」の歴史博物館でもう一つの困難を知りました。歴史上、大火による大被害を何度も受けている点です。最近では1955年の昭和新潟大火がありました。

新潟市中心部は壊滅的な被害を受けたのですが死者はできなかったそうです。

ここで一つの新潟市のイメージが生まれました。―DIE HARD NIIGATA!

次回は「みなとぴあ」を出て街に繰り出します。

つづく…ほいじゃ

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新潟市のオンリーワン! みなとぴあ新潟市歴史博物館 『新潟の町 微 地形散歩DAY2』②

午前の太陽を浴びた水面は素敵に踊っています。新潟市は砂の街だけでなく水の街と言えることを実感できます。『新潟の町 微 地形散歩』2日目は「みなとぴあ新潟市歴史博物館」から始まります。

「みなとぴあ」には新潟近代史にまつわる建物が立ち並んでいます。敷地は国の史跡です。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 四間掘
「みなとぴあ」の博物館本館の前には四間掘があります。これは埋め立てられた西堀をイメージして作られたものです。古の水の町「新潟町」を視覚的にイメージするには十分です。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 博物館本館
博物館本館は1911年(明治44年)に建てられた二代目新潟市庁舎のデザインを取り込んで作られました。時代の息吹をイメージするには十分です。当時の庁舎は新潟市で2番目に高いビル「NEXT21」の場所でした。

ゆったりとしたロビーと壁際に沿って曲線を描く階段が印象的でした。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧第四銀行住吉町支店
博物館本館の対面には旧第四銀行住吉町支店の建物があります。2002年まで実際に使われていましたが道路予定地にかかっていたため「みなとぴあ」へ移築しつつ復元されました。

中は早朝故に覗き見しかできません。天井が高くゆったりとした造りでした。必見でしょう。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 石庫
博物館本館から荷揚げ場越しに見える石庫(いしぐら)は明治の面影を残しています。保税倉庫として1869年(明治2年)に建てられましたが老朽化のために1982年に建替えました。

石庫は耐火のために石を積み上げてでできています。福島県の野沢石です。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 荷揚げ場、旧信濃川旧河道
明治の面影を残す荷揚げ場と旧信濃川旧河道です。当時の海岸線がここにありました。ここから荷物を運び出し税関を通して石庫で一時保管というワークフローがイメージできます。

この荷揚げ場は川側の埋め立て、地盤沈下で沈んだ遺構を発掘調査して再現されました。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 旧新潟税関庁舎
「旧新潟税関庁舎」です。よく日本地図を逆さに見てごらんと言います。そうすると日本海が表になりロシア、中国、韓国との交易の道が見えて来ます。

「旧新潟税関庁舎」は石庫と同じ1869年(明治2年)に建てられました。
みなとぴあ 新潟市歴史博物館 荷揚げ場、旧信濃川旧河道
1858年(安政5年)の日米修好通商条約により横浜、長崎、函館、神戸、新潟が開港されました。横浜、神戸は今もオシャレな街として発展を続けています。

長崎、函館も日本史を語る上で外せない場所であり地形の豊かさが観光地としての魅力を高めています。

新潟はどうでしょう?この四港にない遺産を持っています。それが「旧新潟税関庁舎」です。五港のうち「税関庁舎」が現存しているのは唯一新潟だけです。

オンリーワンの建物、次はもっと詳しく。

つづく…ほいじゃ

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新潟島を感じる 『新潟の町 微 地形散歩DAY2』①

2日目になるまで新潟島という呼び方にピンと来ませんでした。1日目の『新潟の町 微 地形散歩』は砂丘際の坂歩いた時は「台地の上」という感覚になっていました。

1日目の夕方近くに日和山展望台から日本海を見て、翌朝に集合場所である「みなとぴあ」へ信濃川沿いを歩いて字初めて海に囲まれた場所だと実感できました。
新潟島
「新潟市中央区は水と砂の街なんだ。」頭の中に地図が浮かびあがりました。通称「新潟島」と呼ばれる所以が分かった気がした瞬間でした。
新潟島
メスの刃の様な形です。1972年に関谷分水が開通した事実上の島となりました。歴史を遡ると少し上流の燕市に大河津分水(おおこうづぶんすい)が1922年に完成しています。

減災が目的で作られましたが副作用もありました。大河津分水は水と土砂の下流への流入を減らし新潟市の砂浜を後退させました。現在の新潟市の形を考える上で外せない出来事です。
新潟市 中世
中世の頃、現在の新潟市中央区付近は信濃川の沖積平野は今よりも少なく痩せ細った形でした。砂丘を中心に海側に砂浜が広がっていたと推測されます。

川の自由な流れにより新潟市全体に名前の由来となる「潟」が点在していました。
※潟  砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼。(Weblio参照)

土砂の堆積で砂州が目まぐるしく形を変え形成された土地です。現在の新潟県中央市付近にも白山島、寄居島などの現在は地続きになった砂州がありました。
新潟市 江戸時代初期
江戸時代初期には信濃川に沖積平野が広がりはじめました。赤い線は北国街道です。砂丘の尾根道を通ています。信濃川と阿賀野川の河口では船で渡りさらに北へ進みます。

昔の幹線道路は洪水などで遮断される恐れの少ない尾根道に敷かれているのが一般的です。

私が一番魅力的に感じたのは江戸時代の古地図に登場する「古新潟町跡」の存在です。海寄り砂丘にあった古い新潟町です。1638年に移転の請願が幕府に出され1655年頃には移転が完了したとされます。

聞いたところによると「古新潟町」の明確な場所は特定できていないそうです。

江戸時代以前は今よりも砂丘は海に近く、南北に北国街道が走る交通の要所だったのでしょう。砂の町という考えると遺跡は深い所に眠っているのでしょう。
新潟島
頭は半分眠っているものの新潟の土地の成り立ちと歴史ロマン「古新潟町」の存在にワクワクしながら集合場所に向かっていました。

2日目はみなとみぴあ」で旧新潟税関庁舎と歴史博物館を見学してから埋め立てられた掘を確認しつつ神社を巡りました。ゴールは1日目と同様に日和山です。
新潟の町 微 地形散歩DAY2
「新潟島」の平坦な砂州にできた街を探索します。

まずは「みなとぴあ」新潟歴史博物館です。ここで新潟市の土地の成り立ちが詳しく分かります。

つづく…ほいじゃ

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新潟夜散歩 『新潟の町 微 地形散歩』【番外編】

麒麟山うまかった!『新潟の町 微 地形散歩』の1日目を終え夜の古町へ。居酒屋で地元の人が薦めてくれた麒麟山という日本酒が美味しく、ついついたくさん飲んでしまいました。

後で写真を見るとビックリ!八割方がブレていました。
夜の新潟市中央区(2013/9)
1日目の最終ゴール「日和山」伸びる道が古町通りでした。名前を記憶していませんが奥に座敷がある懐かしい感じの居酒屋でした。新潟の名物料理も数々食することができました。

蝦しんじょう、菊のおひたし、タレカツ丼…と私のメモに残っていました。
夜の新潟市中央区(2013/9)
酒処新潟の夜の街は期待を裏切りませんでした。旨い酒と肴がリーゾナブルに楽しめるということは何よりの贅沢です。1日目の行程にあったドッペリ坂を思い出しました。
夜の新潟市中央区(2013/9)
ドッペリとはダブる(落第)という意味の坂でうが、大学の寮から抜け出し坂を下りたがる学生の気持ちは分かります。酒、米、海鮮類と旨いものがあればこそです。
夜の新潟市中央区(2013/9)
『新潟の町 微 地形散歩』の居酒屋有志達は盛り上がり「新潟夜散歩」を臨時開催することになりました。古い料亭がある街はしめやかで見所満載でした。

写真はブレまくりでほとんど使えません。
夜の新潟市中央区(2013/9)
「うる星やつら」、「めぞん一刻」など数々のヒット作を世に排出した漫画家の高橋留美子さんは新潟市の出身です。実家が経営する駐車場がありました。

私は「めぞん一刻」に登場する数々の坂のシーンに心を奪われています。未だに同じ面影のある坂を探し街歩きを続けています。もしかしたら、まだ行っていない砂丘どこかにあるのかもしれません。

ちなみに高橋留美子さんの父も祖父も産婦人科医でした。祖父は新潟の発展に寄与した人物です。
夜の新潟市中央区(2013/9)
新潟県が産んだ有名漫画と言えば「ドカベン」の水島新司さんがいます。子供の頃に夢中に読んだものです。明訓高校のモデルは新潟明訓高等学校ですが作品上では神奈川代表です。

作品上ではさりげなく新潟明訓とは姉妹校関係という設定でした。

「ドカベン」の素晴らし点は主人公の山田太郎だけでなく殿馬一人、岩鬼正美、里中智らも十分に輝いていたことです。彼からの過去を回想するシーンに感動しました。
夜の新潟市中央区(2013/9)
最後に1989年まで新潟市役所があった場所にできた最頂部は128m、最上階は21階のNEXT21へ行きました。オープンは1993年だったので私が新潟にいた頃にはありませんでした。

19階、高さ101mには展望ラウンジがあり新潟市中央区の古町エリアと市内の繁華街を一望できます。何よりも無料なのが嬉しい次第です。新潟夜散歩の締めには十分過ぎる絶景でした。

残念ながら9割方の写真はブレて使えませんでした。

唯一ブレが少なかった写真を加工してアップします。いつ来るかは分かりませんが次に新潟で泊まることがあれば居酒屋で麒麟山をたのむでしょう。

翌朝は『新潟の町 微 地形散歩』の2日目です。

つづく…ほいじゃ

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寒いぞ今年の冬! 長期天気予報2013年11月~2014年2月

孫子の兵法では「天」の把握が「五事」の一つとされています。天気はビジネスや生活に直接的のみならず間接的にも影響しています。

プラスに働く場合もあればマイナスに働く場合もあります。今年の冬はどうなるのだろう?それにしても今年の紅葉は短そうですね…。

(写真は群馬県沼田市、みなかみ町で撮影)
沼田公園2013秋
Tenki.jpの長期予報を基に先3ヶ月の天気を頭に入れています。

基本事項として3ヶ月予報は「平年より低い(少ない)」、「平年並み」、「平年より高い(多い)」の3つの確立が棒グラフで示されています。(3つを足すと100%)

私は「平年並」と「平年より高い(又は低い)」を足した確率で寒暖と降水量の傾向を判断します。

ちなみに「平年並み40%」で、「平年より高い」と「平年より低い」がどちらも30%の場合は「平年並み」と傾向を判断することにします。

まずは寒暖予報から見ましょう。
沼田市東原2013秋
○気温 寒・暖期予報
平年より寒くなる!とハッキリと出ています。猛暑の夏は…と言いますが格言通りの寒い冬がやって来るでしょう。先日、新潟の小千谷へ行きましたが昨年は3m以上積もったそうです。今年もなのか?

北日本、東日本、西日本、沖縄・奄美
↓(10月~2月)平年より低い40%+平年並40%=80%

○降雪量 寒・暖期予報
やはり、降雪量は平年以上になりそうです。こちらもハッキリとした数字です。雪国は大変になりそうです。

北日本、東日本、西日本
↑(10月~2月)平年並み40%+平年より多い40%=80%

○降水量 寒・暖期予報
10月~2月寒暖予報で気温、降雪量は全国一律の確立でした。降水量は違います。4つのエリアに分類できます。

太平洋側(北日本)沖縄・奄美
↓(10月~2月)平年より少ない40%+平年並30%=70%

太平洋側(東日本、西日本)
↓↓(10月~2月)平年より少ない40%+平年並40%=80%

日本海側(北日本、東日本)
↑↑(10月~2月)平年並み40%+平年より多い40%=80%

日本海側(西日本)
↑(10月~2月)平年並み30%+平年より多い40%=70%

おおまかにまとめると太平洋側では乾燥した冬、日本海側では湿った冬がやって来るということになります。次は寒暖予報とは別にある3ヶ月予報を見まていきましょう。
沼田公園2013秋
○気温~3ヶ月予報 地方別
12月から寒くなりそうです!スタットレスは12月の早い時期から履くことになるのでしょうか?沖縄・奄美は本州と同じように12月は寒い様ですが1月から平年並みになる様です。

北日本、東日本、西日本
→11月 平年並み40%
↓↓12月 平年より低い40%+平年並み40%=80%
↓↓01月 平年より低い40%+平年並み40%=80%

沖縄・奄美
↑11月 平年並み30%+平年より高い40%=70%
↓↓12月 平年より低い40%+平年並み40%=80%
→01月 平年並み40%

1月は沖縄旅行でもするかな?…お金がなかったozr

○降水量~3ヶ月予報 地方別
11月は全国的に平年並みなのです。しかし、12月からは強弱はあれでも寒暖予報と同様に太平洋側が乾き、日本海側が湿った予報になっています。

太平洋側(北日本)
→11月 平年並み40%
↓12月 平年より少ない40%+平年並み30%=70%
↓01月 平年より少ない40%+平年並み30%=70%

太平洋側(東日本、西日本)…12月、1月は乾燥!
→11月 平年並み40%
↓12月 平年より少ない40%+平年並み40%=80%
↓01月 平年より少ない40%+平年並み40%=80%

日本海側(北日本、東日本)…12月、1月は湿っています!大雪?
→11月 平年並み40%
↑↑12月 平年並み40%+平年より多い40%=80%
↑↑01月 平年並み40%+平年より多い40%=80%

日本海側(西日本)
→11月 平年並み40%
↑12月 平年並み30%+平年より多い30%=70%
↑01月 平年並み30%+平年より多い30%=70%

沖縄・奄美
→08月 平年並み40%
↓09月 平年より少ない40%+平年並み30%=70%
→08月 平年並み40%

沖縄・奄美だけは1月に少ない傾向から平年並みに戻ります。

○降雪量~3ヶ月予報 北日本日本海側
やはり、寒暖予報と同様に日本海側では平年以上の雪が降りそうです。スキー場は喜ぶでしょうがハウス栽培の農家では苦戦が予想されます。

(11月~1月)平年並み40%+平年より多い40%=80%
月夜野2013秋
総括すると!
Tenki.jpの寒暖予報に文章でまとめてありました。引用します。

【Tenki.jpからの引用】
北日本日本海側では、平年に比べ曇りや雪の日が多いでしょう。
東日本日本海側では、平年に比べ雪または雨の日が多い見込みです。
西日本日本海側では、平年に比べ曇りや雪または雨の日が多いでしょう。
北・東・西日本太平洋側では、平年に比べ晴れの日が多い見込みです。
沖縄・奄美では、平年と同様に曇りや雨の日が多いでしょう。

今年の冬は寒い!太平洋側は乾き、日本海側は湿っていて、雪は平年以上に降るということです。厳しい冬に心の準備だけでなく身の回りの準備が必要な様です。

ほいじゃ

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