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日和山から日和山へ(1日目のゴール) 『新潟の町 微 地形散歩』⑳

日本海の絶景ともお別れです。日和山展望台を満喫した『新潟の町 微 地形散歩』の参加者は新日和山から日和山へ向かいました。1日目のゴールはもうすぐです。
新日和山(新潟市)
2つの日和山があります。一つは海寄り砂丘の尾根道にある標高16m台の新日和山、もう一つは砂丘を下った先にある標高11m台の日和山です。坂を下ろう!
日和山へ(新潟市)
スケボーでは急過ぎる坂です。少年が乗っているのはランドサーフの様です。余談ですがスケボーは4輪の上に板1枚ですが、ランドサーフは2輪と板2枚で構成され前後が捻じれる仕組みになっています。
日和山と新日和山の坂(新潟市)
地理院地図GISマップで見れるレーザー測量値によると坂上は16.0m、坂下は3.5mです。距離にして94mです。1000mで170m勾配(170パミール)がある急坂です。
日和山と新日和山の坂(新潟市)
ちなみに日本一の箱根登山鉄道の最急箇所は80パミールです。この坂は山道並みの勾配です。下の写真は浜寄り砂丘の日和山展望台から見たこれから向かう眼下に盛り上がった日和山です。
日和山と新日和山の坂(新潟市)
一旦、坂を下りると道はほぼ平坦になります。185mほど先が日和山の裏参道です。実際は途中からジワジワと登り坂下から日和山の裏参道まで1.7mほど高度を上げます。
日和山から新日和山(新潟市中央区)
数字の細かさは地理院地図GISマップのレーザー測量によるものです。日和山の頂上は11.6m、頂上は裏参道から直線距離にして約15mです。773パミールです。山腹は崖になっています。
日和山(新潟市)
日和山の頂上には住吉神社があります。江戸中期、海岸線が山の近くにあった頃は水先案内と海難救助を行う水戸教の拠点となっていました。水戸教を司った伊藤家が信仰していたのが住吉神社です。
日和山(新潟市)
信濃川の河口が北に移動したため日和山は海岸線から遠くなってしまいました。水戸教の拠点はより北に出来た雲雀町へ移転されました。…日和山の詳しい話は2日目の最後でまた出るのここまで。
日和山から新日和山(新潟市中央区)
最後にカシミール3Dに5mメッシュ標高を入れ日和山から新日和山を臨む光景を作りました。標高は3倍に強調してあります。急坂を下り平坦、そして微量ながら登り日和山に着きます。

日和山道側の急斜面が不自然です。

路地連新潟が作る「新潟下町めあるき 日和山 登山のしおり」にあった江戸時代の絵(長谷川雪旦『北国一覧写 出羽越後』)や大正時代の写真と比べると道側の斜面が削られている様です。

もしそうならば日和山の横道が高くなっている事の説明ができます。

ここまで路地連新潟、東京スリバチ学会が主催した『新潟の町 微 地形散歩』の1日目に歩いた経路を書いて来ました。たった3時間程度の街歩きが20回分にもなるとは!驚きです。

逆に言えばそれだけ深みがあったということでしょう。

街並み、地形、遺構には私たちが祖先から引き継いできた歴史が刻み込まれています。時間軸と言う要素を意識することで今あるものの裏側が見えてきます。

また、人は一人では生きて行けないと言います。

それは現代に生きる人同士のつながりだけでなく、過去に生きた人たちとのつながりがあって私達がここにいます。

現代の人のつながりが今回の企画が生み、過去に生きた人たちが築いた町や文化、自然の営み、ひっくるめて歴史が街歩きを楽しくしてくれました。

「空」、「時」、「人」、「美」、それらを司る自然の「法(則)」を見て来たのだと後になって気付きました。

ほいじゃ…2日目へ
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新日和山と展望台 『新潟の町 微 地形散歩』⑲

視界が一気に広がりました。今迄、浜寄り砂丘に遮られた景色が解き放たれた瞬間であり、新日和山展望台の白い塔が日本海を背景に視界に浮き上がった時でした。
新日和山(新潟市)
江戸時代に日和山(標高約11.6m)と呼ばれた山はこの浜寄り砂丘を下ったところにあります。明治13年に火災があり翌年に施設が新日和山(標高約16.5m)へ移転しました。

明治14年(1881年)船見櫓、茶屋が作られる(新日和山と呼ばれる)
昭和11年(1936年)日和山展望台(一代目) 高さ7.2m
昭和52年(1977年)日和山展望台(二代目) 高さ9.0m
新日和山(新潟市)
展望台ができた頃は300mほど先に波打ち際がありました。今は砂丘を超えるとすぐに海です。1922年に完成した信濃川の大河津分水(おおこうづぶんすい)により土砂が下流まで運ばれなくなった事が原因とされています。
新潟市 浜寄り砂丘 新日和山
新日和山は浜寄り砂丘に続く尾根の北端近くにあります。カシミール3Dのカシバードで南北に浜寄り砂丘を撮影すると自然の営みの壮大さが感じ取れます。水と風の芸術作品です。
新日和山(新潟市)
日和山展望台からの眺めは爽快です。晴れた日ならば佐渡島もハッキリと見えます。私が登った時は残念ながら薄らとしか見えませんでした。それでも9月の終わりに吹き抜ける海風に満足しました。
新日和山(新潟市)
9メートル眼下にはここまで一緒に歩いてきた『新潟の町 微 地形散歩』の同士達が見えます。台地の高さが16.5m程度なので海抜25.5mの日本海を臨む眺望が楽しめます。
新日和山(新潟市)
海寄り砂丘の南側に目を向けると標高27mの丘を背に起伏が豊かなランニングコースが見えます。海風を浴びながら尾根道を行くランニング、ウォーキングは魅力的です。

思えば街歩きもアウトドアスポーツなのかもしれません。

街を五感で知るという点を含めれば知的アウトドアスポーツと言えるのかもしれません。坂や階段の昇り降り繰り返し何時間も歩き続け程良い疲労感が走馬灯のように過ぎた景色への満足感を高めるのかもしれません。

ここ浜寄り砂丘でチャンスがあればやってみたい事ができました。

1、浜寄り砂丘の尾根道を辿る街歩きをする
2、ヘリで浜寄り砂丘や新潟市の沖積平野を眺望する

いつの事になるのやら…。

次は『新潟の町 微 地形散歩』1日目の最終目的地「日和山」へ向かいます。江戸時代の頃に海上交通の要所であり元祖「日和山」です。

つづく…ほいじゃ

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日和山墓地と湊小グラウンド 『新潟の町 微 地形散歩』⑱

墓の中も『新潟の町 微 地形散歩』のコース?驚きました。でも、良く考えると私も街歩きをしていると墓の中に入ります。東京の日暮里から上野まで抜けられる谷中霊園は通り道です。

ここは新潟市中央区にある日和山墓地です。
日和山墓地 新潟市 荻野式
見所は「荻野式」で有名な荻野久作博士の墓です。避妊法として知らる荻野式ですが、博士は妊娠法として研究をしていました。国際学会があると外国人医師が訪れる場所なのだそうです。

それくらい国際的に知名度のある荻野博士の自宅があった新潟市内の道は「オギノ通り」となっています。
日和山墓地 新潟市
墓地の正式名は薬王寺日和山墓地です。明治、大正の古地図には共同墓地と書かれています。墓に素敵というのも何なんですが、写真を撮り見付けた素敵な点は3つの表情があることです。

一つ目は古い石が土の上に並んだ古風なエリア、次は新しい石が芝生の上に並んだエリアです。
日和山墓地 新潟市
三つ目は外国人墓地エリアです。大正8年(1919年)には寄居の一番山にあった外国人墓地が日和山共同墓地に移されました。

全体として石の大きさや方向がランダムで現代の墓地とは一線を画しています。歴史を感じます。
新潟市 日和山墓地と湊小グラウンド(大正13年)
日和山墓地の古地図を見ていて気になった点があります。隣が遊郭だという事です。刑務所と老舗料亭が向かい合う地獄極楽通りを思い出しました。大胆な町割りなのでしょう。

両極端な物が道を境に体面する―新潟市中央区の古い区画の特徴なのかもしれません。
日和山墓地 新潟市
日和山墓地を過ぎると勾配がきつくなって行きます。広いグラウンドに出ました。地元の方からこの下には貯水槽があると聞きました。検索キーワードは?

このグラウンドの名前を調べるのにひと手間かかりました。
新潟市 湊小グラウンド
ネット公開されている一般的な地図には記載されていません。結局のところ「都市再生街区基本調査成果」で「湊小グラウンド」という名前だという事が分かりました。

それを手掛かりに検索すると新潟市のホームページがヒットしました。
新潟市 日和山墓地と湊小グラウンド(現代)
地面の下には100立方メートルある飲料水兼用耐震性貯水槽が埋められています。歴史的、地理的な観点から考えれば高台は水の確保が難しく住居には向きません。

貯水槽という技術が丘の上の生活を成り立たせています。
新潟市 日和山墓地と湊小グラウンド
このグラウンドを過ぎると勾配は一気にきつくなります。明治34年から大正13年の三枚の古地図には何も描かれていない海寄り砂丘の斜面です。今は家が立ち並ぶ住宅街です。

標高で表現すると日和山墓地が3~4m程度、湊小グラウンドが7m台です。
新潟市 日和山墓地と湊小グラウンド(明治45年)
標高16m台後半の新日和山の尾根道までは直線距離して約120mです。8m登るとすると26.6パミール、幹線鉄道の勾配の場合、25パミール程度が限界とされています。

立派な坂道です。勾配が目の前を遮ります。
日和山墓地から新日和山へ(新潟市)
階段の向こうは日本海です!視線を遮るものは何もありません。

つづく…ほいじゃ

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砂丘坂と路地群 『新潟の町 微 地形散歩』⑰

この窪みは川筋跡ではありません。地形をかじった人なら窪地は水の流れの跡と考えるでしょう。砂の町「新潟市」ではこの概念は通用しません。

「新潟市中央区」は信濃川、阿賀野川の沖積地と海からの風で形成された砂丘で構成されています。
P1490796.jpg
浜寄り砂丘と町寄り砂丘という二つの丘を一望できる坂です。砂丘だと思って見れば緩やかな勾配がもっともらしく見えます。名前を付けるならば砂丘坂とでも言うべきでしょうか。

『新潟の町 微 地形散歩』で最も気に入った坂です。

往生院道という古道として紹介してある資料を見付けました。しかし、江戸、明治、大正の地図を見て行くとこの道が描かれていないものもあり困惑しました。
新潟市 田中町と古町通の路地
このスポットは町の外れにあたりアバウトに描かれた古地図がほとんどです。

素晴らしい二大砂丘の坂を嗜んだ後は細い路地の中へと突入して行きました。田中町から古町辺りへ通ずる路地はアパートとアパートの間にある隙間のような所でした。
新潟市 田中町と古町通の路地
まさに「ディープ新潟」の象徴的光景と言って過言ではないでしょう。すれ違う住人の方はいませんでしたが知らない町の生活に入り込んだ距離感です。

この路地群は立地に特徴があります。
新潟市 砂丘坂と路地群
路地群は新潟市中央区を南北に貫く寺町群と町寄り砂丘が斜めに合流する手前の狭い土地に形成されています。寺町の終点だり町寄り砂丘が一旦フェードアウトする辺りです。

明治34年、明治45年、大正13年の地図上では町はずれという事もあり大まかな描写になっています。
法華宗 陣門流 薬王寺(新潟市中央区)
浜寄り砂丘上の薬王寺は大正13年の地図に載っていません。しかし、情報を集めると明治末期に現在地へ移転したと書かれていました。

絵も形も組み合わないパズルをしている様です。
法華宗 陣門流 薬王寺(新潟市中央区)
何も解決されぬまま今日のブログが終わってしまいます。後ろ髪を引かれる様です。土地の歴史に詳しい人ならば知っている事なのかもしれません。

「新潟市」の地形と土地の歴史が分かり辛いのは地図ばかり原因でないかもしれません。砂の町だからです。砂なら数十年で地形が変り建物の位置が点々としても不思議ではありません。

新潟市の土地と歴史を紐解くには砂と風と水という概念を同時に考える必要があります。

蛇足ですが薬王寺の掲示板に面白い文章がありました。

精(はげ)みこそ不死の道
放逸(ほういつ)こそ死の道
いそしみはげむ者は死することなく
放逸(おこたり)にふける者は
生命(いのち)ありともすでに死せるなり
 法句経

地図、地形、歴史でああでもないこうでもないと「励んでいる時」は不死の道にいるようです。いそしめば答えの先に新たな疑問が生まれます。

だから、また励みます。これが生きているということなのか?

つづく…ほいじゃ

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階段路地のミステリー 『新潟の町 微 地形散歩』⑯

今迄に見た事のない路地に出会いました。公道から住宅へ上がる階段ですが30mほどの路地が続き、また階段があり公道へと下ります。

法律上に道路に面していない所には建築物は建てられないので道と認識して良いのでしょう。
新潟市 田中町の珍しい路地
この道はGoogle Mapには掲載されています。国土地理院の電子国土にはない道です。平成16年度から18年までに行なわれた都市再生街区基本調査ではこの「階段路地」も道幅に含まれている様に見えます。

大きな地図で見る
私道なのでしょうか?家は道路面より2m以上高いところにあります。塀の色を見ると古さを感じさせます。道路の対面には1929年に新潟曹洞教会所としてスタートした大仙寺があります。

当時、この寺は新潟刑務所の裏に位置していました。現在では刑務所が移転され西大畑公園の裏となります。
新潟市 田中町の珍しい路地
この不思議な「階段路地」は町寄り砂丘の上に位置しています。国土電子によると道の反対側にある大仙寺の標高は6.9m、階段路地がある建物の裏手にある駐車場は5.2mあります。

建物の辺りは標高5,6mあり道だけが窪んでいます。
田中町(新潟市)
明治45年の地図を見るとこの道は田中町の中心を貫く道が描かれています。道が終わるところは町寄り砂丘の手前です。当時は町寄り砂丘に家が建てられていなかった様に見えます。

ただ、地図がアバウト過ぎて確証には至りません。
新潟市 田中町 明治45年
大正13年の地図では刑務所が拡張された様に見えます。しかし、この道は明治時代と変わらず途絶えたままです。残念ながら昭和の地図を手に入れる前にタイムオーバーです。

土地の歴史は分からず仕舞です。明治34、45年、大正13年の地図を順番に見て行っても脈絡が途絶えて仕舞います。描かれてないのか何もなかったのかハッキリしません。
新潟市 田中町と古町通の路地
このミステリにはいつか挑むとしても一つの仮説が成り立ちます。「建物がはじめにあり、道が後で整備された」というものです。まず、盛り土したという考えは不自然です。

町寄り砂丘の自然な地形上に建物を作り、その後に正式に道が整備されたと考えるのが妥当でしょう。
新潟市 田中町と古町通の路地
この道は都市整備の際に昔からあった浜寄り砂丘と町寄り砂丘の間の道と接続されたと考えれます。その際に勾配が少なる様に切り通したと推測できます。

しかし、切り通すなど面倒な工事をせずに坂のままでも良かったのでは?

階段路地がある程の高低差をわざわざ切り通して作ったと考えるのは合理的ではありません。次の仮説が生れます。元々、砂丘の低いところに道を通した、又は低い所が道だったと考えるのが妥当です。

これなら工事する手間は少なくなります。

まだ、気になる事があります。現代の建築基準法では道幅4m以下の道でも救済処置として特定行政庁が道路として指定した場合に建築、改築が認めれます。

但し、道路の中心から2m下がった所までを道とします。

これは将来的に4mの道に拡張するためです。もしかしたら、建替えの際に道幅を4m分確保できる様に階段路地が作られたものかもしれません。

推測だけが飛び来い結局は分からない事だらけです。

しかし、不思議な「階段路地」は街歩き人としてミステリーです。制度と歴史を深く調べ、古地図と聞き込みさえできれば解決できるはずです。

今はこのミステリーを背に前へ進まなければなりません。(『新潟の町 微 地形散歩』のブログが書き終わらない故…)

つづく…ほいじゃ

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浜寄り砂丘の駐車場から 『新潟の町 微 地形散歩』⑮

夜景はさぞかし見応えがあるのだろう。そう思った場所です。悩み事がある時に夜景を見るとスッキリすることがあります。物事を俯瞰的に眺めれば自らの悩みなど小さいと気付きます。

浜寄り砂丘の中腹にいます。ここが砂丘?
P1490745.jpg
新潟市中央区二葉町から見た市街地です。浜寄り砂丘の中腹で標高17m地点です。マンションの駐車場です。私有地なので訪れた方は良きに計らってください。
新潟市中央区田中町と二葉町の地形
地形としてはさらに上があり頂上部分の標高は27mです。砂丘と言うより小山です。その向こうには海が広がっています。砂が海に削られ一気に急勾配となります。
二葉町の丘(新潟市)
こんな場所に住みたいものです。道はしっかり整備され大きな荷物の運び入れも問題ありません。市街地とは一線を画した場所にあり仕事とプライベートの切り替えもし易そうです。

何よりもこの絶景が溜まりません。
新潟市 田中町の浜へ続く坂と路地
駐車場の位置は二葉町です。眼下には田中町の路地が見えます。俯瞰に見る楽しさと町の形状を理解できる喜びがあります。やはり、ここが砂丘だとはすぐに忘れてしまいます。
P1490751.jpg
別に角度から見るとどの様になっているのでしょうか。上の写真にあるオレンジの建物と緑の木々の丁度間くらいです。急斜面になっており目前に遮るものが何もありません。

やはり、どう見ても砂丘には見えません。

気になるのは夜景です。どれだけ美しいのか?それほどでもないのか?次に行く機会は訪れるのか?う~ん、気になる…。

つづく…ほいじゃ

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(後編!)二葉町・田中町の階段群へ 『新潟の町 微 地形散歩』⑭

新潟市中央区で最もマニアを興奮させる場所かもしれません。二葉町と田中町をまたぐ階段群です。路地裏を歩けば階段にあたるという場所です。どれも個性的で魅力があります。
新潟市中央区 田中町の階段群
ここが砂丘の上だという事を忘れてはいけません。でも、実際に歩くと忘れています。急な階段は生活に不便でしょう。効率とは逆の存在こそ魅力を感じるのかもしれません。

この階段は二葉町、急な部分が終わると田中町になります。
新潟市中央区 田中町の階段群
先程の階段を下ると私の好きな形状に出会えました。坂が二手に分かれ片一方が外に折れて行きます。広角に見ると階段ずくしです。「階段かき揚げ」と言ったところでしょうか。
新潟市中央区 田中町の階段群
坂があれば、階段があれば登りたくなる質です。そして、様々な角度から楽しみたいものです。上からのビューを楽しみました。ひと言「いいね!」

ちなみに階段の先は平屋の集合住宅が続き行き止まりになっています。
田中町の階段群
坂上と坂下では14mの標高差があります。最初に取り上げた階段が勾配差5m程度、2つ目が4m程度です。どちらも距離は短く急勾配になっています。

それから、砂丘の斜面に沿い平らな道を進みました。
新潟市中央区 田中町の階段群
民家の塀にも一工夫があります。壁には支えが組みこんであります。砂丘の町ということを考えれば天災によって砂が下へ向かうことは想定しなければなりません。

この支えも立派な必需品なのでしょう。

砂丘に町に住む…そこには苦労と工夫があったのでしょう。そんな、人の営みから生まれた風景は第三者から時に魅力的に見えることがあります。

二葉町・田中町の階段群にとっても「いいね」!

つづく…ほいじゃ

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(前編)二葉町・田中町の階段群へ 『新潟の町 微 地形散歩』⑬

海岸沿いの新潟市中央区は砂丘の町です。砂丘だからこその海岸に近づくほどに高くなる珍し地形です。『新潟の町 微 地形散歩』の参加者は「町寄り砂丘」を後にしました。

そして、新しいフェーズ「浜寄り砂丘」へと入りました。新たな発見です。二葉町と田中町は階段の宝庫です。
新潟市 田中町の浜へ続く坂
浜寄り砂丘の斜面に位置する浜へ続く坂です。登り始めは田中町、寺院の辺りから二葉町になります。左に緩やかにそして非幾何学的にカーブを描きながら勾配を増していきます。

坂の名はあるのでしょうか。
P1490724.jpg
坂の途中に「(梵字)弘法大師」と掘られた石碑があります。パンフレットの地図には宝持院と書かれていました。新潟市内の寺町から不自然にポツンと外れた位置にあります。

真隆山大泉寺 宝持院
開祖:法印鏡意行人
開基:1650年(慶安3年)
御本尊:不動明王
P1490725.jpg
調べると移転が2回行なわれた寺院でした。戦後は廃寺の様になっていた状態から現在地に移転、再建されたお寺です。

①慶安3年(1650) 寺町五ノ町西堀通り八番町
②明治7年(1874) 学校町二番町行刑場跡
③昭和4年(1929) 二葉町二町目5188

宝持院がこの地に移りすでに80年以上経過しています。寺院の横の坂を宝持院坂と呼ぶのに相応しい象徴です。名前は土地に新たな命が吹き込みます。
P1490720.jpg
宝持院の裏手には心掴む階段がありました。名前は知りません。ないかもしれません。砂丘の斜面に沿った自然なカーブを描いています。その曲線美が心を惹きつけるのでしょう。
新潟市中央区 田中町の階段群
宝持院を過ぎると真っ直ぐに伸びた階段が目に飛び込みます。あとで地図で確認すると手前にあった階段と「コ」の字状につながっていました。魅惑の階段地帯その1です。

大きな地図で見る
階段好きにはたまらない場所です。「裏道を歩けば階段にあたる」という土地柄です。階段という建造物に価値を感じる人には「宝を持った」場所です。

宝持院の宝は階段なのでしょうか。続きます、二葉町と田中町の魅力的な階段群へ!

つづく…ほいじゃ

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色あせた煉瓦塀 地獄極楽小路 『新潟の町 微 地形散歩』⑫

古めかしい煉瓦塀が気になる小道です。高貴で緑満ちた「旧齋藤家別邸」を後にして江戸時代中期から続く「行形亭(いきなりや)」の横を通り過ぎます。

左折。視線の先にある色あせた煉瓦塀は何かの遺構でしょう。
地獄極楽小路
『新潟の町 微地形散歩』のフィールドワークに参加した一行は一本の細道を嗜みました。「地獄極楽小路」です。地獄とは?道も半ばまで進むと「旧刑務所通用門」と書かれています。

現在は西大畑公園の南側の出入口、以前は新潟刑務所があった場所です。
行形亭(新潟市)
天国とは?道幅約3mの反対側にある「行形亭(いきなりや)」です。国の登録有形文化財に指定されている老舗の料亭です。刑務所とは対照的な存在です。

料亭遊びをしていても背中にナイフを突きつけられた気分で身を落とさぬよう緊張感があったもしれません。
地獄極楽小路
小路(こうじ)と呼ばれる細道が新潟市内には多く存在しています。小路は大路(おおじ)と対比させた呼び方です。律令制時代から使われた言葉です。

少なくとも7世紀には中央集権国家の影響下にあった事を考えれば不思議ではありません。
地獄極楽小路
似た言葉に広小路があります。江戸時代に生まれた道です。明歴の大火(1657年)をきっかけに火災の拡大を防ぐために設置された火除地(ひよけち)です。

煉瓦塀の向こうに広がる西大畑公園の反対側の道が新潟市を東西に貫く広小路の末端です。
地獄極楽小路
旧新潟刑務所と土地の歴史に目を向けると江戸時代後期までは火葬場として使われていたことが分かります。1845年(弘化二年)に西堀から牢屋敷が移転されて来ました。

明治時代になってからも徒刑場と名を変えて使い続けられました。
地獄極楽小路
1880年(明治13年)に大火があり徒刑場も焼けました。翌年の1881年(明治14年)に新築されました。煉瓦塀はその時に作られたものでしょう。

1922年(大正12年)に「新潟刑務所」と改称され1971年(昭和46年)に移転されるまでの50年ほど使い続けられました。
地獄極楽小路
「地獄極楽小路」は町寄り砂丘の中ほどを貫いています。通りの入口は標高約0.8mで中ほどの標高約3.8mの所まで登り勾配になります。そして標高約2mまで下ります。

「行形亭(いきなりや)」裏手の駐車場は標高にして5m台あります。「地獄極楽小路」が見下ろせる高さです。

駐車場の横に見える「行形亭(いきなりや)」の小山は高い所で9m台あります。また、向かいの西大畑公園の最も高い所で6m台あります。

これらを考慮すると「地獄極楽小路」は明治時代に砂丘を切通して作られた道と考えられます。もしかしたら、旧新潟刑務所も一部は人工的に削られ整地されたのかもしれません。

今では刑務所が公園になり「天国やすらぎ小路」と呼べる道です。昔の面影は色あせた煉瓦塀だけです。

ほいじゃ

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(後編!)庭と建物が織りなす総合芸術 旧齋藤家別邸 『新潟の町 微 地形散歩』⑪

日本庭園は小宇宙です。限られた空間に現実を隔て理想郷を立体的に創造したものです。自然界にはない空間であり、自然界の良い所を取り入れた空間でもあります。

新潟市中央区の旧齋藤家別邸は至極の総合芸術です。
旧齋藤家別邸
主屋を出て庭を散策すると庭師二代目松本幾次郎と亀吉の力量を計り知ることができます。江戸下根岸出身の兄弟です。渋沢栄一の曖依村荘(あいいそんそう)や成田山新勝寺などの代表作があります。

大滝の水は深山幽谷な風景を一気に通り過ぎ主庭の池へと流れ込みます。
旧齋藤家別邸
筑波石の石畳を登り田舎屋から築山に見立てた勾配を眺めればここが砂丘であることに気付くはずもありません。庭園内には田舎屋、茶屋、待合の3軒があり味わいの違った見所を教えてくれます。
旧齋藤家別邸
大滝はこの庭園の最大の見所です。幻の名石と言われる阿賀野川上流の「海老ヶ折石」がふんだんに積み上げられています。砂漠から湧き出るオアシスとでも言うべきでしょうか。
旧齋藤家別邸
年代不詳の銅版「新潟堀田桜真景」によると旧齋藤家別邸になる前から滝と谷間は存在していた様です。建物自体は違えども地形やその利用法は今と同様です。
旧齋藤家別邸
高低差7.2mの砂丘の頂上付近に立ち下を眺めれば2階建ての堅牢な主屋が風景に溶け込んでいます。「庭屋一如(ていおくいちにょ)」―庭園と建物が一体というコンセプトで設計されています。
旧齋藤家別邸 茶屋
最上部には茶屋がひっそりと佇んでいます。昼間だというのに薄暗く撮影に苦労するほどでした。三脚を持っていれば全体的に良い絵が撮れたのでしょう。ただ、雰囲気は伝えられると思います。
旧齋藤家別邸
茶庭に入るといきなり目に飛び込んでくる奇妙なオブジェがありました。よく見ると松の根を人工物で補強している様です。茶庭では風で根がむき出しになった「根上がりの松」を見る事ができます。

見上げると「根上がり松」は遥か頭上で心地よく太陽の日を浴びていました。
旧齋藤家別邸 縁先蹲踞
回遊を終えて再び砂丘下に戻りました。主庭の低地部分を散策することにしました。庭の端に上品な縁先蹲踞(えんさきつくばい)があります。庭にある一つ一つの置物に庭師のこだわりが感じられます。
旧齋藤家別邸
池を眺めるだけ癒されます。何時間でものんびりできそうです。庭は季節により色を変えるのでしょう。モミジが紅くなる頃には別の表情を見せてくれるでしょう。
旧齋藤家別邸 佐渡石臼
主家の前に敷かれた芝生で気になった事がありました。普通の飛石に交り円い物があります。四角い飛石が並ぶ中でタイミングよく組み入れられています。

円形である事は同じですが模様が違います。最初は財閥だけあって「銭」に見立てたデザインかと思いました。

園内で販売されている「新潟市旧齋藤家別邸(500円)」には「佐渡石臼」と書かれています。佐渡の金銀山から運ばれた石臼が本来の目的とは違う飛石として使われています。

実に面白い!

庭師は石にこだわりがあった様です。佐渡石臼以外に全国から集められた6種類の石(海老ヶ折石、筑波石、伊予青石、鞍馬石、滝石、佐渡赤玉石)を要所毎に巧みに使い分けられています。

本来は石臼ですが賓客と「銭にも見えるね。ははは…。」なんて会話をしてたかもしれません。

総合芸術とも言える旧齋藤家別邸の池泉回遊式庭園です。同時に冗談と言うか落ちと言うか江戸っ子の粋な部分が埋め込まれた庭でもある様に思えました。

ほいじゃ

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庭と建物が織りなす総合芸術(前編) 旧齋藤家別邸 『新潟の町 微 地形散歩』⑩

入場料300円の贅沢です。建物と庭が一体となった芸術作品の如き造園です。新潟市中央区東大畑にある旧齋藤家別邸は町寄り砂丘を利用した池泉回遊式庭園です。

こんな家に住めたらという願望を住んだ気持ちで味わえる場所です。
旧齋藤家別邸(新潟市)
私邸だった建物を市民の懇願から公有物とし一般公開されました。門をくぐると小ぢんまりとした庭があります。こぼれ日が陰影を作り出す芸術作品です。
旧齋藤家別邸(新潟市)
一階大広間は十畳の部屋が二部屋あります。襖を外すと非日常的な広々とした空間に変貌します。設計段階から風通しが考えれ心地良い空気の流れがある造りです。
旧齋藤家別邸(新潟市)
前面に日本庭園があります。江戸時代の築山を用いた池泉回遊式庭園の様に見えます。実際は築山を行わず砂丘の勾配を巧みに利用しています。庭師の技が光る総合芸術です。
旧齋藤家別邸(新潟市)
齋藤家とは江戸時代末期から明治・大正・昭和初期にかけて海運業、金融業、化学工業で成長した新潟三大財閥のひとつです。戦後は農地改革や相続税制で多くの財を失いました。

※新潟三大財閥:
【新潟市史】によると齋藤家、鍵冨家、新潟白勢家
【新潟開港百年史】によると山三(齋藤家)、鍵三(鍵冨家)、田三(田代家)
旧齋藤家別邸(新潟市)
私が一番気に入った部屋は一階西の間です。他の部屋より8畳と12畳の部屋が連なっています。他の部屋よりも一段高くなっており格式の高い部屋になっています。

南と北に縁側があり中庭と庭園という別々の表情の庭を楽しむ事ができます。
旧齋藤家別邸(新潟市)
旧齋藤家別邸という名前通り齋藤家が別荘や迎賓館として使われていた建物です。土地と建築物の簡単に歴史を紐解いてみましょう。

砂丘でできた新潟市中央区の中では古町地区と呼ばれる古い土地です。

<土地の歴史>
①江戸時代初期は(旧)新潟町の湊町
(海岸線が変わりその後に町が移転)
②宝暦年間(1751~64年)に飛砂対策にクロマツを植える
③嘉永4年(1851年)に幕府の四番御林となる
④防風林のおかげで周辺に畑ができ大畑という地名になる
⑤19世紀半ばに周辺に牢獄や軍営所が置かれる
⑥水路や道が通され宅地化していく

街にある異次元空間「深山幽谷の回遊式庭園」の原点が見えました。次は建物です。
行形亭(新潟市)
【隣にある行形亭(いきなりや)】

<建物の歴史>
①行形亭(いきなりや) 元禄年間(1688~1704)に創業
 「越後土産」として「松原 行形や」と書かれてた(1864年)
②堀田桜 行形亭(いきなりや)の隣に明治10年(1877年)開業
 ここが現在の旧齋藤家別邸にあたる
③島清館 料理屋・島清館が堀田桜を買収し移転
 明治26年(1893年)の火災で被災したため
④嶋村医院 大正12年(1912年)元軍医の嶋村信司が島清館後に移転
 庭には療養室が点在したと言われている
⑤旧齋藤家別邸 大正5年(1916年) 齋藤家が別邸を作り始める
 昭和20年(1945年)にGHQに接収され司令官公邸として使用される
⑥加賀田家住居 昭和28年(1953年)に加賀田組が買い取る
 加賀田家は平成17年(2005年)まで三代に渡り居住した。
⑦2005年に加賀田家の手から離れる
 「旧齋藤家夏の別邸の保存を願う市民の会」が立ち上がる。
⑧平成21年(2009年)公有化

古い建物が公的に保存されるまでに多くの幸運と多くの人々の力が必要です。日本の行政が欧州の様に積極的に歴史的、文化的遺産を保護する動きを取れる様に変わって欲しいものです。

旧齋藤家の様な建物が全国で失われないように!

文化は我々のルーツであり心です。心は失いたくありません。

次は庭に出ます…ほいじゃ

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街歩きと土木建築 視点の持ち方 『新潟の町 微 地形散歩』⑨

街歩きの醍醐味の一つが土木建築です。建築物そのものの面白味みと土地利用に伴う工事に目を向けると面白味が広がります。

大ヒット街歩き番組「ブラタモリ(NHK)」は日本土木学会から熱い視線を注がれていました。

『新潟の町 微 地形散歩』の一行が立ち止まり写真を撮り始めた建物がありました。主催者としては想定外の反応だった様です。
東大畑コーポラス
10階建てのマンション「東大畑コーポラス」です。築47年!築年月は1967年5月と見た目にも古いデザインです。何しろ最上階まで伸びる螺旋階段が魅力的です。

非常階段なのでしょうが、現代ならセキュリティ問題になりそうな設計です。
新潟カトリック教会
「東大畑コーポラス」の斜め向かいにはツインタワーの「カトリック新潟教会」があります。1927年(昭和2年)に完成して1996年(平成8年)に大改修されました。

「100年後にも残る祈りの場」となる様に69年振りの大改修だったそうです。
新潟カトリック教会
「カトリック新潟教会」は1964年(昭和39年)の新潟地震で地盤沈下しました。標高を調べるてと0.8mの所に建てられています。軽度な液状化現象でしょうか?

この辺りは江戸時代初期まで潟、あるいは水辺の際だった可能性があります。しかし、液状化がひどかった河畔からは1.2㎞程度という距離が倒壊を免れた要因なのかもしれません。

ちなみに「東大畑コーポラス」の標高0m以下です。新潟地震の後に建てられました。

近くの建物で地盤沈下があった低地帯に10階建てを建てるという事は基礎工事に自信があったのでしょう。土木建築は素人ですが興味は増すばかりです。
新潟ツアーSec3
新潟市の町寄り砂丘をモナコグランプリの様にクネクネと曲がりながらここまで来ました。ここからはコーナーも少なく直線が多い行程となります。

実際に歩いている時は方向感覚を失ったままでした。
御林稲荷社(新潟市)
ここに来る前に訪れた御林稲荷社(太平神社)の鳥居が見えました。改めて違う角度から見ると神社が砂丘の際にある事が分かります。
新潟大神宮(新潟市)
次に現れた新潟大神宮も同様です。鳥居から緩やかな坂が続き奥に行く程に勾配がきつくなります。やはり、建築や地形は様々な角度から眺めるものです。

四方八方、上下左右から視点に時間軸(土地の歴史)も加味してみると全体像が見えてきます。

視点の持ち方は建築、土木だけに限ったことでないでしょう。日々の生活、仕事、対人でも同様だと思います。様々な角度から見れば正しく理解できる確立が上がります

日々私たちは思い込みの中で生活をしています。感情で事実を捻じ曲げている事もあります。

街歩きは様々な教訓を与えてくれます。

つづく…ほいじゃ

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知らない町の日常 『新潟の町 微 地形散歩』⑧

「風情がある。」こんな言葉がこぼれる場所でした。Weblio用語解説によると「何ともいえない趣があるさま。名状しがたい味わいがある様子。」という意味です。

町寄り砂丘の一角を撮影した写真を並べると言葉は余りいらないと感じました。
新潟市 新潟神宮横の階段
新潟大神宮の横に細い路地へ入る階段があります。斜めに差し込む日の光を浴びた階段と路地から「知らない町の日常」という言葉がこぼれ落ちました。
新潟市 西大畑町の路地
『新潟の町 微 地形散歩』の参加者は細い路地を一列に連なって進みます。多くの参加者にとって非日常的空間です。街歩きの楽しさに足取りは軽く感じられます。
御林稲荷神社(新潟市)
静かに佇(たたず)む御林稲荷社があります。鳥居にそう書かれていますが正式名は太平神社の様です。1851年創建説と江戸時代から存在した説があるお稲荷さんです。
御林稲荷神社(新潟市)
閑静な神社に出会うと子供の頃の記憶が蘇ります。三鷹市牟礼の高台にある神社によく友達と遊びに行ったものです。人気がないので自由に遊びました。
新潟市 新潟神宮横の階段
神社の通りから外れると不自然に曲がりくねった路地があります。素敵です。知らない土地なのにどこか懐かしさを感じています。緩やかな坂道だということも何かを訴えかけます。

知らない町の小さな階段が経験したことのない日常を私に想像させます。

大きな地図で見る

つづく…ほいじゃ

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浜寄り砂丘から町寄り砂丘へ 『新潟の町 微 地形散歩』⑦

方向感覚を失う体験が好きです。むしろ積極的にやっています。元々方向感覚が良かった私なのですが今では無頓着になり過ぎたくらいです。

ある日、都内でわざと知らない道へ選んで通ることにしました。当然、地図なしです。

泣きそうになりました。都内なんだからどこかの駅に出ると安易に考えていました。しかし、歩けば歩くほど知らない地名と出会い、足が棒になっても駅に着きません。

辛い思いをしたのに気ままな歩き方が好きになりました。
新潟ツアーSec3
『新潟の町 微 地形散歩』は路地をこよなく愛する路地連新潟が主催しているだけあり方向感覚を失うな様な路地を突き進んで行きます。

上の写真は「RunKeeper」というアプリで取ったGPSデータです。

精度は低い点は割り引いても蛇行具合が分かります。実際に歩いている時は訪れた建物の位置関係が全く分かりませんでした。
安吾 風の館(新潟市) 
町の中に閑静な空間が現れました。緑に包まれた上品な庭です。「いいな」と思い眺めていると先の方に看板がある事に気付きました。

「安吾 風の館」

新潟市西大畑町出身の無頼派の作家「坂口安吾(1906~1955)の遺品・所蔵資料8千点の調査と展示を行っている場所です。中には入りませんでした。
安吾 風の館(新潟市) 
上品な和風建築は現存する最古の市長公舎といえる建物の和室部分です。1922年(大正11年)、街を見下ろせる巨松の林に建てられたものです。

「偉い人は高台に」という法則は古今東西変わらぬものです。
新潟市住宅街の路地
まさに路地連新潟の真骨頂!一行は長い列になり細い路地へと進ん行きました。両側に家々が迫って来ます。生活感が漂う地元ならではの道です。

この場所は「浜寄り砂丘」と「町寄り砂丘」が分岐するポイントです。
町寄り砂丘、浜寄り砂丘(新潟市)
浜寄り砂丘から町寄り砂丘(新潟市)

今回は地形と街(町)に重きを東京スリバチ学会も主催の一角です。そんな事情からか路地は目的地でなく辿り着く為の手段になっていました。

路地を選んで目的地に到達するルートはハウスブレンドコーヒーの様な味のある演出です。
新潟神宮
新潟大神宮に到着しました。「新潟にも神宮があるのか」というのが東京人の印象でした。神宮は大化の改新からから江戸時代まで全国で3社(伊勢、香取、鹿島)しかありませんでした。

今は全国に神宮があります。なぜ?

<Wikipediaの内容を要約>
明治以降、終戦までは「神宮」名乗るために勅許を必要とした。戦後は勅許が不要となる。天皇、皇室の祖先神や大和平定に功績のある特定の神を祭神とする神社が神宮に改称した。

新潟神宮についてはどうなんでしょう?

<http://www.niigata-u.comの記述を要約>
①明治5年(1872)の教部省通達
②全国に神宮教会,神宮分教会が組織
 新潟市(東大畑)に神道事務分局(中教院)が開設
③教院地方本部(本町通)、東大畑の施設を吸収
④教院地方本部(本町通)が火災で焼失
⑤現在地(西大畑)に再建(明治22年)
新潟神宮 横の切り通し道路
新潟大神宮の横には町寄り砂丘を切り通して道が作られています。

人の運転だと道を覚えないという定説があります。道を歩いていても同じです。「あっち、こっち」と着いて行くの必至で地図を頭の中に浮べる余裕がありません。

GPSは便利です。この複雑なルートが地図上ですぐに分かりました。
新潟ツアーSec3
この後は町寄り砂丘の上をさらに複雑なルートで辿る事になります。

つづく…ほいじゃ

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無名?超極細、急勾配階段 『新潟の町 微 地形散歩』⑥

人生をより良く生きるために大切な事を追求しています。今の時点で辿り着いた仮説は次の7点です。街歩きのフィールドワークに参加する様になり新しい出会いが増えました。

・最終ビジョンを持つ(死ぬ時にどうなっていたいか)
・5S~整理・整頓・清掃・清潔・しつけ(対象:人・物・金・情報+心)
・実際に五感で経験する(活き学問)
・疑問に思った事を自ら調べる、日々学び続ける
・見える化(コミュニケーション)
・再発防止対策(事象、原因追究、暫定処置、恒久対策)
・新しい出会い(新しい風を呼び込む)

有難い事です。それに伴い新しい風が私に吹き込んでいます。自分ひとりでは絶対にできない多くの体験をしています。
福一稲荷神社へ(新潟市)
「こんな所を通っていいの?」…普段の私ならな入って行かない場所です。砂丘の際(きわ)の気になる階段なのですが私有地だったらどうしようと考えてしまいます。

フィールドワークの主催者が「路地連新潟」だけあって「え!」と思える道に入って行きます。
福一稲荷神社の鳥居(新潟市)
遠慮するとは言いつつもこういう所は大好きです。ドキドキしながらもどこへ続くのかワクワクします。超極細、急勾配の階段を下って行くと鳥居が見えました!

神社の裏参道の様です。福一稲荷神社の横っ腹に出ました。
福一稲荷神社
さらに進むと別の神社が見えて来ました。諏訪神社です。どちらも小ぢんまりとした神社でネットで検索してもすんなり由緒が分かりません。

こういう近所の人しか知らない様な場所が妙に魅力的です。ただ、それ以上の雰囲気を感じます。
諏訪神社(新潟市)
昔、この辺りはどんな所だったのだろう?疑問に思い古地図や手元の文献で調べてみました。結論から言うと明確な答えに辿り着きませんでした。

しかし、ここが古い砂丘の際(きわ)という事を考えると次の仮説が浮かびます。
・古新潟町の際?
・水辺、その後できた潟(かた)の際?
・時代が経ち砂の空き地と砂丘の際?
・古い寄居村の際?
諏訪神社
後になって分かったのですが村社・諏訪神社は創建年が不明ですが江戸時代初期にはすでに鎮座していました。寄居村の鎮守だったそうです。

福一稲荷神社は明治41年(1908年)に諏訪神社に合祀されたそうです。

推理の一部と直観は正解だった様です。街歩きをしていて古い神社や寺は土地の記憶を刻むのランドマークです。ここを基点に調べると色々と分かって来ます。

素人推理はこの辺りにしておきます。

冒頭の新しい出会いが新たな風を運び込む話ですが、仏教の考え方で説明できます。「因果」と「縁」という3つの要素で考えてみます。

因:新しい入口に飛び込めば今迄にない結果が期待できます。
縁:新しいアプローチにより心の働きも変わり、おのずと結果に影響します。
果:今迄にない結果から新しい風が入り込み道が開けます。

人は人とのつながりの中で新たな境地へと進むことができるのかもしれません。自分自身の中で生成されない選択肢を目の前にすることで自分自身の可能性も広がるのでしょう。

超極細で急勾配な階段坂は私の人生に刺激をくれました。

この階段は名前はあるのかな?

つづく…ほいじゃ

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BON!?ファンキーでワイルドな建物の正体 『新潟の町 微 地形散歩』⑤

「あれ!何かを忘れている。」

『新潟の町 微 地形散歩』で辿った場所を綴りながら妙な違和感を覚えました。「しょうこん坂」と「ドッペリ坂」の間にショッキングな何かがあったはずだ…写真を見返しました。
BON 赤ひょうたん
これです。奇妙というか不可思議な入口です。派手なペイントに手作り感万歳の出で立ちです。奥は暗く、生憎、閉まっていたので何なのか見た目では分かりませんでした。

側面を見ると展開した一斗缶が壁として貼り付けてありました。
BON 赤ひょうたん
ワイルドと言うよりファンキーです。「これは明らかにしないと!」ネットで検索してもすぐに分からない覚悟でENTERを押しました。

あっさり過ぎました。食べログに出ています。

BON赤ひょうたん (ボンアカヒョウタン)
洋食、定食・食堂
営業日:月~金曜日
定休日:土曜・日曜
営業時間:11:30~12:45、17:00~19:30
BON 赤ひょうたん
通りがかった日は定休日でした。どんな料理を出す店なのかメニューを見るとシンプルでボリューム感のある料理が並んでいます。ワイルドな感じです。

実際の雰囲気は?食べログのコメント題名を並べると一つのイメージが浮かびました。
BON 赤ひょうたん
「マスターの人柄が出ている、とても清々しいお店。」
「人生こだわりでしょ!」
「迫力のボリューム!!」
「体育会系の胃袋を満たすだけではもったい無い!」
「ランチは売り切れ必至」

店の出で立ちの様にマスターもメニューも個性的なお店の様です。平日に来るチャンスは訪れ事があればあれば一度立ち寄ってみたいものです。

つづく…ほいじゃ

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ドッペリ坂!?のお話し 『新潟の町 微 地形散歩』④

ドッペリ坂!?奇妙な名前です。直感的推理が働きました。ドンペリ(ドン・ペリニヨン)?酒?この直観は正解でないけれど近い答えでした。ドイツ語のドッペルゲンガー?

ドッペルゲンガー(独: Doppelgänger)Wikipediaより参照
1、自分とそっくりの姿をした分身。
2、同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象。
3、自分がもうひとりの自分を見る現象。自己像幻視。

これも意外と近い答えでした。新潟市にある浜寄り砂丘にできた街と低地帯を結ぶ階段坂です。
新潟市ドッペり坂
坂上には新潟大学があります。昔は旧制新潟高等学校でした。寮に住む学生にとってここが一種の境界線でした。飲み屋街のある古町へと続く道です。

まさに誘惑の不夜城と現実の世界のボーダーラインです。
新潟市飲み屋街
ドッベリとはドイツ語のドッペルン(doppeln)の事で英語のダブル(double)です。重複する、つまり「ダブる」、「落第する」という意味です。

誘惑に負けて犠牲者となった人の自虐か自らへの戒めか?

落第した人を見た学生が呼んだのか?それとも先生が呼んだのか?興味は尽きません。学生が面白半分に呼んでいた所、先生が都合良く利用したのかも知れません。
ドッペリ坂(新潟市)
この階段は59段です。これにも意味があります。単位取得に必要な60点に1点足りない得点、すなわち落第点という意味です。後付けぽい気もします。

階段を作る人が落第の坂だから59点、階段も59段にしようなんて設計する姿が想像できません。
ドッペリ坂(新潟市)
地形的にこの場所は砂丘と平地の際(きわ)です。100年以上前は冬に砂が飛ばされて来る街はずれの空き地でした。に外国人が来て教会を建てました。

そして、井戸を掘ると水止まらずに大きな池になったそうです。
ドッペリ坂(新潟市)
「ちょっと待てよ!?」これはある種の事故ではないのか?人が住んでいないから大事に至らなかっただけでは?この池は異人池と呼ばれる様になったそうな。

このお話は坂下の「ある池のものがたり」という案内板に書かれています。ちなみに異人池は市民の憩いの場となり冬にはスケート場だったそうです。
ドッペリ坂(新潟市)
今は池の面影もなく立派な道路が通る市街地です。50年程前に湧水が出なくなり。池は徐々に小さくなり無くなってしまったそうです。

どこにあったのかよく分かっていないそうです。

地名は東大畑と西大畑です。地名からは推測もできません。異人池の記憶は案内板、レアな書籍、そして一部の人が有するだけです。

百年後の認知度が気になります。時代が経つと土地も人も変わってしまいますからね。ちなみに冒頭で書いたドッペリ坂の直感的推理を採点してみましょう。

ドンペリ=酒場に通う事による落第と酒という共通点あり
=25点

ドッペルゲンガ―⇒同じ人が同じ学年に次の年も見えるという事で
=25点

ドイツ語もじった坂名=ドイツ語のドッペルと関連性を見付けた。
=10点!?

合計60点、合格です。ギリギリ進級です!

自分に甘過ぎですかね?

つづく…ほいじゃ

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砂の上にも・土地の記憶「しょうこん坂」 『新潟の町 微 地形散歩』③

砂も積もれば立派な台地になるの?「砂上の楼閣」という言葉があります。見かけは立派であるが基礎が甘く長続きしないと言う意味です。

違う?

砂上にできた街などもっと不安定になります。しかし、実際はこの常識は少し違う様です。
招魂社跡(新潟市)
実際に歩いているとここが砂の台地だとは思えません。招魂社跡に立ち新潟市市街地を眺めました。全国の素敵な町にありそうな高台です。

砂丘の崖!?と言いたい風景です。普通に考えたら砂丘に崖などあるはずもありません。
招魂社跡(新潟市)
新潟市の歴史は砂との格闘です。信濃川と阿賀野川が運ぶ砂が押し戻されて砂州ができ風で押し戻されて砂丘が形成されてました。

戦国時代に現在も標高の高い砂丘部分は陸地でした。しかし、低い土地は信濃川の下流域でした。
招魂社跡(新潟市)
ここは招魂社跡です。招魂社とは明治元年(1986年)に戊辰戦争で戦死した新政府側の人を英霊として奉るために造られました。東京の靖国神社は明治時代に招魂社と呼ばれていました。

この場所が跡になった訳は1941年に新潟県護国神社と改称され1945年に移転されたためです。
しょうこん坂(新潟市中央区)
ここが招魂社だった事が後世に残されるでしょう。横にある坂の名が「しょうこん坂」だからです。階段の坂です。緩やかな勾配は砂丘の傾斜を思わせます。

周辺にある絶壁は土木工事による賜物だと分かります。
しょうこん坂(新潟市中央区)
新潟県と言えば地震という強いイメージがあります。新潟地震の話は子供の頃に聞いていました。近年は特に大きな地震が続いています。

1964年6月16日 新潟地震(M7.5、深さ34㎞)
2004年10月23日 新潟県中越地震(M6.8、深さ13㎞) 直下型
2007年7月16日 中越沖地震(M6.8、深さ17㎞)
2011年3月12日 長野県北部地震(M6.7、深さ8㎞)
しょうこん坂(新潟市中央区)
2004年の中越地震の話を聞きました。低い土地では液状化による被害が出ていました。不思議なことに古く高い砂丘の町では被害が少なかったそうです。

「そんなに酷かったの?」と言う人もいたそうです。

私は古い砂丘の上を歩き思いました。今でも砂との戦いは終わっていません。後でまた話に出て来きます。しかし、古い砂丘は想像する以上に頑丈です。

砂も長きに積もれば石となる?
砂の上にも何百年?

「塵も積もれば山となる」、「石の上にも三年」を足した様な場所に感じました。

つづく…ほいじゃ

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海岸線近くなると坂がある街! 『新潟の町 微 地形散歩』②

思い込みが覆された気持ちです。山があって段々と低くなり海になるという固定概念が壊れました。新潟市の地形はそうではありません。

信濃川と阿賀野川が運ぶ砂によって作られた土地です。

海に行くほど積み上げられた砂の山は高くなっています。海に向かうと坂がある地形です。
『新潟の町 微 地形散歩』DAY1
路地連新潟、北書店、東京スリバチ学会がコラボして『新潟の町 微 地形散歩』が2013年9月28日と29日で開催されました。異色のコラボです。

1日目は医学町の北書店から新日和山までの道程を砂丘の際(きわ)に沿って歩きました。
『新潟の町 微 地形散歩』DAY1
北書店をスタートしてすぐに坂です。標高は坂下で約1m、坂上で12mです。名前は?調べても分からないので医学坂と呼びます。新潟大学医学部の横の坂です。

標高と色分け
緑系:3~12m
赤系:15~27m
新潟市 医学坂?
古新潟町があった台地だと言われています。砂だって何百年も形を変化せずにそこにあれば台地と呼んでもいいでしょう。しかも地震に強いとあれば。

砂漠の古い砂丘はあまり形が変わらずに目印になると言います。
新潟大学医学部工事中
坂を登る途中で左側に工事フェンスが続くことが気になりました・手を伸ばし撮影!新潟大学医歯学総合病院の敷地で何やら工事をしている様です。

せっかくの勾配が削られるな…。え!?これは盗撮?街の記憶としての撮影なのでご勘弁を!
新津記念館
右側には異色の空間が現れました。和洋折衷という言葉の度を超えた組合せです。チャンポンです。新津記念館と言います。入りませんでしたが調べました。

新潟県出身の石油王・ 新津恒吉が1938年(昭和13年)に迎賓館として西洋館を建てました。

迎賓館
1階:「イギリスの間」
2階:「フランスの間」と「日本間」
3階:「ドイツの間(非公開)」
和館(非公開):庭園は公開

2年後に石油問題から太平洋戦争が勃発したきな臭い頃です。今よりも外国が意識された国際的な時代だったのかもしれません。
ヒポクラテスの木 新潟大学医学部
一行は新潟大学医歯学総合病院の中へと進みました。街歩きで病院の敷地に入るのは初めてです。「ヒポクラテスの木」の前で止まり高く育った木を見上げました。

案内役を務めてくださった路地連新潟の野内さんの説明を聞きました。
ヒポクラテスの木 新潟大学医学部
昭和44年に蒲原宏博士はコス島でヒポクラテスの木の球状果を入手しました。検疫を避けるため下着の中に入れて持ち帰ったそうです。

まさに聖なる木…。

それにしてもヒポクラテスって誰?後でもう一度調べてみました。

ヒポクラテス(BC460年頃~BC377年頃)
肩書:古代ギリシアの医者
出身:エーゲ海、イオニア地方南端のコス島
歴史的業績:『ヒポクラテス集典』
名言:人生は短く、術のみちは長い

世界中で広く「医学の父」と呼ばれる人物です。出身地のコス島にはヒポクラテスが医学を講じた場所として伝えられる木が残っています。

ヒポクラテスの木の種類はスズカケノキ(和名)、プラタナス(学名)です。

各国の医学部に植えられているそうです。正式に植樹されたものもあるのですが、「蒲原株」に関してはこっそり持ってきた様です。

調べると他に篠田株(日本初)、緒方株、日赤株(小林株)、日本・ギリシャ協会株、武田株、大田総合病院株、冨樫株があり全国で230本ほど植えらている様です。

一行はまた歩き出しました。

別の場所でも工事が行われいたため、コースを諦め引き返す事になりました。街歩きらしいアクシデントです。街は諸行無常です!

さらに次の目的地へ。

つづく…ほいじゃ

砂丘の街・新潟市 『新潟の町 微 地形散歩』①

この地域では「津波が来たら海に逃げろ!」というのが常識です。新潟市中央区の海沿いです。地図を見れば一目瞭然です。

海岸線沿いに高台があります。
新潟市中央区
不思議な地形です。そもそも、新潟県の平野部は真っ平というイメージでした。実際に行ってみると坂や階段があり海に向かってどんどん高くなって行きます。

標高と色分け
緑系:3~12m
赤系:15~27m
新潟市中央区
路地連新潟、北書店、東京スリバチ学会の主催で行われた『新潟の町 微 地形散歩』に参加しました。新潟は2年間過ごした縁のある土地なので当然行く事にしました。

1日目:トークイベント「東京スリバチ学会・皆川典久会長」
    まちあるき 砂丘をキワめる坂道めぐり
2日目:新潟市歴史博物館 みなとぴあ見学
    まちあるき 砂丘を登ろう!日和山登山
新潟市中央区
そもそも、新潟の海岸線に坂があるという概念はありませんでした。帰ってからよくよく考えると昔にバイトをしていた海岸線沿いのゴルフ場には起伏がありました。

海岸線に起伏できる理由は砂の堆積です。

新潟市の場合は信濃川と阿賀野川という大きな川によって砂が運ばれて来ます。その砂が体積して島ができ陸地となります。また新潟という地名から読み解けます。

潟【かた】(Weblioより参照)
(1)砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼。狭い水路で海に通ずるものもある。潟湖(せきこ)。
(2)遠浅の海で、潮の干満によって陸地が現れたり水面下に隠れたりする所。干潟(ひがた)。

砂が体積する過程でできた新しい潟、その場所を新潟と呼びました。新潟平野は専門用語で沖積平野(ちゅうせきへいや)です。
新潟市中央区 一番掘通り 北書店前
東京スリバチ学会会長の新ネタを含めたユーモラスなトークを楽しんだ後、砂丘へと街歩きが開始されました。出発地点となった北書店は一番掘通り沿いです。

「字白山掘」が埋められてできた通りです。
新潟市中央区 新潟大学医学部横の坂
出発するといきなり坂が待っていました。坂好きにはたまりません。砂丘の坂というのも違ったテーストです。ちなみに新潟市中央区の砂丘は「浜寄り砂丘」と言います。

新たな新潟を発見できる期待感と共に歩き始めました。

つづく…ほいじゃ

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ユーモアは世界を救う? 華麗なる本棚 三省堂神保町本店(東京)

ユーモアは世界を救う!?人々の間を円滑にさせてくれる潤滑油の様なものです。あまり無神経だと笑えないジョークもあります。時に苦笑いするようなジョークもあります。

先日、感心させられるジョークに触れました。
カレーなる本棚
神保町の三省堂をぶらぶらしていると妙な本棚が目に飛び込みました。カレーなる本棚?先日亡くなった山崎豊子さんの「華麗なる一族」と掛けたのでしょう。

ここは元江戸だから駄洒落もありあり。

苦笑いしながらまさかと思い手に取ると本物のレトルトカレーでした。サイズが本と変わらないので本棚に立てられます。本ならば作家名が書かれている敷居の型紙に県名が書かれています。。
カレーなる本棚
私が感心したのはこのダジャレを本気でやってしまう社風、そして考えて実行した人の発想力と勇気です!素晴らしいの一言です。

しかし、詳細を見て行くと穴も見付けました。

収集がまだ不十分です。私の知っている各地のレトルトカレーがいくつか抜けています。例えば岩国の名産レンコン入りの岩国海軍飛行艇カレーはありませんでした。

私の願望…激励の意味も込めて、やるなら徹底的にやって欲しい!というものです。

全国のご当地レトルトカレーが本屋にすべてそろっているなんて強烈なインパクトです。「いいね」です。三省堂さんがんばってください!

ユーモアで世界を救ってあげてください。

ほいじゃ

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さようなら 64年の歴史 秋葉原ラジオセンター(東京都)

昭和という時代は少しずつ遠くなって行きます。街が姿を変えて行くのは定めなのでしょうか。秋葉原のラジオセンターが2013年11月30日をもって64年の歴史に幕を閉じます。

秋葉原が電気街として成長した歴史の一端を担った建造物です。
秋葉原ラジオセンター 思い出の昭和横丁
今はアニメやフィギュアの店が増殖する秋葉原ですが、つい10年前はコンピューター街でした。その前は家電街、もっと前はラジオの街でした。

迷路のような細い通路に小さな電器部品屋が連なるラジオセンターはディープな秋葉原の象徴でした。

大きな地図で見る
総武線の高架下にラジオセンターができたのは1949年のことでした。当時は戦後の混乱の中で焼野原だった秋葉原に露天が乱立していました。

GHQの占領政策により露店撤廃令が出され、山本長蔵という人物がラジオ関連の露天商の行き先として秋葉原駅周辺に建物を作りました。

当時の名残で今でも電気部品や無線機器を扱う店が軒を締めています。
秋葉原ラジオセンター 思い出の昭和横丁
64年という時の流れは人に例えるならば定年退職の時期とも言えます。この「思い出の昭和横丁」には昭和のラジオなど扱う店があり懐かしい気持ちにさせてくれます。

1949年 秋葉原ラジオセンター開店
1955年 火災により全焼
2005年 山本無線3号店が全焼し、両脇の店舗は半焼する

私もかつて利用した事があります。海外で電子機器が正常に使える様にトランスなどを買いました。
秋葉原ラジオセンター 思い出の昭和横丁
天井にむき出しの配管がレトロ感を掻き立てます。正直なところ「あ~あ、またひとつ消えるのか」という気持ちです。近年、秋葉原駅周辺で進んでいる再開発の流れです。

すでに残念に思う人々は多く存在しているのではないでしょうか。
秋葉原ラジオセンター 思い出の昭和横丁
時は移ろい人も街も変わって行きます。発展に関して否定的ではありませんが、私の中で何か変わって欲しくないという願望も同時に存在しています。

人が辿った歴史は貴重です。歴史をここに刻んで置きたいと思います。

外見が変わっても人の中に変わらない何かがあることも感じたい。

ほいじゃ

テーマ : 日帰りお出かけ
ジャンル : 旅行

車は文化だ! 第9回珍しい車の夏祭り 道の駅いたこ

書くという行為は難しいと日々感じています。ブログを初めて5年間、毎日欠かす事なくアップし続けています。書けば書くほど自分の糧になっていく感覚があります。

ただ、自己満足ではダメ!だと思っています。

書くと言う行為には大きく分けて2種類あると考えました。
①自分から自分への発信…日記、ブレインストーミング、…
②自分から他社への発信…小説、詩、ニュース、エッセイ、…

ブログというのはWEBログから生まれた言葉だと聞いています。ログです。ログとは日記的要素と記録的要素があると思います。

log (Weblioより参照)
1 丸太.
2【航海, 海語】 測程器 《航海中の船の速力を測る》.
3a【海・空】 航海[航空]日誌.

ログは記録的な意味合いが強い言葉です。記録とは言ってもブログは読み手がいるので何かを伝えなければなりません。
珍しい車の夏祭り(道の駅いたこ)
7月13日に道の駅いたこで開催された「第9回珍しい車の夏祭り」の案内板です。すでに3ヶ月が経過しています。今さら何を書こうか?

この3ヶ月間、撮影した写真を見ながらずっと悩んでいました。

撮影した全車をアップするのには量が多過ぎる…でも、何かは残したい。とりあえず、書き始めよう!
ランボルギーニ・ミウラ
ランボルギーニ・ミウラです。一目見たいというファンは多い車種です。ちょっとユーモラスなデザインと日本人の名字の様なネーミングが影響しているのかも?

個人的にはそれほど好きな車種ではありませんが、スーパーカー世代としては思い出の車には間違いありません。
ポルシェ カレラGT V10
もしも、買うお金があるなら…フェラーリが欲しいという人が世の中に多い印象を受けています。私はフェラーリというブランドイメージは好きです。

しかし、買うならポルシェだと思っています。

ポルシェカレラGT…会場の中でこの車が一番心に訴えて来ました。V10の上品かつパワフルなエンジン音が耳の奥まで刻まれました。やはり、銀のポルシェでしょう!
ランボルギーニ・ムルシエラゴ
次にグッと来た車はランボルギーニ・ムルシエラゴでした。名前は後になって知りました。この車はランボルギーニらしくない!この車は2001年から2010年まで製造されていた車です。

何だかパワフルで速そうです。好きなタイプです。

買うなら?フェラーリ?、ポルシェ?…ランボルギーニを忘れていました。私が忘れていただけで根強いファンがいるメーカーです。スーパー世代にはやはりカウンタックが一番です!
BMW502V8
ここで忘れてはいけないのがドイツ車です。メルセデス・ベンツ、BMW…高級車の象徴のようなブランドです。道の駅いたこにはBMW502V8という1954年車種が来ていました。

今とは全く違うデザインですがデザイン・コンセプトは好きです。買うならBMW?かベンツか?私は元々ベンツでした。今度はBMWに乗ってみたい!
ロータス51C 1969年
でも本当にドライブしてみたい車はモノコックのフォーミュラーカーです!夢です。1969年のロータス51Cが来ていました。

底辺のカテゴリ「フォーミュラー・フォード」のために造られたシャシーです。今とは違うデザインを間近で見れて感激です。乗れるなら運転したい!
ティレル 007 1977年日本GP 高橋国光  NO.50
お~この車は!1977年に富士スピードウェイでF1が行われた時に高橋国光がドライブしたティレルです。ゼッケン50番は予選22位、決勝9位でした。

中島悟がF1でレギュラーシートを獲得するまで様々な日本ドライバーがF1にスポット参戦していました。
F3000 キャビンレーシング1988 星野一義
やはり日本人レーサーのトップを走り続けた星野一義を忘れてはいけません!懐かしい車です。全日本F3000でキャビンレーシングで出走していた時の車です。

レース好きには星野一義という名前とCABINのロゴは印象に残っているでしょう。

ここまで来て私の中で2つのカテゴリが生まれました。

①所有したい車
 1位 ポルシェ カレラGT 最新のスパイダーならGreat!

②運転してみたい車
 1位 現代のフォーミュラーカーなら何でも、F3くらいかな(笑)

他の人の意見も聞いて見たいものです。個々に趣味嗜好が違うので個性が出る質問だと思います。

ここまで書いていて私は何を書いていたのでしょう。ただ、車とレースへの想いを書き連ねました。本来、ブログとはこんなもんでいいのでしょうか?

ただ、書いていて一つ気付かされた事があります。現代人の生活と車の存在は密接で切り離されないものです。車はステータス品や道具としての域を超えて文化になっています。

不倫だけじゃない。車は文化だ!

ほいじゃ

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土地は見かけずよらず!東綾瀬公園 古隅田川(東京都)③

一見すると釧路湿原を流れる湾曲した自然の川の様です。かつて、この低地に自然が成すがままに存在しただろう川筋を思い浮かべていました。

東京都足立区の東綾瀬公園です。でも、前回にブログにある様に綾瀬駅周辺はトリッキーです。要注意!
東綾瀬公園
古隅田川を辿って歩いていた私には東綾瀬公園が元の川筋だったと勘違いしていました。それもそのはず、古隅田川は湾曲した流路を繰り返す川で形状が似ているからです。
東綾瀬公園
こんな光景を見たらますます川が流れていたんだろうと想像を膨らまて仕舞います。川筋を利用した親水公園だろうと思い込んで仕舞います。

ただ、一つだけ違和感がありました。川跡だったなら「親水公園」とう名のはず…。
東綾瀬公園の今昔
違いました!様々な古地図や川の地図を見ていもそんな川はありません。土地の脈略を遡っていくと公園の湾曲は戦後の区画整理で造られたものです。

付け加えれば古隅田川の湾曲した流れは東綾瀬公園より南です。
東綾瀬公園
東綾瀬公園のホームページにはこう書かれていました。「綾瀬駅前から点在する広場を遊歩道がつなぎ、U字型の形になっているのが東綾瀬公園です。(参照)」

つまり、U字型の土地があった訳ではなく、つなぎ合わせた結果だということです。

綾瀬駅周辺は戦後しばらくまで水田地帯でした。高度成長期に区画整理が行われ昔の面影は古隅田川の川筋など一部を除き残っていません。
東綾瀬公園のカルガモ
次にこの水はどこから来たのでしょうか?東綾瀬公園のホームページには「花畑川を水源とするかつての農業用水を活かした」と書かれています。

花畑川?

別名を花畑運河と呼び1930年(昭和5年)に開削された川です。東の中川から取水して西の綾瀬川に合流しています。東綾瀬公園から最短距離を結んで北に2.3㎞のところにあります。
足立区 用水路と掘 案内板
案内板にあった水路図を見ると東綾瀬公園に流れる水は先の案内板の通り花畑川から分流された中居掘の水を活かしています。「川の地図」と見比べてさらに検証しました。

検証結果
①案内板は行動成長期後の水路
②高度成長期以前は農業地帯だったので今より多くの水路が存在した
③中居掘は元々葛西用水の分流だった
 昭和5年に花畑川が掘削された頃も中居掘は葛西用水から取水していた
④葛西用水も高度成長期に花畑川から取水する様になった

東綾瀬公園の水が花畑川から取水されたのは高度成長期です。それ以前は今とは違う水路が多く存在した農業地帯でした。
東綾瀬公園
東綾瀬公園は古(いにしえ)の流れから発した公園と思いきや高度成長期の区画整理で誕生した公園でした。しかし、公園としては散歩にスポーツにイベントに最適化されています。

東綾瀬公園
開園:昭和41年
開園面積:15万9平方メートル(平成22年5月31日現在)
樹木数:低木: 15,400株、高木: 6,920本
施設:野球場、テニスコート、多目的広場、せせらぎ、武道館、温水プール
東綾瀬公園
「つなぎ合わせ」の公園だけあって大き目の道路を超える所には陸橋が作られています。円形だったり、橋の様だったり、高低差が著しいものだったり様々です。

この陸橋が分断化された土地をシームレスに楽しめる公園に変えています。

「人は見かけずよらず」と言いますが、土地も見かけによらずです。外見だけで安易に判断するのは危険です。そんな事を学ばせてくれた東綾瀬公園でした。

ほいじゃ

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綾を読め!綾瀬駅南口 古隅田川(東京都)②

「言葉の綾だよ」なんて時々聞きます。微妙な言葉の掛け違いで誤解が生じた時に聞く言葉です。土地にもあるんです、綾が。東京都の綾瀬駅南口はトリッキーな場所です。

地形と都市開発をかじっただけの人間が一見すると勘違いするかもしれません。
古隅田川 暗渠
不自然な直線的土地利用。暗渠では?と思いました。長い駐輪場を作ろうとしたのではなく、長い土地を利用する方法として駐輪場ができたと思いました。

暗渠 【あんきょ】とは (Kotobankより参照)
地下に埋設された,あるいは地表にあっても蓋(ふた)をした導水路。閉水路ともいい,排水,下水,用水などに利用される。
古隅田川 暗渠
水もないのに橋の欄干(らんかん)があります。そして、橋げたの跡が分かり易く残っています。私の暗渠チェックリストがまた一つ塗りつぶされました。

暗渠のチェックリスト
☑不自然に湾曲した道の連続、又は不自然に細長い土地の利用
☑川がないのに欄干(らんかん)や橋らしき痕跡が残っている

欄干の一方に「元隅田」、もう片方に「富士見橋」と刻まれています。
古隅田川 暗渠
次に現れたのが奇妙な三角地帯です。「道路の真ん中に三角形が欲しいよね~」なんて作るはずがないものです。そうせざるを得なかったはずです。

暗渠の確立80%以上…。
古隅田川 掛け替え
少し歩くとありました、水の流れです。暗渠だろうと思い確認のために調べました。暗渠だと思われた不自然な長い土地は古隅田川の流れでした。

そして、上の写真にある流れは川の掛け替えでできものでした。しかし!「あれ?暗渠じゃない!川跡なの!?」
綾瀬(東京)
案内板に書かれていた昔の流れとそこに書かれた文字を読むと一目瞭然でした。地図上の1,2,3,4の地点ははっきりと「区画整理で流路変更」と明記されていました。

古隅田川はここで掛け替えられ、元の流れは埋め立てられました。
古隅田川
「今昔マップ on the Web」で比較しました。元の流れは1944年から1954年までの地図にはあります。しかし、1965年から1968年の地図からは消えています。

高度成長期の駅前区画整理で失われた流れでした。
古隅田川 1944-1954年と現代
直感だけで判断していたら間違える所でした。綾瀬だけあって「綾」はきちんと読まなければなりません。上手い地名を付けたものです。

「綾瀬」

地名の由来は川の流れが綾の様に織りなす場所だった事です。
古隅田川 元隅田橋
古い流れと掛け替えられた流れの接点には「元隅田橋」が架かっていました。橋から元の流れの方向へ進むと親水路が整備されています。

そのまま歩いて行くと昨日のブログで書いた場所に出ます。
古隅田川 親水路
「言葉の綾」だけでなく「土地の綾」にも注意しなければならない!という事を学びました。時間軸の中に自然による変化と人による改変が織り込まれています。

物事の「綾」が正しく見る…大切です。

ほいじゃ

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マイナス標高と超微高低差を楽しむ 古隅田川(東京都)①

自然が描く曲線には人間の感性に訴えかける美の根源がありそうです。起伏が好きな私にとって平坦は魅力がないと思っていました。

東京都足立区の綾瀬で会った「古隅田川」には美がありました。

蛇行する流れが描く曲線です。勾配が垂直方向に存在する曲線なら蛇行する川は平面に描いた曲線です。自然が作った作品です。
古隅田川
電子国土ポータルの「標高がわかるWeb地図」で綾瀬の標高を調べるとほとんどマイナス表記されます。高低差はほとんどありません。

平坦と言っても高低差がゼロではありません。

水は平坦な土地に来きても低い所を探しながら流れて行きます。川が見付けた微低地こそが蛇行する川です。超微高低差が産んだ作品なのです。
古隅田川 綾瀬駅付近
綾瀬駅付近は足立区と葛飾区の区界があります。その線は奇妙に蛇行しています。綾瀬駅の北側を除いて古隅田川の流域が区境になっています。

川や山などの目印で境を決める事は一般的なのです。同時に古隅田川が古い時代から流れていた証拠でもあります。
古隅田川
(1)私が古隅田川に気付いた場所は標高-0.3mの住宅街でした。親水公園の様に整備された遊歩道がありました。上の写真は南側を、下の写真は北側を写しています。
古隅田川
古隅田川(東京都)
流路延長:5.45㎞
起点:中川から流入?(WEB記事によると)
支流:葛西用水
終点:綾瀬川に合流
古隅田川
後で調べると古隅田川親水路と呼ぶ様です。ザリガニが獲れる場所としても知られている様です。実際にその光景に遭遇しました。

見沼代親水公園(足立区北西部)でも同じ光景が見られます。老若男女問わずザリガニ釣りに必死になっている姿です。
古隅田川
水の中をじっくりと眺めているとザリガニだけではありません。カニもいます!見沼代親水公園にはカニはいないので幅広い生態系があるのかもしれません。
古隅田川
(2)少し進むと橋があり欄干(らんかん)には「境三橋」と書かれていました。古隅田川に最初に遭遇した場所には「境一橋」と書かれていた事を思い出しました。

境とは?大化の改新の頃から続く境です。武蔵国足立郡と下総国葛飾郡の境こそ古隅田川でした!

律令制の時代から境としての目印だった川です。今ではこんなに小さな流れですが歴史的には重要な場所でした。土地は見かけによらず。
古隅田川
(3)また少し進むと小さな公園がありました。道路の下をくぐり古隅田川はその先も親水公園化されています。この辺りは標高-0.1mです。

さらに先に進むと常磐線の下をくぐります。この辺りで標高-0.3mです。
古隅田川
標高差が0.1m単位で上下していますが、土地の改変などで生まれる差でしょう。誤差かもしれません。少なくとも川は高い所から低い所へ流れています。

それよりも標高が常にマイナスにある事の方が気になります。一度、大量の水が流れ込めば辺り一帯は進水して水が抜け辛いということです。

歴史上、荒川周辺の低地は川の流れが複雑に織りなす低地帯で度々洪水が起きた地域です。

不思議なことに洪水できるはずの自然堤防(微高地)がこの辺りにはありません。もう少し探検することになりました。

しかし、常磐線の高架を抜けると流れを見失いました。

つづく…ほいじゃ

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時間がなく妥協、芝丸山古墳へ 浜松町から東京タワーへ微登山⑥

東京タワーに行ったら次にどこに行か?微登山のノリなら愛宕神社へ行くべきでしょう。愛宕山は標高25.7mで東京タワーより高い所です。

残念!この日は約束があり時間ない…別の高い所へ行くことにしました。
zoujoujitoatagoyama
増上寺で高台と言えば芝丸山古墳です。地形的には愛宕山とは反対側にあります。増上寺の南側です。電子国土の地図によると一番高い所で標高22mあります。

上は10mメッシュで作った地形図です…未熟なため芝丸山古墳の高さが表現されていません。
芝丸山古墳
古墳の存在が認知されたのは1893年のことです。自然人類学者の坪井正五郎が調査をし埴輪や須恵器を発見しました。ちなみに全貌後円墳の後円部頂は江戸時代に壊されていました。

芝丸山古墳
港区芝公園4-8
前方後円墳 都指定史跡(1979年) 5世紀後半
全長:106m、前方部前端幅:約40m、後円部径:約64m(半壊)
くびれ部幅:約22m
※石室は見付かっていません。

大きな地図で見る
古墳の周辺には細い道が巡っています。適当に進むとザ・プリンスパークタワー東京の敷地を歩いていました。地図には道がありませんが急な階段が目の前に現れました!
芝丸山古墳
芝丸山古墳とホテルの境には柵が巡らされています。扉の所まで来て鍵が締まっていることに気付きました。下を見ると急な斜面になっていました。

この光景が見事!また、来たい!
芝丸山古墳
一旦、下りてからぐるっと回り頂上部まで行きました。辺りはうす暗くなっていました。暗闇になる前に下山でき登山の基本はどうにか守れました。

本当は愛宕山へ行きたかった。

愛宕神社の出世の階段をまた登りたいものです。絶対に紹介したい東京の一つですから!

おしまい…ほいじゃ

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足で海抜150mへ!行けたはず 浜松町から東京タワーへ微登山⑤

アメリカの大学で一般教養の宗教を履行した時に、仏教の究極は「void」と教わりました。VOID=無。煩悩に生き煩悩の欠片も満たせない私にはその時以来「無」が拠り所です。

私の友人にとって初めての東京タワーでした。

しかし、先日発生した大展望台(150m)から特別展望台(250m)を渡すエレベーターでワイヤー切れの事故が起き上がれませんでした。

自分だったら悔しがるところ、友人はあっさりと受けて止めていました。この人は「無」のなんなるかを知っているのかも?
東京タワーからの大の字
海抜150mからの景色も悪くはありません。個人的には赤羽橋の「大」の字が一番の見どころです。大の字の横棒は古川の上を通る首都高速都心環状線です。

横棒の上は元々三田用水が流れていた道筋です。

はらいの右側は江戸時代からある古い道、右側は増上寺内を通っていた私道でした。この「大」の字が生まれたのは1964年の東京五輪に伴う首都高速の工事でした。それ以前は文字と言えない道筋でした。
東京タワーから増上寺御霊屋
先ほど訪れた徳川将軍家霊廟(増上寺御霊屋)が上から見えます。宝塔は上手に木々に隠れるようになっている点に感心しました。

東京湾岸の大建造物、六本木方面のスリバチ地形も鳥瞰する事ができ東京を満喫できます。個人的には特別展望台から風景より楽しめます。
東京タワーの支柱に入っていた野球ボール
スターウォーズに登場するデススターの展示?これは東日本大震災後に曲がった最上部のアンテナを修理をした時に支柱の中からできて来た野球のボールです。

見付かった地点は東京タワーの塔頂部(地上306m)のところです。

「謎の軟式ボール」と呼ばれています。半世紀ぶりに日の光を浴びた計算になります。色々な説がありますが個人的には鳶職人の遊び心だと推理しています。
東京タワー大展望台1階の階段入口
特別展望台まで上がれませんでしたが1時間以上も大展望台でブラブラしていました。スタッフの方に「どこから降りれるのですか」と質問すると「×××」…周囲のノイズで返答が掻き消されました。

適当に「はい」と言うと誘導された場所は階段でした!
東京タワー階段
「聞いてね~階段で降りれるなんて!」

少し降りると531段と書かれた文字が目に飛び込ました。そして、下から登って来る人、人、人。「え、東京タワーって階段で登れるの?」

さらに下ると外に出ました。階段は続きます。
東京タワー階段
知っていれば確実に階段を選んだでしょう。公式ページには600段あり、土日祝日のオープンしています。もし、階段を選んだなら微登山どころではありませんでした。

浜松町駅から150mを登る本格登山!?です。
東京タワー階段
鉄骨を嗜みながら階段をぐるぐると下って行きました。東京タワーと言えば赤です。赤い鉄骨に包まれた景色に身を置けることに感動しました。

上下左右、360度、赤い鉄骨。

そんな夢の時間もあっと言う間に終わりフットタウンの屋上の出口に到着しました。出入口は回転ゲートになっていました。
東京タワー階段
次の機会を作り浜松町駅から海抜150mまで足で登るツアーを行います!今から興奮して来ました。フットタウンから見上げた東京タワーは印象深く心に残っています。

歴史好きとしては一つ気になる事があります。

東京タワーが無くなる日です。この世に永遠はなくいつかは無に帰するのでしょう。時間は人の営みを気にせず進んでいきます。

再建されるのか?
完全になくなるのはいつか?
その時の人類はどの様になっているのか?

地形も変化しているのでしょう。無くなる前に嗜み尽くさないと!

ほいじゃ

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ここぞ登山!芝公園19号地 浜松町から東京タワーへ微登山④

東京タワーが見えた!登山とは最後がきついものです。喜んでいると最後に急坂が待っています。谷を斜めに切り通した坂を登るのが一般的です。

しかし、横にそれると素晴らしい道があります。まさにここぞ微登山です。
東京タワー
東京タワーの東側にある芝公園19号地です。1984年に完成した「もみじ谷」があります。ついつい見落としがちですが東京タワーの横にある深山幽谷な公園です。

実は…帰りに気付きました。行きは猪の様に目的地に突進しまいがちです。
増上寺、東京タワー
「6」池の辺りの標高は8m程度
「7」の祠辺りは標高20m程度
「8」東京タワーの足元は標高22m程度
芝公園19号地 もみじ谷
「もみじ谷」には高さ10mの岩場から落下する滝とその水が流れる谷が作られています。水の流れは池にそそぎます。その水はどこに行くのだろうか?

また、ミステリーが生れました。そもそも水の出所は?やはり淀橋台の端から染み出る湧水なのでしょうか?
芝公園19号地 もみじ谷
東京タワーへ向かいます。池と祠は直線距離にして80mで12m程の勾配です。この一角を切り取ると150‰(パミール、1‰は1000mで1mの高低差)あります。

1㎞で150m登る計算になります。まさに微登山です。整備された登山道の様に蛇行する階段が設置されています。
芝公園19号地 もみじ谷
階段を登ると如意輪観音像が祀られています。東京タワー、芝公園、その周辺は江戸時代に増上寺の広大な敷地に含まれていました。

維新後の明治6年(1873)に日本初の公園の一つが増上寺の敷地に造られました。

25号まで区画を分け、19号「もみじ谷」の開発が完了したのが1984年です。せわしない東京にもゆったりとした時間が流れている場所もあるものです。

また、芝公園19号地には金運アップのスポット「蛇塚」もあるそうです。そして、今回は寄り道をしなかったためもみじ谷と滝も見ていません。

事前に調べてコースに入れておけば…。

でも、これが今、実験中のスタイルです。単純なロジックで道筋を決め、歩きながら方向性を定めて行きます。違和感を感じたり気になったら蛇行します。

一人で行くと時間が半分以上が寄り道するなるかもしれません。

単純なロジック=戦略
細かい方向性=戦術

史上、多くの大発見、大発明は失敗、ミス、一見関係ない所から生まれています。要領が悪いようですが意外性は新発見の可能性を秘めています。

帰りに気付く
帰ってから気付く

その様な事も多々あります。また、行けばいいじゃないか!何事にも余裕が必要という勝先生の教えを活かせる様に努力しています。

東京タワーに到着!

未到達だった友人は初めての体験になります。しかし、人生そう上手くいくものではありません。そして、またまた帰りに◯◯に気付きました!

つづく…ほいじゃ

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峠と谷を超えて 浜松町から東京タワーへ微登山③

ここが墓跡とは。東京タワーが美しく見えるスポットの一つ。増上寺の南側にある小高い丘の上に徳川秀忠公の霊廟「台徳院殿」がありました。
増上寺 南廟跡
德川将軍家霊廟跡地の活用
1945年 空襲で焼失跡
1953年 学術調査
1959年 芝ゴルフ練習場が開業(南廟)
1964年 東京プリンスホテルが開業(北廟)
2001年 芝ゴルフ練習場が閉鎖
2005年 ザ・プリンスパークタワー東京が開業

地図で「2」と書かれた南廟があった辺りは戦後、芝ゴルフ練習場できました。今は円形の遊歩道と芝生がある空間とザ・プリンスタワー東京になっています。
増上寺、東京タワー
「1」増上寺御霊屋(德川将軍家霊廟)を満喫した後に小高い所にある墓地を抜けて行きました。この辺りは標高にして14m半ほどです。増上寺大殿から一気に7mほど上がります。

浜松町から東京タワーへ向かう道のりで出会う峠と言える場所です。
増上寺裏の池
 「2」ゴルフ練習場跡(標高8m程)から「3」弁天池(標高5m程)へ向かう道は下りです。弁天池は江戸時代に蓮池と呼ばれていました。もっと広い池でした。

弁天島が中央にあり弁財天が鎮座していました。弁天池の由来なのでしょう。
増上寺付近
江戸時代にあった蓮池の水がどこから来てどこへ流れたかが疑問です。エビデンスは見付かりませんでしたが淀橋台の端に位置していることがから湧水だったと推測されます。

流れていた先は江戸の古地図に残っていました。

芝公園の南側、現在の318号線の北側を掘の様に増上寺を巡り半周した所で東の方面に直角に曲がっていました。ただ、古地図では水の流れは途中で消えてしまいます…。

水は最終的に海に辿り着くはずです。ミステリー…。
東京タワー前の坂
「4」標高7mのほどの東京タワーを坂上に臨む地点です。東京タワーがある所が標高22m、距離にして200mほどなので急勾配です。
                    →  
        →       ↑東京タワー下(約22m)
      墓地(約14m)↓  
   →           →
→  増上寺大殿(約7m) 弁天池(約5m)
浜松町駅(0.4m)

東京タワーと増上寺の間にある谷間です。

増上寺から東京タワー辺りまでを調べていて疑問が残りました。増上寺の南側を流れる古川(新堀川)と弁天池(旧蓮池)の水と合流は歴史上なかったのか?

残っている地図は江徳川幕府が土地や川に手を入れた後のものです。

東京タワーと増上寺の間の都道301号線は谷間の様になっていて緩やかに下っています。東京タワーのある高台は淀橋台の端という事を考えると湧水が流れ出していても不思議はありません。

このミステリーはいつ解けるのか…。

微登山は東京タワーを目指し一気に15m登ります。実は舗装されていない別ルートがあります!

つづく…ほいじゃ

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