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湧出る冒険心とマニア心 日本丸と第一号船渠 横浜③

旅に出たい!海を自由に進みたい!甲板に立つとそんな願望が湧き上がります。漫画「One Piece」で主人公ルフィーの抱く気持ちの様です。

横浜にある日本丸メモリアルパークの日本丸の船上です。

「横浜みなと博物館」と「帆船日本丸」の共通入場券は高校生以上で600円です。船上、船内で体感できる非日常的な体験は600円以上の価値があります。
日本丸
まず、特筆しなければならない事は日本丸があるこの場所は旧横浜船渠(せんきょ)株式会社第一号船渠だという事です。水を抜いて船のメンテナンスを行える乾ドッグ(ドライドック、乾船渠)です。

先日のブログで書いたドックヤードガーデンが第二号船渠です。

第一号船渠:日本丸メモリアルパーク(1985年)
(完成)1899年、(使用停止)1982年、(使用期間)84年
国指定重要文化財(2000年)、経済産業省の近代化産業遺産(2007年)

第二号船渠:ドッグヤードガーデン(1993年)
(完成)1897年、(使用停止)1973年、(使用期間)78年
国指定重要文化財(1997年)

どちらも国指定重要文化財です。第二号船渠は第一号船渠より2年早く完成しています。順序が逆です。
日本丸
デッキの上に立つと心の底から湧き上がる冒険心の塊が抑えられなくなります。時化(しけ)の海を切り開いて進む日本丸の勇姿が甲板から一瞬見えた様な気がしました。

次に思い浮かんだ事…漫画「One Piece」のゴーイングメリー号とサウザントサニー号です。タイプ違う船だから本当は違うのですが…似ている様な気がします。
日本丸
ここが主人公ルフィーの特等席です。専門用語ではバウスプリット(Bowsprit)と言うそうです。3枚のジブ(三角帆)を広げるための設備です。ちなみに三枚には一つ一つ別の名前が付いています。

フライングジブ、アウタージブ、インナージブ。

マーチンゲール(ドルフィンストライカー)という斜め下方向に突き出たパーツもバウスプリットに付いています。専門用語の羅列が刺激的です。
日本丸
日本丸は2278トン、全長97m、全幅13mの大型練習帆船です。ストックアンカー(トロットマンタイプ)と呼ばれる錨(いかり)を使用しています。錨の重さは約2.4トンもあります!

錨に関係するパーツもサイズなりに重厚です。日常生活でこれだけ太いチェーンを見る事もなく刺激的です。
日本丸
日本丸は「太平洋の白鳥」、「海の貴婦人」と呼ばれた日本が誇る美しい帆船です。1930年に神戸で進水してから1984年までの54年の間活躍しました。その座を日本丸Ⅱ世に引き継ぎました。

同じ年に進水された姉妹船「海王丸」は引退して富山新港に係留されています。

日本丸は航海練習船ですが戦前、戦後は別の役割を担うことになりました。戦中は国内で石炭の輸送船として、戦後は海外在留邦人の復員船として活躍しました。

戦中戦後は帆を外し地味な外見でしたが、平和が戻った昭和30年(1955)に白く塗り直され「海の貴婦人」の姿を取り戻しました。

もともと船に興味のない私が魅せられていきます。

冒険心の様なワクワクする気持ち、各パーツに心くすぐられるマニアックな気持ち、人と海の歴史を想う気持ちを刺激します。よって、明日も日本丸について書きます。

つづく…ほいじゃ
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歴史的窪地!307mの威圧感! ドッグヤードガーデン 横浜②

何だ?この船がすっぽり入りそうな穴は?それが第一印象でした。普段、調べ事をしないで出掛ける私には何なんのか?重要なものか?全く分かりません。

ただ、周りの石の質感から古いものだと察することができました。

横浜ランドマークタワーに隣接する国の重要文化財・ドッグヤードガーデンです。
ドッグヤードガーデン
詳しい説明の前にドッグヤードガーデンのロケーションが特殊です。この10mの窪地は地上297mの横浜ランドマークタワーと接しています。見上げるとある種の威圧感を感じます。

深さは地上-10mのドッグヤードとビルの高さを足すと307mになります。307mの威圧感!
ドッグヤードガーデン
ドッグヤードガーデンは「旧横浜船渠第2号ドック」と呼ばれていました。現存する日本最古の商船用石造りドッグ跡です。全長は約107m、横幅(上端幅)は約29mある人工的な窪地です。

専門用語では乾(かん)ドッグ又はドライドッグと呼びます。漢字にすると乾船渠(かんせんきょ)です。
ドッグヤードガーデン
時は文明開化の時代、明治19年(1886)に横浜の財界人が集まり「横浜桟橋会社盟約」を作り横浜港の開発をお雇い外国人のH.S.パーマー(英)に委託しました。

港経営に必要な倉庫、船渠(ドッグ)などの港湾関連設備の必要性を指摘されました。

「横浜船渠株式会社」が設立され2つの船渠(ドッグ)が建設されました。横浜船渠第2号ドックは明治29年(1896)に完成しました。昭和48年(1973)に78年間の歴史を閉じました。
ドッグヤードガーデン
横浜ランドマークタワーが竣工した平成5年(1993)に横浜船渠第2号ドックも再生されドッグヤードガーデンとして生まれ変わりました。平成9年(1997)に国重要文化財となりました。

現在のドッグヤードガーデンは船を修理できるような作りではありません。むしろ、観光とレジャーに特化した造りにアレンジしてあります。
ドッグヤードガーデン
当時の面影は周囲の石壁にあります。直方体の長い面と短い面を交互に見せながら積み上がて行くブラフ積みで本小松石、新小松石、六ヶ村石が頑丈な壁を構成しています。

文明開花の時代に西洋から日本に伝えられた頑丈な石壁を手法です。
ドッグヤードガーデン
ドッグヤードガーデンの壁の中には飲食店が並んでいます。後で知ったのですが横浜ランドマークタワーの3階からオフィスロビーからドッグヤードガーデンを一望できるそうです。

同じく3階には再生する前の調査で発見された銘板(建設記念プレート)が飾られています。

ドッグヤードガーデンの上を通る橋を渡ればちょっとした空中散歩ができます。

色々な角度から楽しめる歴史スポットです。

ほいじゃ

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日本の技術力 横浜ランドマークタワー 横浜!①

神への挑戦、バベルの塔!?地盤の緩い海岸線にこれだけの建築物を建てるなんて改めて感心します!東日本大震災にも耐えた日本が誇れる横浜ランドマークタワーです。

実は関東大震災の時は横浜は壊滅的なダメージを受けた地区なのです。

このビルを建てる時、もっと神に近づこうとしましたが、御上(おかみ)に高さを抑えられてしまいました。
横浜ランドマークタワー
元々は300m超えになる予定でした。しかし、建設地が東京国際空港の標準出発経路(SID)にあたり高度制限が発生はし300m以下になってしまいました。

横浜ランドマークタワー
着工:1990/3/20、竣工:1993/7/16
最頂部:296.33㎜(高層ビル:日本2位、建造物:日本6位)
建築面積:23,208㎡(日本3位)
設計:ヒュー・スタビンス、三菱地所
横浜ランドマークタワー
美しい夜景です。69階のスカイガーデンから見える風景です。実はこの夜景…窓の上に飾ってあるバックライト付きの写真です。ズームして上手に撮るとこんな感じになります。

馬鹿と煙は高い所が好きという言葉はもう死語です。展望台は観光の絶対的目玉です。(高所恐怖症の人を除く)
横浜ランドマークタワー
地上273mにある69階スカイガーデンまでは時速45㎞/hの日本最速エレベーターで40秒ほどです。展望用の広い窓は北東、東南、南西、北西にあります。

好みの横浜を眺める事ができます。

70階があるそうです!横浜ロイヤルパークホテルのスカイラウンジなので私には手が届かない…。
横浜ランドマークタワー
海沿いに広がる横浜、内陸へ続く横浜が堪能できます。横浜を探索する前に目的地を空から確認できるメリットがあります。地上278mから近く見えても実際に歩くと距離があるものです。

ただ、地上に下りた時に空から見た風景を重ね合ねて楽しむことができます。
横浜ランドマークタワー
やはり本当の夜景を見たいものです。こんな素晴らしい風景が楽しめるのは地震が多い日本に300m級の高層ビルを建てられる日本の技術力のおかげです。

最近では揺れを抑えるための同調質量ダンパーなどが進化してより揺れの少ない高層ビルが建てられています。

バベルの塔の話は人間が神に挑戦して高い塔を建てた話です。

一般的には天に届くような塔を建て崩れてしまった話です。しかし、壊れた話はという事は旧約聖書に書かれていません。実際は大洪水を起こす神への挑戦でした。

当時の最先端の建築技術である煉瓦やアスファルトを使って建てたそうです。人知、技術で自然を克服する人類の戦いです。西洋文明が辿った経緯と重なる話です。

バベルの塔で人類が失ったものは?

共通言語です。技術が進歩しても人とのつながりは大事にして行きたいものです。日本が

ほいじゃ

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世界一!日本のクワカブ市場 Kuwataフェスタ 日石横浜ビル

マニア、ヲタクは国の力です。世界で認められる日本のサブカルチャーは執着体質の日本人が作り出した産物です。マニアとヲタクの違いはどうも服装程度らしくほぼ同義語です。

ヲタクとはサブカルチャーのファンの総称です。

元々はアニメ・SFのファンに限定された言葉でした。しかし、バブル期になると一般的に知られる言葉となり今では幅広く使われます。
日石横浜ビル
クワガタムシ・カブトムシの飼育といえば子供の夏休みの宿題というイメージでしょう。しかし、マニアが多く存在し日本が世界一の分野です。

クワカブ(クワガタムシ、カブトムシをまとめた通称)ヲタクとは呼びません。

服装は至ってシンプルですが秋葉系とは違います。どちらかと言うとお父さんと子供の共通の趣味となるケースが多い様です。マニアと言った方が良いでしょう。
Kuwata7月に日赤横浜ビルで行われたKuwataフェスタへ行きました。先行入場者への特典もあり時間前から長蛇の列ができていました。待っている人達の会話を聞くとまさにマニアです。

加えて、横のつながり、ネットワークができています。

この点においては秋葉系と変わらず、景気に余り左右されず消費活動も活発です。ただの嗜好品ではないという事です。
Kuwata
Kuwataフェスタは主催者が業者を集め全国主要都市を回る即売会です。昆虫業界と言っても虫だけでなくエサ、用品、標本、書物DVDまで含まれます。

即売会にはエサや用品の出店者は少ない印象です。

今はネットでも買えますし、わざわざ電車で持ち帰るのも大変だからでしょう。
Kuwata
生体(成虫、幼虫)の販売は8割方の出展者が行っています。一般的に国産クワガタムシ、カブトムシの種類は少ないのですが、外国産は種類が膨大になります。

外国産に手を付けると種類の多さ、温度管理の難しさからどんどん深くハマります。

また、国産でも産地、サイズ、血統にこだわりを持つと奥が深くこちらもハマります。有名産地の大型個体は人気があります。また、赤い眼、白い眼をしたオオクワガタなど特徴のある血統を扱う人達もいます。
Kuwata
2,3万円する虫も販売されています。大体が大型の外国産カブトムシです。有名な高額なカブトムシはヘラクレス・ヘラクレスやヘラクレス・リッキーなどです。

子供が業者の人に値切り交渉をしていました(笑)意外と落ちするかも…。
Kuwata
一方で昆虫くじ引きもあります。当然1,2等は人気のある高額な虫です。昆虫クジの場合は大体ハズレはなく、低い等になると小型サイズの外国産の虫になります。

昆虫飼育は日本が最も盛んかもしれません。

クワガタムシ、カブトムシは欧米でただのBUG(虫)です。嫌煙される対象です。日本以外の国に盛んなのが香港です。ただ欧米でも昆虫マニアは存在しています。

正確な統計はありませんがアニメやフィギュアの様に昆虫飼育は日本が世界一です。ニッチでもユニークでも世界一であることが重要だと思います。

ほいじゃ

渇水、猛暑、厳しい残暑 長期天気予報2013年8月~10月

やはり、渇水になりましたね。関東の水瓶、群馬県みなかみ町のダムではこの時期として過去最低の貯水率になり関東地方で10%の取水制限(7月24日)が実施されました。

丁度その日にみなかみ町で仕事をしていましたが皮肉にも雨交じりの天気でした。

Tenki.jpの長期予報を基に先3ヶ月の天気を頭に入れています。前回の「暑い夏!?渇水? 長期天気予報2013年6月~8月」の通りになりました。

今は夏から秋へ移り変わるタイミングが気になります。今回は東京都足立区の夏の風景写真と共に3ヶ月予報を書いて行きます。
見沼代親水公園 夏2013
【見沼代親水公園の夏 ザリガニ釣り】

基本事項として3ヶ月予報は「平年より低い(少ない)」、「平年並み」、「平年より高い(多い)」の3つの確立が棒グラフで示されています。(3つを足すと100%)

私は「平年並」と「平年より高い(又は低い)」を足した確率で寒暖と降水量の傾向を判断します。
荒川の花火2013
【荒川の花火とスカイツリー】

<気温、寒・暖期予報~地方別>
今年は一目して暑さが続くと分かります。8月は猛暑、9月は厳しい残暑に見舞われそうです。10月よりは例年より暖かく紅葉時期が後ろになりそうな予報です。

○北日本、東日本、西日本
3ヶ月寒暖予報 平年並み40%+平年より高い40%=80%
08月 平年並み40%+平年より高い40%=80%
09月 平年並み40%+平年より高い40%=80%
10月 平年並み30%+平年より高い40%=70%

○沖縄・奄美
3ヶ月寒暖予報 平年並み30%+平年より高い40%=70%
08月 平年並み30%+平年より高い40%=70%
09月 平年並み40%+平年より高い30%=70%
10月 平年並み30%+平年より高い40%=70%

沖縄・奄美地方では9月に気温がやや高くなる予報ですが、3ヶ月間でも見ると平年並みになりそうです。
荒川の花火2013
【荒川の花火とスカイツリー】

7月の足立区は暑い晴れ、肌寒い曇り、湿気のある曇りが交互にやって来ています。シベリアから来る予想外のジェット気流で気候が不安定にしている様です。
荒川の花火2013
<降水量~地方別>
やはり、気になるのが降水量です。8月は広範囲で降水量が少ない予報になっています。渇水に拍車がかかりそうです。9月は台風が来るのか?降水量は多目、10月に平年並みの予報です。

○北日本、東日本、西日本
08月 平年より少ない40%+平年並み40%=80%
09月 平年より多い40%+平年並み30%=70%
10月 平年より多い30%+平年並み40%=70%

○沖縄・奄美
08月 平年より多い40%+平年並み30%=70%
09月 平年より多い40%+平年並み30%=70%
10月 平年より多い30%+平年並み40%=70%

沖縄・奄美地方では逆に8,9月は降水量は平年より多目で10月に平年並みに戻る予報です。
夏の道
【足立区古千谷本町の夏】

総括すると!

本州・四国・九州の8月は暑く雨も少なりなりそうです。9月は残暑が厳しく、台風の襲来もあるでしょう。10月になり落ち着きを取り戻す流れになりそうです。

北海道も同じ予報ですが…ジェット気流が予想外のコースを通る様子なので上記の予報はあてはまらなくなるかもしれません。もしかしたら東北も?

沖縄・奄美は普通の夏より少々暑いくらいで雨も適度に降りそうです。

関東地方が行動範囲の私としては渇水、猛暑、厳しい残暑は覚悟してければいけない様です。仕事では光熱費の上昇が頭を悩ませるでしょう。ただでさえ電気は上がっています。

また、街歩きをする時は水分補給、塩分補給に気を付ける必要があります。

ほいじゃ

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雨de洗車! ゲリラ豪雨を浄化作用として活用

ゲリラ豪雨とは気象的に言うと局地的、短期的豪雨というのが正解らしいのです。確かにゲリラは戦争や戦いの言葉です。他に似た言葉に爆弾低気圧というのもあります。

過激な事象に人は戦いの言葉を使いたがるという例かもしれません。

近年の気候変動で起きている事柄は学名が決まる前にメディアや人々の間で通称が先に広まります。時に気象学用語は間違って理解され使われるケースもあります。
東京都足立区 ゲリラ豪雨
東京が熱帯雨林の様になったと思ったのは5年ほど前からだった。夕方になると熱帯雨林特有の短期的豪雨が降る日が増えて来ました。スコール?…調べると意味をはき違えていました。

スコール【1962年世界気象機関 (WMO)】
「毎秒8m以上の風速増加を伴い、最大風速が11m/秒以上で、1分以上継続する」

雨でなく風に関する減少を示した言葉でした。スコールと聞くと熱帯雨林に夕立の様に降る雨を想像する人も少なくないと思います。意外と知らないものです。
東京都足立区 ゲリラ豪雨
群馬県の山間部と東京を毎週往復する私には夏になると悩み事が増えます。小さな虫が車に当りフロントガラス、サイドミラー、車のフロント全体に無数の死骸がこびり付きます。

それらは夏の昼間の熱で乾燥して頑固に固まります。

短期的集中豪雨の時は可能な限り車を走らせる様にします。自然の洗車です!意外と威力があり後でふき取れば想像以上にきれいになります。時に自然の力を活用します。
東京都足立区 ゲリラ豪雨
そんな事もありゲリラ豪雨はそれほど嫌いではありません。まだ、大きな被害を受けた事がないからそう言っているのかもしれません。だた、雨の威力をまじまじと見つめていると元気をもらいます。

これだけの広い面積にこれだけの水量を撒く事は人工的にはできないでしょう。まさに自然の力、メカニズムと言えます。
東京都足立区 ゲリラ豪雨
家々の屋根や壁の汚れを一気に洗い落としてくれます。人工的に作れないスペックの高圧洗浄機の様に。ガソリンスタンドにある自動車の洗浄機が家サイズになった様に。

いや、もっとだ!町ごと洗ってくれる都市型洗浄機の様に。

自然と同じパワーを作れなくても活用することはできます。「雨で洗える家」とか!「雨洗車グッズ」とか!

街も家も車も浄化してくれるこの雨を見て心が浄化される錯覚を覚えます。怖いや面倒と思う前にまずは受け入れると実態が見えて来ます。

まず、自然を理解する様に努める
次に、自然の力を活用させてもらう
時に、自然の驚異から身を守る術を実行する
常に、自然の中で包まれて生きている事を忘れない

ほいじゃ

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目標は「親超え」 オオクワガタ ブリーディング2013/14シーズン

家はどうも息子しか生まれないようで…。オオクワガタの事です。想定外に仕事で関わる事になったクワガタ・カブトムシ…すでに5年目です。

視覚的な魅力はオスなのですが、ブリードとなれば主役はメスです。

毎年の如く嫁不足…イベントに参加した際にメスを探し回りました。最終的に8頭の「嫁」を得ることができました。2013/14シーズンのブリード開始です。
オオクワガタ ブリーディング2013/14シーズン
昨年は有名産地の阿古谷産のメスを入手でき、「親超え」が実現しました。オスの親虫より息子の方が大きく羽化しました。今年も質の良い血統とサイズのメスが含まれています。

ブリードはオスのサイズや形状を重視しメスはサイズを見てマッチングするが一般的です。私はあえて母系主義で挑戦しています。
オオクワガタ ブリーディング2013/14シーズン
ブリードは単純作業です。オスとメスを同じケースに入れ数日から1週間程度おけば完了です。少々下品な表現ですが勝手に「やります」。

それで産まなければ①個体が成熟しない、②個体に異常がある、③相性が極端に悪い、という原因になるのでしょう。
オオクワガタ ブリーディング2013/14シーズン
最近はブリードの管理がずさんな私です。個体を識別べつするための走り書き程度でプロ並みにブリーダーが行う几帳面さはみじんもありません。要改善事項です…。
オオクワガタ ブリーディング2013/14シーズン
ブリード完了後、オスはそのままにして、メスのみを産卵場所に移動します。普通とは逆です。オスをケースに戻し、メスはすでに産卵木をセットしたケース内に留めます。
オオクワガタ ブリーディング2013/14シーズン
逆になる理由はキノコの菌床を使った産卵方法「菌床産卵」を採用しているからです。一般的な菌床産卵は菌床をケースに入れマット(オガ)で隙間を埋めます。

今年は中サイズのケースに菌床を敷き詰めて再発菌させたものを使いました。(昨年は小ケース)
オオクワガタ ブリーディング2013/14シーズン
さて、2013/14シーズンはどうなるでしょうか?今のところメスは菌床内にもぐり産卵している様子です。10週後に割り出しをして幼虫を取り出す予定です。

目標は「親超え」です。

66,67㎜のオスから70㎜以上のオスが生まれないか?挑戦です。

可能?不可能?…楽しみ、楽しみ。

ほいじゃ

カルガモと見沼代用水 見沼代親水公園

カメラを持って出掛けた理由が2つありました。

歯医者に3ヶ月一度のメンテに行った時に歯科助士の人から「何でカメラを持ち歩いているのか」と問われました。「なぜ?う~ん、…何か撮れる様な気がしたから」と答えました。

それが第一の理由でした。光の具合が良く本当に何かが撮れそうな予感がしていました。自宅近くの見沼代親水公園にはカルガモが生息しています。被写体はカルガモになりました。
見沼代親水公園 カルガモ
花鳥風月に弱い私です。数年前までは鳥を見てもハト、スズメ、カラス、(その他)鳥の四分類しかできませんでした。徐々に進化しています。

今はレパートリーに白サギ、カワスミ、ユリカモメ、マガモ、カルガモが加わりました。
見沼代親水公園 カルガモ
かなり北に住んでいるカルガモ以外は渡りをしないそうです。冬もこの辺りのどこかにいたという事になります。春になると一斉に子育てを始めます。

カルガモは植物食傾向の強い雑食の鳥で種子、水生植物、昆虫などを食べます。
見沼代親水公園 カルガモ
公園内では石の上に生えたコケを食べている姿を頻繁に目撃します。極稀に頭を水の中に突っ込み水中にある何かを食べています。一体何を食べていたのか?

そして、意外と体が伸びるんです!
見沼代親水公園 カルガモ
見沼代親水公園のカルガモは人との距離が近く警戒心がほぼありません。だから、じっくり観察できます。今回の大発見はハトも水辺のコケを食べることでした!
見沼代親水公園 ハト
鳥好きと言っても観察だけでなく食べるのが好きと言う人もいます。ではカルガモは食べられるか?日本では基本的に食べられません。

水生昆虫を食べている場合が多く肉に臭みが出るそうです。フランスのカルガモは植物性のエサを食べているのでに肉に臭みはなく食されています。

カメラを持ち出していたもう一つの理由は古道ならぬ古水道の探索の下調べでした。

見沼代親水公園は見沼代用水と呼ばれる農業用水でした。宅地化が進み農地がなくなり1.7㎞ある細長い公園へと生まれ変わりました。

この見沼台用水は足立区北西部で様々な川や用水路と関係しています。神保町の南洋堂書店で立ち読みした本によると今は道路になっているとこも水路が巡らせられていました。

今は道の勾配と曲がり方を観察中です。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

ユッカの鉢が割れた!生き物は私の先生です。

「案ずるより産むが易し」という言葉を実感しました。今の家に引っ越して来たのは5年前、余りにも殺風景だったので観葉植物を購入しました。

数年経つと様々なメンテが必要になって来ました。

植え替え、剪定(せんてい)…などです。ある日、ベランダを見るとユッカの鉢が割れていました。
ユッカ植え替え 鉢が割れた!
割れた所を眺めると根がはち切れんばかりに成長していました。根の圧力で鉢を壊した?それも一つの原因かもしれません。もう一つ思いあたる事は台風や強風時に不安定さ故に何度も転倒していた事です。

複合的な原因で鉢は劣化した様子です。

「どうしたものか?」園芸関係には全く疎い私は困りました。「「最高の形で植え替える方法は?」そんな考えが行動にブレーキをかけていました。
ユッカ植え替え 鉢が割れた!
完璧を求めると行動できない…1週間以上が経過しました。流石に根がむき出しのままでは植物に都合が悪いと思い「完璧な方法」を無視して「できる事」をやりました。

「思ったが吉日!」

いざホームセンターへ!数年を先を見通し大き目の鉢と観葉植物の土を購入しました。
ユッカ植え替え 鉢が割れた!
正味1時間半で任務完了でした。やはり「案ずるより産むが易し」です。後で思えば「なぜ、あの時に思い何病み行動しなかったのか?」です。

問題提議する→調査する→方法決定する→行動する→評価する

これだけで十分でした。ちなみに評価ですが巨大な鉢を選択した事で高い効果が得られました。夏に家を空けていても土の体積が大きい分で水不足にならないのです。

また、アイディアで加えた表面の軽石は土の乾燥を抑えてくれています。
観葉植物ドーピング
「分からない」→「行動しない」

最悪のパターンです。行動しなければいつまでも分かりません。これが分かっているつもりでも実際に起きると躊躇してしまうものです。

ユッカの鉢が割れた事で勉強させてもらいました。

ちなみにこの際に毎年恒例の「観葉植物 夏のドーピング!」を行いました。正しい行動か分かりませんが土が痩せて行くだろうと思いやっています。

観葉植物は生きています。生き物は私の先生です。

ほいじゃ

テーマ : 園芸
ジャンル : 趣味・実用

さらに深く、さらに広く 鳥越神社 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」最終回

10時間余りのでき事を20回20日に渡って書き続けました。とうとう最後です。振り返るとあの10時間は濃厚だったという事です。

平将門ゆかりの神社・塚を歩いた東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」のフィールドワークに参加しました。最終目的地は北斗七星の最も東(右)、柄杓の先端にあたる鳥越神社です。
平将門 北斗七星
江戸初期までこの辺りは鳥越の岡と呼ばれていました。古利根川の堆積物で形成されていた丘があったとされています。今はその面影はありません。山はどこへ行ったのでしょう?

歴史を辿ってみました。

白雉2年(651):日本武尊を祀り白鳥神社と称した
前九年の役(1051):白鳥神社が鳥越神社と改称される
江戸時代:埋め立てため丘を崩す。旗本や大名屋敷の御用地のため没収。
鳥越神社
平安中期までこの辺りは白鳥村と呼ばれていたそうです。名称が「鳥越」に変わるのが平安後期、土地の形状が変わるのが江戸時代初期です。

江戸城下、隅田川、姫が池の埋め立てのために丘が削られたそうです。神田辺りの駿河台を連想させます。
鳥越神社
前九年の役で出陣した源頼義、義家(八幡太郎)の親子がこの地を通った時、白い鳥が飛ぶのを見て大川(隅田川)の浅瀬の位置を知りました。そして、無事に渡ることができました。

白鳥明神の加護を称えて鳥越大明神と改称しました。

以前の名称「白鳥」の名残を境内で見付けました。鳥居の前に小さな橋があり「白鳥橋」と刻まれています。
鳥越神社 白鳥橋
江戸時代以前、鳥越の岡の上には鳥越神社、第六天神社、熱田神社の三社があり鳥越三所明神と呼ばれました。岡が崩さた後にこの場所に残ったの鳥越神社だけでした。

正保2年(1645) 熱田明神は現在の清洲町1丁目辺りへ移転
正保2年(1645) 第六天神は現在の蔵前3丁目辺りへ移転
享保4年(1719) 第六天神は現在の柳橋1丁目辺りへ移転
昭和3年(1928) 熱田神社は現在の位置(今戸1丁目)へ移転
昭和3年(1928) 第六天榊神は現在の位置(蔵前1丁目)へ移転

第六天榊神社は鳥越神社へ向かう途中に気になり撮影してありました。創建は古く景行40年(110)です。日本武尊が東夷征伐の際に立ち寄った場所のひとつとされています。
第六天榊神社
神社巡りをしていると時々遭遇する「景行天皇」です。大抵は御鎮座1900年になる関東の神社です。思い浮かぶのが上野公園にある五條天神社です。

景行天皇は第2王子が日本武尊とされています。

景行天皇
BC13年~AD130年
第12代(AD71年~AD130年)

140年以上生き60年近く天皇だったという事になります。ちなみに14代より前の天皇は実在しなかったと唱える説があります。日本武尊が活躍した時代と置き換えてみてはどうでしょうか?
鳥越神社
不思議な事にどこにも平将門の名前は出て来ません。6つ目の兜神社を調べた時も同様でした。いくつかの関係性を示す根拠がネット上にありました。

◯平将門の首が関東に飛んで来た時に飛び越えたから「鳥越」
◯鳥越神社には手が埋められたという伝説
◯鳥越神社の紋である七曜紋※と平将門の紋である九曜紋は同じ系統

※七曜(星)=火星・水星・木星・金星・土星と、太陽・月
九曜はインド天文学、インド占星術の天体とそれらを神格化した神。
七曜に月の昇交点と月の降交点を加えたもの。

◯千葉一族の古い家紋は九曜だった。
◯平将門の叔父・平良文から続く家。
◯千葉氏と名乗ったのは源頼義・義家親子に臣従した頃
◯千葉氏は妙見(みょうけん)信仰※だった。
◯千葉氏の子孫が代々鳥越神社宮司、第六天宮司だった

※北極星・北斗七星に対する信仰心

平将門と関係性が最も低いと思われた神社が実は最も深かった様です。

…最後の最後で分かったのですが北斗七星状に並んだ平将門ゆかりの神社・塚は平加門七海著の『平将門魔方陣』に書かれていたそうです。いつか読んでみます。

より大きな地図で 平将門 北斗七星 道 を表示
東京スリバチ学会のフィールワークは地形と街並みが中心です。それ以外の要素を組み合わせたことで幅広い層に魅力的なものとなりました。

通り過ぎた町は歴史好きを満足させ、東京の様々な勾配は地形好きを満足させ、都市伝説好きや信仰心が厚い人にも興味を持てる内容でした。

また、参加者は幅広い分野で街歩きをする人が集まり自分だけなら行かない場所に誘ってもらいました。この様な機会を作っていただき感謝しています。

多くの遺題をもらった気がします。これから、今回ルート中心にさらに深く、さらに広く掘り下げて街歩きをしていきます。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

大衆文化の場所 両国広小路&柳橋 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑲

江戸時代の繁華街の面影はありません。両国広小路の西詰です。かつて江戸三大広小路の一つとして繁華街だった場所です。他に下谷広小路(上野広小路)、浅草広小路があります。

現代でも上野広小路、浅草広小路は賑わっています。しかし、最大と言われた両国広小路が最も鄙びてしまいました。
両国広小路
両国広小路跡の石碑は両国橋の西側にあります。1657年に十万人と言われる死者を出した明暦の大火の教訓から両国橋が架けられ「火除け地」である広小路を設置されたのが始まりです。

明暦の大火の時に両国付近に橋がなく逃げ道を断たれた人々が多く死傷しました。
両国広小路
広小路は本来「火除け地」が目的なのですが見世物小屋、芝居小屋、茶屋、納涼船と娯楽に飢えた庶民が集まる場へと変貌して行きました。隅田川の花火大会の発祥の地にもなりました。

想定外の変貌を幕府は容認していた節はあります。

江戸時代、水辺は物流の拠点であっただけでなく繁華街が発展したエリアです。浅草もその一つです。
柳橋
元々、人形町にあった吉原(元吉原)が現在の地(新吉原)へ移転したキッカケも明歴の大火でした。移転の理由は1617年から続いた吉原が大火で焼けた落ちた事と30年の間に人形町が市街地化したことでした。

新吉原は浅草寺の裏の日本堤に移転され現在に至ります。

幕府公認に吉原遊郭に向かう場所として有名だったのが両国広小路の隣にある柳橋です。神田川が墨田川に流れ込む手間、神田川の最下流にある橋です。
柳橋
架橋は1698年です。現代の鋼鉄橋は関東大震災後の1929年に架けられました。柳橋は橋として使われれる場合と町名として使われる場合があります。

町としての柳橋は新橋に並ぶ花街でした。

吉原へ行く前に柳橋で芸者遊びをして勢いを付けてから吉原へ船と徒歩で向かったそうです。
柳橋
橋の由来は神田川の万世橋から下流に柳が植えられていて柳原堤と呼ばれていたことから来ているとされています。ちなみに橋ができた当初は川口橋や川口出口の橋とも呼ばれていました。

幕末の柳橋には船宿33軒、芸妓(げいぎ)が100人以上いました。

今では繁華街とは程遠い閑散とした地域ですが江戸からの川辺の文化を細々と残しています。周辺を歩くと今でも明治、大正、昭和から続く花柳界の名残を目にします。

私達は大衆にも関わらず日本や江戸の大衆史を学ぶ機会はほとんどありません。学校ではなぜか権力者の歴史ばかりを教えている様に感じます。

大衆の歴史を紐解くと今も昔も変わらぬ人の性(さが)が見えて来ます。

学校では教えられない事も多々ありますが…。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

下町の影 浜町川跡 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑱

怪しい!異常なほどの直線、狭まった両側の建物、中央の何かを埋めた跡…明らかに昔に水路があった事を物語る場所です。私だけでなく他の参加者のレーダーにもビビッと反応した様です。

東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」のフィールドワークで下町区間は軽く流すつもりでした。

人形町から最終目的地「鳥越神社」へ向かう道中は地下鉄組みと歩き組みに分かれました。私は歩き組に入り浜町、両国広小路、柳橋を経て鳥越神社まで歩きました。結果として影の東京に引き込まれてました。
浜町川跡
水路跡の予感はその前にありました。浜町の久松警察署辺りに公園らしき下町としては開かれた空間がありました。そこに小川橋の由来と書かれた石碑がありました。

そこで一部の人たちが疑念の声を上がていました。

石碑によると小川橋の由来は明治時代に凶悪犯を逮捕してその傷で亡くなった小川警部補の名前から来ているそうです。

しかし、古地図を見ていた人達は江戸時代に「小川橋」があったことに気付いていました!「???」
小川町の由来の石碑
誰が先導しているのか知りませんでした集団は細い道へと誘われました。公園を抜けて細い路地に入るとブラタモリ、タモリ倶楽部、DEEP東京で取り上げそうな場所にやって来ました。

それがどこかも分からず気になるところの写真を撮って行きました。
浜町川跡
特に気になったのが段差と細い水路の跡です。不自然です。ここに河岸がありましたと言わんばかりの段差です。段差の下には水の流れがあったのでしょう。

一体ここは何だ?

両脇には古い建物が迫る様に並んでいます。時々、バラック小屋の様な粗末な建物も残っています。
浜町川跡
江戸時代に浜町川(堀)があった場所です。第2次世界大戦終了後に東京大空襲で焼けた東京の残土や瓦礫を処理するために昭和24年までに多くの堀が埋められました。

浜町川もその一つです。隅田川西岸の堀は戦後の復興と開発で日本橋川を残しほぼ無くなりました。
浜町川跡
さらに進むと街の状態はさらに悪化しています。一つに連なっていた建物を切り売りした光景が何か所から見られました。また、切った後に壁を失った建物はトタンで補修してありました。

浜町の辺りで土地問題が存在することを遠い親戚から聞いたことがあります。

実際に地権者が住んでいない所も多く問題が複雑化しているそうです。また、噂によるとこの辺りは戦後の住宅不足から不法占拠があったとも聞いています。
浜町川跡
戦後に堀は数十年をかけて段階的に無くなって行きました。もっとも堀が消えたのは昭和20年前半です。堀を埋めて土地を作り売却して費用にしたり、外濠の様に埋めた土地に道路を作りました。

戦前:西堀留川など
昭和20年代:
浜町川、竜閑川、東堀留川、新川、三十間堀川、外堀(昭和40年代まで)

昭和30年代:
楓川、京橋川、築地川、桜川(昭和40年代まで)、佃川

昭和40年代:
箱崎川、明石掘など小さな堀
浜町川跡
さらに先には真っ直ぐ伸びる細い道と溝蓋(どぶぶた)が続きました。都会の中と思えない時間が止まった様な空間です。

下町の核心に迫るとどうも荒んだ何かを感じずにはいられません。これも東京も文化です。しっかりと記録していこうと思います。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

古の水と賑わい 小網神社 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑰

強運の神社らしいのです。日本橋小網町の小網神社です。太平洋戦争で小網神社の出征奉告祭に参列した兵士が全員帰還したり、東京大空襲の際に社殿と境内が焼けずに済んだりと何しろ強運なのです。

元々は1466年に地域に発生した疫病を封じるために鎮座しました。
小綱神社
東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」のフィールドワークで平将門に直接の関係のない神社に立ち寄りました。この神社はパワースポットとして有名です。

小網神社
創建年:不明
御祭神:倉稲魂神(うがのみたまのかみ)=稲荷大神
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)=弁財天

町名である小網はこの神社が由来です。徳川家康が入城前、江戸の海岸線が埋め立てられ開発が進む前から江戸前島に小網神社はありました。
小綱神社
江戸時代末期の古地図には「イナリ」とだけ書いてあります。古地図を見て気になるのが隣の通りです。江戸時代の頃は東堀留川がありました。

地図で堀跡を追うと堀留が「堀留児童公園」として残されています。

大きな地図で見る
思案橋は約17m(9間2尺)あったそうです。現在通りは少々狭くなっている様です。なぜ、思案かと言うと江戸初期の頃、近くに吉原など遊郭がありました。

「行くか?行かぬか?」丁度、堀の分岐近くにある橋でした。
東堀留川 思案橋
この辺りは小網町、小舟町、人形町の接点です。また、堀が巡る水辺の街でもありました。賑わいのある地域だったと伝わっています。

正直なところ緑と青のない灰色の今の下町に魅力を感じません。

しかし、江戸時代の頃は水路が巡らされた水の都でした。タイムトリップできるのならば水の都・江戸を訪れたいものです。

水辺の賑わいと色彩を体感したいものです。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

源義家ゆかりでは? 兜神社 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑯

神社の頭上に首都高速江戸橋ジャンクションが!日本橋兜町にある兜神社(かぶとじんじゃ)です。平将門のゆかりの神社を巡る東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」のフィールドワークで歩きついた第6番目の目的地です。
兜神社
平将門の怨霊を鎮めと言われる北斗七星状に並んだ神社や塚を巡りました。柄杓(ひしゃく)の柄から数えて6番目、柄杓の底の部分にあたる神社です。

ここまで来たら後一つ…鳥越神社を目指すのみとなりました。
平将門 北斗七星
兜神社はどの様に平将門と関わり合いがあるのか?まずは歴史を調べてみました。あれ!?平将門が藤原秀郷に討たれたのは平安時代なのに創建は明治時代です。

明治4年(1871)創建
昭和2年(1927)日本橋川と楓川の分岐する現在の位置に移転
昭和46年(1971)首都高速の延長に伴い少し位置を移動し現在の社殿が造営される。
兜神社
江戸時代のこの場所に何があったのでしょうか?1863年の地図には松平和泉守の屋敷があります。日本橋川の少し下流に「鎧ノ渡」と書かれています。

神社の明治4年(1871)の創建時の記録には「鎧稲荷」と「兜塚」は「鎧ノ渡」と「鎧橋」の間に遷されたと書かれています。遷される?…「うつされる」と読みます。

ちなみに「鎧橋」は明治に造られた橋です。江戸時代は渡し船を利用していました。

兜塚と鎧稲荷の元々の場所は今よりも日本橋川の少し下流の東京証券取引所の前辺りという事になります。
兜神社
遷される前の位置は「楓川鎧渡古跡考」という1845年の地図には「鎧稲荷」と「兜塚」が描かれているらしいのですがアクセスできません。結果として確信に至らず!

大きな地図で見る
神社の資料「牧野邸の東北隅鎧の渡附近」と書かれています。推測するに現在の日本橋兜町M-SQUAREの辺りだったのかもしれません。牧野邸はどこだ?
兜神社
明治4年の記録には兜塚に祀られていた源義家公のご神霊を兜神社として祀り社を創建したとあります。この時に鎧稲荷と合併して兜町の鎮守(ちんじゅ)としての兜神社になったと書かれています。

兜塚には源義家公が祀られていたという事になります。

明治7年の記録には源義家の祭祀を廃止して大国主命と事代主命を合祀したとなっています。未だ平将門との関連は現れず。
兜神社
こちなみに現在の兜神社には塚はありません。兜岩と呼ばれる岩が境内にあります。神社の資料にははっきりと兜岩の由来には諸説あるが裏付けはないと書かれています。

①源義家が奥州より凱旋の際に東夷鎮定のため兜を埋めた
②源義家が前九年の役(1050)で東征の際に兜を懸けて戦勝祈願した
③藤原秀郷が平将門の首を京に運ぶ際に兜を埋めて塚を作った(兜山)

やっと平将門が現れました。ちなみに源義家とは誰か?

源義家(1039-1106)
通称 八幡太郎
「源頼朝」は義家の孫「義朝」の子
「足利尊氏」は義家の三男の子孫
「新田(源)義貞」は義家の長男の子孫

歴史上の大物を生んだ家系の先祖です。それはそれで価値がある気がします。では何を持って平将門のゆかりがあるとしているのか?

源義家との縁がこれほどあるのに平将門ゆかりの神社とされる兜神社でした。いかに平将門が関東で現在も畏敬の念を持たれているか分かる気がします。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

19代目?20代目? 日本橋 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑮

日本を1分以内で1周する方法は?答えは日本橋の中央の橋げたを1周する…です。以前、日本橋川、隅田川、神田川を船で周った時に船頭さんが言っていた下町ジョーク?です。

ちなみにその時、日本を1分間に日本3周させてもらいました。

日本橋の中央は日本の道路の中心です。主要国道の起点を示す「日本国道路元標」が埋められています。また、江戸時代から日本の道路は日本橋から始まっています。
日本橋
日本橋といえば獅子像が印象的です。伝説の生物「麒麟(きりん)」の像もあります。獅子は守護、麒麟は繁栄を意味しています。

日本橋は慶長8年(1603)に架橋された時から主要な街道の基点であり続けました。現在、日本橋を基点とする国道は以下の様になっています。

国道1号(東海道)
国道4号(奥羽街道)
国道6号(水戸街道)
国道14号(千葉街道)
国道15号(京浜国道)
国道17号(中山道)
国道20号(甲州街道)

今は首都高速が上を走り橋の全貌が掴み辛いのが残念です。長さ49m、幅27mの明治44年完成(1911)に完成した立派な石造二連アーチ橋です。
日本橋 燃えた跡
昭和20年3月10日の東京大空襲の傷跡が意図的に残されています。茶色の汚れは焼夷弾の跡です。大正12年(1923)には関東大震災もありました。

近代日本を襲った破壊的な歴史的事件をくぐり抜けた頑強な橋でもあります。
双十郎河岸 日本橋
三越方面から反対側の河岸に渡ると新しく広場が整備されていました。「双十郎河岸」と刻まれた石碑があります。裏側には由来が示されていました。

現在の日本橋が明治44年(1911)4月3日に架橋されてから100年となり記念の催しが2011年7月に開催したそうです。その際に昔ながらの船運と親水の賑わいを取り戻すために桟橋を設けられたそうです。

江戸ゆかりの「十二代目市川團十郎」と上方ゆかりの「四代目坂田藤十郎」がここから船に乗り込む催しを行い「双十郎河岸」と命名されました。
双十郎川岸(日本橋)クルーズ
「あれ?」石には第20代目と刻まれていました。Wikipediaには現在の日本橋は19代目と書かれています。他にも19代目と書かれている記事があります。

さらに調べると日本経済新聞の記事に19回の架け替えが行なわれたという表記がありました。19回だから19代目?始めの橋を入れたら20代目?…誰かが計算間違い?

ネット恐るべし!大概は公的機関や新聞社が出した情報の方が信頼性は高いでしょう。やはりブログを書く時に精度を高めるにはきちんと出版物が必要です。
双十郎川岸(日本橋)
江戸時代の賑わいは河岸にありました。水運が使われた時代に河岸は物流の拠点でした。そこから町の賑わい発展して行きました。当然、場所によっては繁華街も生まれました。

江戸時代は日本橋を中心とした左右前後の4つの河岸に別々の名前が付いていました。

裏河岸(品川河岸)、魚河岸、西河岸、四日市河岸(木更津河岸)です。名前には特徴があり扱う商品が名前になっている河岸と家康以前からあった地名を使っている河岸があります。

四日市(木更津)河岸は江戸時代より前からあった地名だそうです。河岸に江戸の歴史があります。

話は分かりますが数年前にロシアのサンクトペテルブルグへ行きました。荒れ地を開墾して造られた運河の街を見ました。首都高速のない東京の様だと思いました。

しかし、サンクトペテルブルグの姉妹都市は大阪です。大阪も運河の町です。

東京も元々は運河の町でしたが空襲後の瓦礫処理に多くの掘が埋められ、昭和38年(1968)に東京オリンピックのため買収に手間のかからない川の上に首都高速を通しました。

汚水が垂れ流しの光が差し込まないヘドロの川となり水辺は敬遠される様になりました。

美しい運河の街が失われたことが何よりも残念です。

21世紀は江戸東京の賑わいを河岸に復活させて欲しいと私も思います。きっと素敵な街になるでしょう。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

江戸から大正へ 大手町~銀座 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑭

また訪れたいルートです。大手町から銀座までの約1.3㎞を初めて歩きました。日本橋と皇居が意外に近いことにまず驚きました。そして、江戸、明治、大正の歴史を感じられる道でした。

ただ、目的が移動のため数々の史跡を横目に通り過ぎました。次はじっくりと歩きたいものです。
銀座
1935年に建てられた日本橋三越本店は東京都選定歴史的建造物に指定されています。三越は1673年に呉服店「越後屋」として現在の日本銀行辺りで創業しました。

1683年に江戸の大火で焼けたため駿河町へ移転しました。現在の室町1,2丁目です。

江戸時代に世界で初めて「正札販売」を行なうなど創業時から斬新さを持った企業でした。明治に日本橋本店を開業し数多くの日本初を実現しえ来た企業です。

現在はかんり苦戦している様です。今の三越をじっくり見るのも悪くなさそうです。
日本銀行本店
日本銀行は三越から徒歩で350mの所にあります。日本銀行旧館は国の重要文化財に指定され東京・赤坂の迎賓館と並ぶ傑作と言われる歴史的建造物と称されています。

一般的には屋根の形が円に見える建物です。

江戸時代には金座があった場所です。明治15年(1882)に日本銀行が開業した当時は現在の箱崎町1番地にありましたが明治29年(1896)にこの地に移転してきました。

関東大震災、空襲から最小限のダメージで切り抜け110年以上経過した奇跡の建物です。

ちなみに見学ができます!本店見学と貨幣博物館の見学セットや「貨幣の歴史」に関するレクチャー付き本店見学が実施されています。行きたい…。
常盤橋(東京)
さらに大手町側に戻ると江戸城の外堀(日本橋川)と常盤橋があります。常盤橋は現在修繕中です。1629年に常盤橋門が設置されまでは「大橋」と呼ばれていたという説があります。

外堀にあたる日本橋川は江戸初期の治水工事で作られた川とされています。

現在は3つの常盤橋があります。写真を撮影をした所が現在の常盤橋、写真に移っているのが古い常盤橋です。さらに向こう側に関東大震災後に造られた新常盤橋もあります。
渋沢栄一像
常盤橋の大手町側の河岸には常盤橋公園があります。常盤門跡などもありじっくりと訪れたい場所です。公園内に日本資本主義の父と言われる渋沢栄一像があります。

なぜ、ここに?

常盤橋公園は昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)が復旧整備を行い旧東京市の公園となった経緯がありました。

現在は千代田区立公園です。

生涯で500以上の企業の設立に関わったと言わる人物です。背後にあるJFE商事も渋沢栄一に関係する企業です。この近くには渋沢栄一ゆかりの東京証券取引所や第一国立銀行跡などがあります。

新企画「栄ちゃんツアー」

飛鳥山の渋沢資料館、深川邸跡、谷中霊園なども行けばたっぷりと東京が堪能できそうです。

このルートに関して地形的なポイントは日本銀行から三越のある中央通りへ向かう下り勾配です。中央通りも日本橋川に向かって微妙に下っています。

ここは江戸創成期まで存在した半島状の形をした江戸前島の根元なのか?

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

自らの心を顧みる 将門塚(将門の首塚) 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑬

江戸幕府より前の江戸は「鄙(ひな)びた漁村」だったと言う表現を何度か目にしたことがあります。ここ大手町は平川が日比谷入り江に流れ込むところでした。

21世紀の現代は東京駅を中心とした再開発が活発な土地です。

こんな都市らしい都市の一角に開発されずに残された土地があります。将門塚(しょうもんつか)、通称「平将門の首塚」です。
大手町の再開発
平将門は平安時代中期を生きた人物です。‎崇徳天皇、菅原道真と並び日本三大怨霊に数えられます。平安時代中期の日本は藤原家の権勢が絶頂期にありました。

一方、関東では自然災害、政治腐敗等で混沌としていました。

そんな頃に朝廷に反旗を翻(ひるがえ)し破れた武士が平将門です。彼に対する歴史上の評価には常に相反するものが同梱されています。

・朝敵であり関東の英雄
・怨霊であり守り神

風水や神仏に明るい徳川家康公は平将門の怨霊を無碍(むげ)にせず、むしろ手厚く扱いました。同時に呪いを封じ込めるために縁の社寺を北斗七星状に配置したと言われています。
平将門 北斗七星
德川家康が平将門を手厚く扱ったことには他に理由があった様です。平将門が生きた時代は武士が誕生して間もない頃でした。武士という身分は明確に確立していませんでした。

そんな頃に起きたのが承平天慶の乱です。平将門の乱と同時期に藤原純友の乱をまとめてそう呼びます。

結局は乱は鎮圧されたのですが、この戦いの功労者が武士の家柄を手に入れることになります。平将門は武士の成立に大きな影響を与えた人物です。
将門塚(将門の首塚)
平将門の乱が起きたのは940年です。平将門の首は京に運ばれた事は事実のようです。では、京から芝崎村までどの様に来たのか?

・首だけ飛んで来た(伝説)
・縁の者が遺体を引き取り運んだ(神田=からだの訛り説)
・そもそも運ばれていない?

何はともあれ武蔵野国豊島郡芝崎村に葬られたか祀られました。ちなみに将門縁(ゆかり)の神田明神、築土(津久戸)明神も芝崎村が発祥とされています。
将門塚(将門の首塚)
江戸時代に入ると首塚は江戸城の城内となり雅楽頭(うたのかみ)系酒井家の上屋敷ができました。中庭に池がありそこに塚は残されたと伝わっています。塚は関東大震災直後まで残っていました。

震災で損壊した塚の発掘調査が行われました。石室がありで古墳の様な造りだったとそうです。関東大震災(1923)の翌年(1924)に仮庁舎を作るため壊されました。

平将門の首塚が残された理由を語るブログやHPは数々ありますが、その中で最も信憑性が高いのが国税庁のページです。
http://www.nta.go.jp/ntc/sozei/quiz/1110/
壊された後から不幸な出来事が続いた事が書かれています。昭和2(1927)年に鎮魂碑が建てられました。これが現在の将門塚です。

その後も大停電やGHQの取り壊しで事故が起きたりと再開発が行われず現在に至っています。

個人的には怨念や祟りがどう言うものか正直分かりません。しかし、神仏や昔の人に畏敬の念を持って接しています。人がその気持ちを忘れた時に祟りに結びつくのではないでしょうか?

平将門が語り継がれる背景には時代毎にニーズがあったのだと思います。当時の人々の罪の意識から生まれた祟り原因説ではないでしょうか?

・権力者を恐れ逆らえず正義を貫く人を犠牲にしてしまう私達
・時間が経てば感謝の気持ちを忘れてしまう私達
・自分が上手く行くと他に畏敬の念を示さなくなる私達
・自分可愛さに間違った事や目先の利益に手を出す私達

何か悪い事が不可解に続くと理論の破たんを起こし感情的に理解できる祟りと結びつけるのだと思います。自分は正しいと思う気持ちと結果が反する場合も祟りと結びつけるかもしれません。

「自分は正しいのになぜ?」…そんな時は理由を他に求めがちです。

「昔のものを尊みながら目先の利害のため破壊する罪の意識」…事故後に中止になる理由かもしれません。

平将門の首塚を考える時、物理的な土地や碑も重要なのですが、むしろ人の心の移ろいを考える事が大切なのではないでしょうか?

将門塚が残って来た理由は私達が共有する懺悔の気持ちかもしれません?自らの心を顧みるべき場所なのかもしれません。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

裸の東京 南洋堂書店 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑫

3つの良いことがありました。一つ目は東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」のフィールドワークで休憩となった神保町で良い本屋を巡り合えたことです。

南洋堂書店は建築関連書籍専門書店ですが街歩きに必要な専門書が置かれています。
南洋堂書店(神保町)
私にとって本はブログを書く時の重要な情報源です。調べ毎をせずに歩き回り、気になるところを写真に撮り、家で書物とネットで気になった所を深く掘り下げて行きます。

街歩きがブームになった頃から近くの三省堂神保町本店の1階に特設コーナーができました。

深く掘り下げる程により専門的な資料が必要となります。たとえば暗渠になった川、埋め立てられた用水路が通っていた場所などです。

その様な本がさりげなく置いてあるのが南洋堂書店でした。よくよく考えると建築と地形(土地の歴史)は密接に関係しています。どこにどの様な建物を建てるか?土地の歴史を知る必要があります。
南洋堂書店(神保町)4F「N+GALLARY」「東京の微地形模型 TOPOGRAPHY MODEL TOKYO」
2つ目の良い事はタモリ倶楽部で見た立体地形図を生で見るチャンスに巡り合えたことでした。東京スリバチ学会に所属している方と建築家のコラボ作品だそうです。

東京の微地形模型 TOPOGRAPHY MODEL TOKYO
大きさ:1.5m×1.5m
縮尺:1/7500
高さ調整:実施の8.5倍
制作者:荒田哲史(南洋堂書店店主)、菊地宏(建築家)
参考地図:国土地理院5mメッシュ(標高)

東京23区の地形は山地に比べて高低差が少ないので誇張して表現する必要があります。建物を剥がした裸の東京が見えます。
道路 東京の微地形模型 TOPOGRAPHY MODEL TOKYO
立体地形図にプロジェクタで映像を投影して様々な東京の表情を堪能できます。上が道路で下が地下鉄です。
地下鉄 東京の微地形模型 TOPOGRAPHY MODEL TOKYO
真ん中の黒い空間は皇居です。下は緑地図です。皇居は一気に緑の空間に変貌します。
緑地 東京の微地形模型 TOPOGRAPHY MODEL TOKYO
江戸城は武蔵野台地上の淀橋台と呼ばれる微高地にあります。長い年月をかけて北側を神田川水系(平川)がえぐり、南側を目黒川水系が削りました。

東京23区を構成する武蔵野台地の区分
(北から南へ箇条書き。緯度が大体同じ場合は西から東へ表記)
・豊島台、本郷台、上野台
・淀橋台
・荏原台、目黒台
・久が原台
淀橋台地 東京の微地形模型 TOPOGRAPHY MODEL TOKYO
中央にどっしりとある淀橋台はまさに「ハートオブ東京山の手」とも呼べる台地です。皇居から新宿を超えてさらに西へと続く台地であり、江戸が坂の多い町である所以です。

縄文海進…縄文時代に海面が今よりも13mほど高くなった時代があります。
海水30m上昇 東京の微地形模型 TOPOGRAPHY MODEL TOKYO
この「東京の微地形模型 TOPOGRAPHY MODEL TOKYO」の凄さは海水面を上下できる機能を有する事です。当然、縄文海進のシミュレーションもできます。

縄文海進とは(Weblioの一部参照)
縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より2~3メートル高かったと言われ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされている。

現代は温暖化が叫ばれますが30mの海水面があがると上の写真の様になります。下町は全く存在せず、早稲田のほうまで海が入り込みます。個人的にはこんな東京も「あり」です。

実はこれ無料で見れます!

場所:「南洋堂書店」4階の「N+ GALLARY」
TEL:03-3291-1338
内容:「東京の微地形模型 TOPOGRAPHY MODEL TOKYO」
期間:8月27日まで
開館時間:毎週土曜日14時~19時(8月12日~16日は12時~17時にオープン)
入場料:無料
情報源:http://www.nanyodo.co.jp/nplus2/tm_tokyo2_6.html

気になった人は是非見に行ってください。

ちなみに3つ目の良い事は、東京スリバチ学会の会長である皆川典久氏と直接お話しができ、著書である『東京「スリバチ」地形散歩』にサインを頂けたことです。

次は第5の目的地「将門塚」へ向かいます。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

元々は? 駿河台 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑫

東京23区を歩く醍醐味は武蔵野台地が幾筋もの水の流れにより形成された地形を楽しむことにあります。一つ一つの台地と谷間には人々の営みが刻まれています。

江戸時代初期はそんな台地に特別な時期でした。德川幕府は自然の地形に人の手を入れて改造しました。

東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」のフィールドワークは第4の目的地「神田明神」から次の将門塚へ向かい本郷台から駿河台に入りました。
神田川と御茶ノ水
現在の神田明神は本郷台地にあります。御茶ノ水駅の聖橋から神田川を見下ろすと深く刻まれた谷間の様相ですす。この神田川の流れを境に本郷台と駿河台が分けられます。

実はこの割れ目は自然のものでなく江戸時代初期に掘られました。

駿河台は本郷台の南端部です。江戸幕府は江戸城付近で起きる洪水を緩和するため平川の流れを変える工事に挑みました。また、真水の供給と言った社会インフラ整備も同時期に行なわれました。

①江戸城付近に流れ込んでいた平川流れを変え日本橋川を作る。(1603年)
②平川の流れを本郷台地に通し隅田川に直接流す工事をした。(1620~1654年)
※同時に上水道を整備して行った。

これが現在の神田川です。

神田川によって分断された本郷台の南側を駿河台と呼びました。由来は家康公が駿府(駿河国府)の役人を住まわせた場所だったことに由来します。
重要文化財 東京復活大聖堂
お茶の水駅前から駿河台下へ向かっては三本の道が伸びています。ニコライ堂のある東側の道は江戸の古地図にはない道です。当時は屋敷があった所です。

西側は現在の明治通りで江戸時代から使われ続けた道です。

殆どの人が通る事のない真ん中の道が存在しています。江戸時代から存在した道です。交通量の少なく閑静な坂道です。上の写真の古い西洋建物が気になりました。
池田坂 チラりとニコライ堂
看板には「重要文化財 東京復活大聖堂」と書かれていました。明治24年(1891)に完成した建物です。設計者はロシア工科大学教授のシチュールポフ博士、工事監督は英国人コンドル博士と書かれています。

コンドル博士と言えば三菱一号館、二号館、三号館を設計した人物です。

東京復活大聖堂?…ニコライ堂(写真下)のことでした!先ほどの建物はニコライ堂の裏手にある伝道会室でした。キリスト教の宗派の一つ「正教会」の教会です。
池田坂
ニコライ堂を過ぎると勾配が少しばかりきつくなります。そこには池田坂と書かれた案内棒があり名前の由来が書かれています。江戸時代は北甲賀町から小川町に通じる坂です。別名を唐犬坂と言います。

池田坂(唐犬坂)の由来
・池田姓の旗本が屋敷を拝領されたため「新撰東京名所図解」より
・池田市之丞殿屋舗に唐犬が飼われていたため「新編江戸志」より
・池田政長という人物から始まった旗本(900万石)の可能性
 「寛政重修諸家譜(大名・旗本の系譜)」より

嘉永二年(1849)に作られ文久三年(1863)に改定された古地図には池田という人物の屋敷が存在していません。では、この話はいつの頃の事だろうか?

「江戸の坂」という本を開きました。池田市之丞という人物は元禄(1688~1704)の頃の人物と書かれています。
駿河台下
池田坂を抜け細い道を曲がりながら進むと神田神保町に到着しました。この辺りまで来ると傾斜は緩くなっています。駿河台の印象が私の中で言葉にできるまでになりました。

・駿河台は地形的に本郷台地の南端部分の傾斜です。
・江戸幕府は本郷台地と神田川を通した南側を駿河台と識別する必要があった。
 ※あえて駿河台と呼ぶ必要性は今の所不明です。

気になる事が一つあります。

駿河台は長い時間をかけて平川によって削られた低地まで下ります。その途中で平地緩やかな部分があります。調べを進めると駿河台の土は江戸湊の埋め立てのために使わていました。

もしかしたら、…

昔の駿河台は今のイメージとは違い高く切り立った台地だったのかもしれません。江戸幕府の土木工事技術は優れていたのでしょう。

元々の自然の地形そのものが分からなくなった場所があるくらいですから…。

ほいじゃ

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じっくりと 神田明神 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑪

平将門という視点から新鮮な気持ちで参拝できました。近くに職場があったことから数えられないくらい訪れた神田神社(神田明神)です。ブログにも何回も登場しました。

しかし、じっくり書いた事はありませんでした。

江戸の守り神である「江戸総鎮守」、明治以降も「東京の守護神」とされた由緒ある神社です。東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」の第4の目的地として参拝しました。
神田明神 隨神門
元々、神田明神は大手町付近にありました。江戸時代初期に現在の場所に移転してきました。当時は江戸時代が始まり江戸城を中心とした都市開発が盛んな時期でした。

1、江戸時代以前 大手町付近・将門塚周辺(武蔵国豊島郡芝崎村)
2、慶長八年(1603)神田台へ移築
3、元和二年(1616)現在の場所へ移築

創建は古く奈良時代まで遡ります。社伝によると天平二年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)が創建したと伝わっています。
神田明神 本殿
一般的に神田明神と言われていますが現在の正式名は神田神社です。境内の多くの建物が国の登録有形文化財に指定されています。当然、門も本殿もです。

上の写真は「本殿」です。元々の本殿は関東大震災で焼けてしまい、昭和9年(1934)に鉄筋コンクリートの総朱漆塗の本殿が再建されました。東京大空襲から境内で唯一残った建物でした。

下の写真は「隨神門」です。昭和51年(1976)に檜木造の門として建てられました。この門が出来た事で江戸時代に負けないくらいの豪華さになっています。
神田明神 隨神門
神田明神は平将門と縁のある神社ですが、朝敵として討たれたため明治以降御祭神から外れました。明治から昭和30年までは天皇を中心とする国歌構造でした。

天皇に刃向った人物が祀られる神社は都合が悪かったのでしょう。

<現在の御祭神>
一之宮 大己貴命(おおなむちのみこと)
 国土経営、夫婦和合、縁結びの神様

二之宮 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 えびす様。商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。

三之宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと)
 延慶2年(1309)にご奉祀。平安時代に民衆のため朝廷と戦った人物。

明治7年(1874)から昭和59年(1984)まで平将門命は本殿でなく摂社・将門神社に移されました。その時に茨城県の大洗磯前神社から勧請されたのが二之宮の大洗少彦名命です。

明治時代に将門公が御祭神から外されるでき事は築土神社でも起きています。
神田明神 神馬
【訪れた2013年6月末、境内に神馬がつながれていた。】

神田明神の由緒、御利益が幅広い分野と層の人々を惹きつけます。下町の人々、ビジネスマン、医療関係者、商売人などが参拝に訪れます。

また、神田明神は「戦勝」の神社としても有名です。初詣には会社ぐるみで参拝するビジネスマンで殺到します。

徳川家康公は関ヶ原の戦いの前に戦勝祈願に神田明神に訪れ神田祭の日に勝利しました。また、それ以前も太田道灌や北条氏綱と言った戦国時代の名武将に崇敬(すうけい)されていました。
神田明神 茅の輪潜り(ちのわくぐり)
神田明神で夏の大祓(おおはらえ)として「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われていました。8の字に左、右、左と3回輪をくぐります。百度参りしたのと同じ御利益があると言われています。

この茅の輪の横にはなぜか柵があり距離があったことから小走りに輪を3度くぐりました。これで夏のお祓い完了です!

大きな地図で見る
私にとって身近な神田明神ですが正面の参道よりも横や背後から上がって来る方が地形的に面白味があります。北側は妻恋坂からの急な登りになっています。東は明神男坂、明神女坂の急な階段があります。

西側の駐車場を抜けると小さな公園があり、さらに進むと妻恋坂と清水坂がぶつかる清水坂下の交差点に出ます。

神田明神は本郷台地の先端部分に位置しています。地形的に豊かな土地でもあります。また、清水坂下から清水坂を行くと尾根道が続きます。

そして、湯島天神に至ります。歴史的、地形的な魅力あるウォーキングコースです。

ほいじゃ

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点が線になり面に 早稲田通りと平川 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑪

点と点がつながり線になっていく感動がたまりません。私にとって早稲田は早稲田、神楽坂は神楽坂でした。どちらも地図上では早稲田通りでつながっていますが頭の中では別々でした。

東京スリバチ学会の「130629フィールドワーク北斗七星スペシャル」で平将門とゆかりのある神社や塚が北斗七星状に並んでいるミステリアスのスポットを歩きました。

早稲田と神楽坂を結ぶ早稲田通りが気になりました。「ただの道ではないぞ」という直感レーダーが動きました。
早稲田通り 穴八幡宮
北斗七星状に並ぶ平将門に縁のある神社や塚を巡る行程でした。西から2つ目の水稲荷神社、3つ目の筑土八幡神社は早稲田通りの近くにあります。

通り沿いには江戸時代の馬術訓練場「高田馬場跡」があります。

坂を下った所には吉宗公の病いの際に流鏑馬を奉納した穴八幡宮があります。平安末期から続く古い神社です。
早稲田通り 三朝庵 元祖かつ丼
穴八幡宮の対角には日本初のかつ丼で有名な三朝庵も今も営業を続けています。1921年に日本で初めて卵とじのかつ丼を考案した店とされています。

早稲田駅から地下鉄で一駅先の神楽坂駅は神楽坂の坂上です。
早稲田通り 赤城神社
駅出口の背後には赤城神社があります。以前、訪れブログを書くために調べました。山岳信仰の赤城神社がなぜここに?という疑問の答えの半分は神社の公式ページにありました。

「AD1300年頃に群馬県赤城山麓の大胡の豪族「大胡彦太郎重治」が牛込に移住した際に分霊を祀った」

群馬と関係がある道?さらに調べると江戸時代以前の地図に答えの残り半分がありました。そこには上州道と書かれていました。
早稲田通り 神楽坂坂上
やはり、古道でした。江戸時代以前の地図はざっくりしていたので江戸時代の古地図を見ました。現在の道の方がスムースな曲線に見えます。しかし、基本的な社寺と道の関係は同じでした。

地形的な観点から調べると面白いことが見えて来ました。

早稲田通りは東京23区内で最も広く削られた土地の横を走っています。平川(現在の神田川)が削った土地の横を通る尾根道でした。

神楽坂の発展は江戸時代以降ですが、それ以前から交通の要所でした。

上州道をさらに調べていくと江戸城の田安門から秩父を通り群馬県の南西部へ続く道の様です。資料が少ないのでこの調査は今後は続けたいと思います。

赤城神社が神楽坂にあっても不思議ではなかったという事です。

さらに興味を持ったのは平川の存在でした。水稲荷神社から神田川方向にある甘泉園の地形は川に向かって斜面になっていました。その削れ方は大昔に大河があった事を示しています。
甘泉園公園
甘泉園公園のブログを書いた時に「神田川の流れに削られた」と書いてしまいました。それがずっと違和感として残っていましたが解消できました。

神田川を含め江戸(東京)の川は土木工事で流れを大きく変えられています。神田川はその最たるもので元々の流れを想像できないほどに手が加えられています。

答えを探るには縄文時代まで遡ると容易です。その当時の東京の主流は旧石神井川と平川でした。平川は江戸城の横にあった日比谷入り江に流れ込んでいたと言われる川です。

江戸幕府により最も流れが変えられた川の一つです。江戸以前の詳細な平川の流れの資料が少なく詳細は分かっていません。
平将門 北斗七星
平将門と縁のある北斗七星状に並ぶ神社の西から3つ目にあたる筑土八幡神社は平川の川岸の岡上にあった事になります。少し下流に白鳥池という巨大な池がありました。

最終的に江戸城の横にあった日比谷入り江に流れ込みます。大手町は河口の町だったことになります。大手町と言えば平将門ゆかりの神社の多くが元々あった場所です。

現在は「将門の首塚」しか残っていませんが、「津久戸明神(築土神社)」、「神田明神(神田神社)」の発祥の地です。

上州道、平川の流れ…色々な事がつながり始めました。頭の中で点が線になり面なって行く過程にあります。

次に行った神田明神は平将門は北斗七星で言うと西から4つ目になります。流れを大きく変えられた神田川の近くにあります。

つづく…ほいじゃ

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奇妙な巡り合わせ 筑土八幡神社(後編) 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑩

東京23区には名前も歴史もややこしい神社があります。筑土八幡神社と築土神社です。どちらも『つくど』と読みます。しかし、字が『筑』と『築』で違います。

意図的か偶然か分かりません。ある時期に同じ場所に存在していました。

東京スリバチ学会のフィールドワークで訪れたのは筑土(明神)八幡神社です。先日のブログでも成り立ちを紹介しました。平将門と縁があるのは築土神社のほうです。
筑土八幡神社
築土神社は創建から3回の移転、3回(4回?)の名称変更がありました。

①平安時代 940年
津久戸明神大手町付近に創建された。
平将門の首を祀ったとされ元々は血首明神と呼ばれていたという説もある。

②室町時代
太田道灌によって田安郷(九段下坂上)に移転され田安明神と呼ばれる

③江戸時代 元和二年(1616)
江戸城外堀拡張のため筑土八幡宮の隣接地に移転し築土明神と呼ばれる


大きな地図で見る
【現在の築土神社の位置】

④明治時代 明治7年(1874)
主祭神が平将門から天津彦火邇々杵尊に変わり築土神社と改称される

⑤昭和時代 昭和20年(1945)
戦災で焼失し現在の地(九段北一丁目)へ移転

江戸時代から終戦まで両社は隣接していました。この時に筑土(つくど)明神八幡宮と呼ばれる様になったという説もあります。

大きな地図で見る
【現在の筑土八幡神社の位置】

江戸時代の古地図では同じ場所に「築土明神」「八幡宮」と2行に分けて書かれています。

これはどう言うことなのだろうか?「築土明神八幡宮」という名前の神社なのだろうか?

それとも「築土明神」&「八幡宮」ということなのか?

血首(明神)→津久戸(明神)→築土(明神)→筑土(明神)

→{筑土明神+八幡宮=筑土明神八幡(神社)}=現在の呼び名

築土神社の存在が筑土八幡宮の名前に大きく影響した可能性は高いと言えるでしょう。

また、二社の主祭神が違います。北斗七星状の神社と塚にある筑土八幡神社よりも築土神社の方がより平将門との関係性が強いことが分かります。

筑土八幡神社:応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
築土神社:天津彦火瓊々杵尊、平将門之霊

江戸時代に築土神社が北斗七星上に移転された理由は江戸城の拡張工事のためでした。

徳川家康公が北斗七星状に社寺を並べることに強いこだわりを持っていたするならば築土神社の移転は必然性があったのかもしれません。なぜなら、平将門と深い関係にある神社だったからです。

江戸は風水を基に設計された都市であることは有名な話です。

北斗七星のパワーも本当に活用したのでしょうか?どれほどその力は信じられていたのでしょうか?それがこの疑問を解決するカギになります。今回はここまでで止めておきます…。
筑土八幡神社 記念撮影
二社が江戸時代から終戦まで同じところにあったのは意図的だったのか?それとも偶然だったのか?今の所は良くわかりません。奇妙な巡り合わせとしか言いようがありません。

筑土八幡神社で東京スリバチ学会のフィールドワークに参加した人々で記念写真を撮りました。

職種も境遇も違った人々が街歩きという共通点を持って集まった人々です。こちらも奇妙な巡り合わせてと言えるでしょう。

ほいじゃ

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ピンと来ない 筑土八幡神社(前編) 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑨

平将門の祟りを抑えるために北斗七星状に配列された神社・塚の第三番目です。西から鎧神社、水稲荷神社と辿り筑土八幡神社に到着ました。丁度、ひしゃくの柄の部分を進んでいます。

東京スリバチ学会のフィールドワークで訪れた第三の目的地です。

筑土八幡神社について調べると平将門との関係が余り感じられません。なぜだろうか?理由は?
平将門 北斗七星
筑土八幡神社、又は筑土明神八幡神社は嵯峨天皇の時代(809~823年)に創建されたと伝わっています。信仰心の厚い翁が啓示を受け神を祀ったことが始まりとされています。

850年頃に東国を訪れた「伝教大師(最澄)」の弟子「慈覚大師」が阿弥陀如来を安置した言い伝えが残っています。
筑土八幡神社
その後、「伝教大師」自らがこの地を訪れ「筑紫の宇佐(宇佐八幡宮)の宮土をもとめて礎(いしずえ)とし」神像を彫り祠(ほこら)に祀りました。

そこから「筑」「土」「八幡宮」と名付けられたとされています。名前の由来について2つある説の一つです。

文明年間(1469~1487年)にこの地を支配していた上杉朝興が社殿を建立しました。そして、土地の守護神「産土神(うぶすながみ)」として祀りました。
筑土八幡神社 石造鳥居
筑土明神八幡宮の見所は2つの新宿区有形民俗文化財である石造鳥居(写真上)と庚申塔(写真下)です。

石造鳥居は階段状の参道にあります。享保11年(1726)に常陸国下館藩主の黒田直邦が奉納しました。新宿区最古の鳥居で高さは3.75mあります。

庚申塔はさらに古く寛文4年(1664)に造られました。庚申塔とは庚申塚、庚申供養塔とも言われ道教の庚申信仰に基づいて建てられる石塔のことです。
筑土八幡神社 庚申塔
私にはピンと来ません。まだまだ勉強不足です。

この庚申塔は極めて珍しいものです。一般的に三猿(見ざる言わざる聞かざる)で描かれるものが二猿で描かれています。加えて牡猿と牝猿が共に桃を持っています。

桃を持っている猿が珍しい…やはり勉強不足でピンと来ません。

もっとピンと来ない事があります!

今迄の所、「平将門」に関係する事柄は一切出て来ませんでした。ちなみに筑土の由来はもう一つあります。そこで登場する築土神社の方が平将門と深い関係があります。

つづく…ほいじゃ

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100年後にも 甘泉園公園 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑧

東京23区内のオアシスです。清涼感のある水と緑の空間は江戸時代の回遊式庭園の趣を今に伝えています。車の騒音や街の喧騒が聞こない閑静な公園です。

東京スリバチ学会の「130629フィールドワーク北斗七星スペシャル」で立ち寄った甘泉園公園です。
甘泉園公園
新宿区立甘泉園公園は都内でも四季折々の姿を楽しめるスポットとして有名です。春のツツジ、初夏の紫陽花、秋の紅葉、冬の雪吊りと違った表情を魅せます。

江戸時代の古地図を開くと清水殿と書かれた広い土地にあたります。

高田馬場と神田川に接していました。今は間に建物があり、川の流れも当時と変わっています。加えて江戸時代に離れた所にあった水稲荷神社が隣接しています。
甘泉園公園
清水殿とは清水德川家のことです。公園は清水家の下屋敷の回遊式庭園を継承しています。この土地の歴史をさらに詳しく紐解いてみました。

戦国時代:山吹の里と呼ばれていた
寛永十三年(1636):元々隣接していた高田馬場ができる
宝永年間(1704~1711):尾張徳川家の拝領地になる
安永五年(1774):清水徳川家(初代)の下屋敷になる

ある疑問にぶつかります。戦国時代から1600年代までの姿はどの様な場所だったのだろうか?
甘泉園公園
ヒントは戦国時代初期に山吹の里と呼ばれていたことと神田川によって削られた土地の斜面にあることです。公園内の高い所を歩いていると写真の様な風景を見付けました。

私の中でこれが1700年より以前の山吹の里のイメージです。

鹿島神宮の森にも似た様な風景を見たことがあります。しかし、園内は回遊式庭園なので高い所は築山の可能性もあります。

木々が茂った斜面のイメージです。あくまでも想像です。
甘泉園公園
回遊式庭園の湧き水はお茶に合う美味しい水だったことから甘泉園(かんせんえん)と呼ばれました。昔の「甘さ」とは現代人が砂糖に感じる味でなくお茶に感じるほのかな甘さの様です。

残念ながらその湧き水はすでに枯れているそうです。

では公園内に勢い良く吹き出る水は一体どこから来ているのだろうか?もしかしてポンプ…?
甘泉園公園
清水家下屋敷は明治以降に多くの大名屋敷が辿った経緯を踏襲しています。有力者の所有地化、大学の敷地化という歴史を歩みました。そして、戦後に行政管轄の公園となりました。

明治時代 子爵相馬家の庭園になる
昭和13年(1938)早稲田大学が譲り受ける
昭和36年(1961)※東京都に売却
昭和44年(1969)新宿区の区立公園になる

※早稲田大学の増築に伴い、旧水稲荷神社境内の敷地を大学が買収し、東京都が甘泉園の敷地を買い取り水稲荷神社、高田富士(富士塚)、富塚古墳が甘泉園内の敷地に移築されました。

(一つ前のブログにも書いた内容です。)

時代の変化は時に由緒ある土地も翻弄します。所有も変わり古い土地が元々の形を変えて行きます。水稲荷神社が移転された様に江戸時代にも多くの社寺が幕府の政策により移築されています。

平将門の北斗七星の一つあの神田明神も江戸時代に現在の地に移築された神社です。

私が水稲荷神社に感じた無念感は戦後という余りにも近い時代に社地を移転された事にありました。江戸時代に移築された神田明神には同じ感情は持ちません。

100年後の人は水稲荷神社の移築を歴史の一部として受け入れるのでしょう。

甘泉園は違います。江戸時代の大名屋敷を今に伝える貴重な存在です。100年後も同じ場所に今の姿を残っていて欲しいと思います。

ほいじゃ

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全部移築!? 水稲荷神社 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑦

江戸の面影を想像したい人には少々残念な場所です。水稲荷神社です。平将門の怒りを鎮めためとされる北斗七星の形に配置された神社の2つ目にあたります。

調べると元々の場所は現在の早稲田大学の中でした。1960年代に神社と大学が土地交換を行い現在の場所に遷座されました。
水稲荷神社
現在の水稲荷神社は甘泉園公園の隣です。江戸時代には清水徳川家の下屋敷があった所です。神社としての歴史は古く941年に藤原秀郷(ひでさと)が冨塚の地に稲荷大神を勧請(分霊を迎え遷座)した事に始まります。

藤原秀郷とはあの平将門を討った人物です。
平将門 北斗七星
同時に将門の呪いを恐れ北斗七星の一つ目の神社「鎧神社」を参拝し鎧を埋めたとも伝わるた人物であります。

水稲荷神社は元々秀郷の役職である鎮守府将軍から将軍稲荷、又は地名から冨塚稲荷と呼ばれていました。当時の地名「冨塚」は変化して現在の地名「戸塚」となっています。
水稲荷神社
水稲荷神社の情報はまとまった物がなく苦労しました。立派な図書館など行く余裕もなく、ネットで情報収集しながら照合して行きました。そして、次の事が分かりました。

<移築前>
※元々の場所は西早稲田キャンパス9号館付近
・富塚古墳が存在しており藤原秀郷がここに稲荷大神を勧請した。
・1702年に神木である椋(むく)の根元から霊水が噴出した。
・江戸市中最古の富士塚である「高田富士」があった。
・椋の神木は昭和20年5月に焼けた。
・戦後に霊水は出なくなった。

<移築後>
・富塚古墳が元々あった場所は「富塚跡」として新宿区登録史跡になっている。
・富塚古墳は本殿の背後に新築されている。
・残った御神木の根元は大切に保管されている。
・高田富士は現在の境内に新築され7月に一般公開される。

霊水が出たことが水稲荷神社と呼ばれる所以の一つです。「水稲荷の翁」という人物が受けたお告げから火難息災の神になりました。霊水は眼病に効くと江戸市中で噂になったと伝えられています。
高田富士 水稲荷神社
現在の水稲荷神社の背後にある富塚古墳です。新たに作ったとは思えない重みを感じます。頂上には御稲荷さんがあります。
高田富士の横にある穴 水稲荷神社
穴の中にも御稲荷さんがあり神聖な雰囲気を助長しています。木々が鬱蒼と茂り元々これが古墳だったと言われても疑わないでしょう。
水稲荷神社 大田道灌の駒繋松
私が一番興味を持ったものは「太田道灌 駒繋松」です。「矢吹の里は此辺一体を云う名です」と付け加えられています。情報をまとめるとこうなります。

江戸時代より前は甘泉園から近くの面影橋の辺りを「山吹の里」と呼んでいたそうです。

太田道灌(1432~1486)が鷹狩りの際に雨に遭い農家の娘に蓑(のみ)を借りたという伝説が残る場所です。駒繋松は道灌が馬をつないだ木とされています。この松は三世代目と書かれたサイトもありました。

太田道灌は德川家康が江戸へ入る前に戦国時代の混沌とした関東で活躍した武将です。江戸城の祖でもあります。江戸を語る上では絶対に避けられません。

水稲荷神社が戦後に移築された事を知り、昔の面影を想像する喜びを奪われ意気消沈していました。しかし、「山吹の里」という言葉が私に元気をくれました。

次に行った甘泉園公園も含まれています。

1400年代の木々が茂った矢吹の里を想像してみます。

つづく…ほいじゃ

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古道ぽいから 高田馬場跡 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑥

「130629フィールドワーク北斗七星スペシャル」の第2の目的地である水稲荷神社に近づきました。iPhoneでGoogle Mapを見ながらどの道から行くか周りの人と話していました。

ある人が「こっちの方が古道ぽいから」…一瞬にして決まりました。

この一言にしびれました。近道を捨て不自然に湾曲しながら入り込む道を選択しました。流石、東京スリバチ学会フィールドワークの参加者と思いました。
茶屋町通り
ビンゴです!道の入口には「茶屋町通り」と書かれていました。

江戸時代の古地図を見ると高田馬場があった場所でした。江戸時代に造られた馬術訓練と流鏑馬のための馬場です。流鏑馬は近くの穴神社に奉納さていました。

馬好きな私には重要な場所でした。

茶屋通りの案内棒によると「馬場の見物人が多く地元の農家が茶屋を開いていた」とのことです。昔から馬好きはいた様です。
高田馬場跡
長方形の馬場の反対側に「高田馬場跡」と書かれた案内板があります。ここにも茶屋について記述がありました。茶屋の数は八軒だったそうです。

歌川広重の「名所江戸百景第115景」と合わせて想像すると当時の姿がより鮮明に見えて来ます。
堀部安兵衛之碑
案内板には赤穂浪士で有名な堀部安兵衛(武庸)が叔父の菅野六郎左衛門の決闘を助太刀したところです。水稲荷神社の境内には「堀部安兵衛之碑(写真上)」と「堀部武庸加功遺跡之碑(写真下)」があります。

堀部安兵衛が名をあげた「高田馬場の決闘」です。

茶屋町通りからこれだけの歴史と場所が結びつくとは…恐るべし古道視点!
堀部武庸加功遺跡之碑
高田馬場の「高田」の由来は2つの説があります。

1、家康公の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の生母が高田殿(茶阿局)の遊覧地だった
2、地形的に高台だったことから俗称「高田」と呼ばれていたため
(Wikipediaより)

スリバチ本によると早稲田は神田川で潮の影響を受けない最下流で江戸でも有数の田園地帯でした。もし、高台にも田んぼあったとすれば「高い所にある田」という名前は決して不自然ではないでしょう。

ちなみに歌川広重の「高田の馬場」には田園風景らしき光景が描かれています。それとも畑か?

ちなみに…

子供の頃、「高田(の)婆(ババア)」と勘違いして変な地名だと思ったことがありました。

第2の目的地「水稲荷神社」は間近です。

つづく…ほいじゃ

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考え方は同じ 百人町から早稲田へ 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」⑤

私の街歩きの原点は祖父です。殆ど記憶に残っていませんが母の話によると祖父は初孫の誕生が大そう嬉しかったらしく東京中連れ回していたそうです。

それから勝海舟も原点の一人です。

尊敬する人物であり、街を歩き土地柄を知るという考え方を教えてくれました。私は昔ながらの土地と歴史やそこにある勾配に興味を持っています。

近年では古地図が簡単に手に入るようになりました。さらに情報をあさっていたところ東京スリバチ学会を知りました。
西戸山公園野球場
東京スリバチ学会のフィールドワークに参加する人はそれぞれが独自の視点で街を見ています。「地形」、「暗渠」、「古道」、「土地とエピソード」等等です。大変、刺激的です。

「スリバチ地形!?」

数名が冗談ぽく言っていました。百人町三丁目を抜けた所にある西戸山公園野球場横の公園です。昔、池でもあったのでしょうか?古地図を見ても塗りつぶされています。
P1440663.jpg
その通りは一旦下ってクロスする通りを境にまた登っています。昔の谷間?百人町二丁目と三丁目を区切る道路です。水の流れがあったかの様に浸食しています。

江戸時代の古地図を見ると当時も百人町(二丁目)の北の堺に位置する道でした。

川の流れらしきものは記載されていません。土地がこれだけ削れるにはもっと大きな時間のスケールで考える必要があるのでしょう。大雨が降った水が集まるだろうな…。
戸山小学校と海城学園のT字路
戸山公園の南側を歩いていました。この辺りは緩やかな起伏があり歩き甲斐のある道です。面白いミラーを見付けました。戸山小学校と海城学園の間にあるT字路にあります。

この違和感は何だ?…T字路の両側が一方通行の場合は矢印をあえて表示する意味はあるのだろうか?
戸山公園の南の道
戸山公園の斜面が削られてできた真っ直ぐな道に出ました。明治通りに向かって緩やかに下っています。明治時代の古地図ではここで道は南に直角に折れていました。

江戸時代の古地図では緑色に塗られ道すらなかった様です。昭和22年航空写真にはこの道が写っていました。いつできたのか興味をそそられます。
明治通りから見る箱根山?
明治通り出て信号待ちをしていると眼前に窪地と小高い丘がありました。取りあえず撮っておきました。標高44.6mの山の手線沿線で最高峰の箱根山では!

尾張徳川家の下屋敷があった所で庭園を造る際に自然の地形を利用して造られた築山です。東京スリバチ学会としては手前の窪地の方が重要なのでしょう。

今回の目的は「平将門の北斗七星」なので独自ツアーを立てて行くことにします。ひとつの行動からまた次へとつながる仕事でも同じだと思いました。

フィールドワークで学んだ事は街を見るだけでも様々な視点があることです。

物事を多角的に見る事は街歩きだけでなく仕事でも重要なことです。多角的に見るとと言うことは時に物理的に見えない事も見ると言うことです。街歩きで言えば情報を元に過去の姿を思い浮かべるなどです。

疑問点、違和感があった事はすぐに調べる…これも重要です。時にすぐ答えがでない時もあります。そんな時はやはり多角的に調べることが大切です。

街歩きと仕事の考え方は同じだと感じました。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

この違和感は何? 百人町三丁目 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」④

百人町三丁目の一コマです。個性的な家です。百人町と聞くと新大久保駅前の繁雑なイメージがまず浮かびます。これは一丁目と二丁目に限った話です。三丁目と四丁目は正反対の閑静な住宅街でした。

この違和感は何だろう?

東京スリバチ学会の「130629フィールドワーク北斗七星スペシャル」の道中で通り過ぎた新宿区の百人町に興味を抱きました。
百人町 緑の家
江戸時代の古地図を開いてみました。

現在の一丁目と二丁目は江戸を警護する幕府直属の鉄砲隊「百人組」が住んでいた場所にあたります。現在の三丁目と四丁目の場所には何も書かれていません。

明治の古地図を開くと三丁目、四丁目は陸軍省用地でした。一丁目、二丁目は豊多摩郡大久保村大字大久保百人町となりました。イメージが違うはずです。
百人町
百人町が東京市に編入されたのは1914年になってからです。終戦後に住宅不足解消のために三丁目、四丁目は宅地化されたました。

一方、戦前の駅に近い一丁目、二丁目辺りは文化人が住む町でした。戦後は混乱の中で不法占拠、日雇い労働者の流入などで一変しました。

新大久保と言えばコリア・タウンです。その形成は戦後十数年の間に起きています。
百人町三丁目ポケットパーク
三丁目、四丁目は1972年に広域避難所に指定され1990年に「百人町三丁目・四丁目地区整備計画」が決定されました。そして、次の様な取組みが実行されました。

・木造住宅の建て替え
・細く狭い路地の解消と新たな街路、ポケットパーク(写真上)
・建築研究所跡地の防災公園化(百人町ふれあい公園)(写真下)
新宿区百人町ふれいあ公園
当時の再開発計画はほぼ完成され次の計画がすでにできています。一方、駅近くの百人町では土地関係の権利が複雑化しているため再開発が進まないのが現状です。

同じ百人町でも一、二丁目と三丁目では印象が全く違って当然です。実際の姿を目をしてから調べると、辿った歴史の違いを確認できます。

普段、何気なく見る風景にも人の歴史があり、その結果としての今の姿があると実感しました。

ほいじゃ

テーマ : 東京
ジャンル : 旅行

プロセスであり結果 北新宿 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」③

目的地も重要ですが、道中も楽しいものです。仕事ならば目標に到達した喜びと、目標に向かう楽しさと言ったところでしょう。

目的地に向かって歩く事を苦とするか?目に映る風景を楽しみとするか?まさに分水嶺です。

東京スリバチ学会の「130629フィールドワーク北斗七星スペシャル」に参加しました。鎧神社から第二目的地の水稲荷神社へ向かう道中は私にとって楽しいものでした。
北新宿 柏荘
「煙突だ!」

懐かしい気持ちにさせてくれます。北新宿の淀橋市場の角を曲がる所でユニークな建物が見えました。後でGoogleマップを使い歩いた経路をなぞると、その場所に「柏荘」という文字を見付けました。

より詳しく調べて行くと煙突と柏荘は別物でした。現代はGoogleストリートビューという便利なものがあり歩いてない所も垣間見ることができます。

柏荘の背後には有波ビルがあります。ビルの側面に石の細く急な階段があり「柏湯」はその奥にある様です。銭湯と煙突は有波ビルの物でした。

視覚的なトリックにやられました…。柏荘、柏湯、大量の電線…造形と色合いから昭和の香りがします。
淀橋市場
柏荘の対面にある淀橋市場も昭和の歴史の一部です。関東大震災以降、東京市の周辺区部、郡部で人口が急増したために青果物供給拠点として1939年(昭和14年)に開設されました。

10年後、50年後、100年後に同じ風景は残っているのでしょうか?時代は流れて行きます。今は常に歴史のプロセスであり結果です。

私はその断面図を切り取っているだけです。私の三大目標の一つは現代を記録して1000年以上先に届ける事です。結果を決して見ることのない夢だからこそプロセスは楽しいものです。

ちなみに北新宿に「柏」という文字が付いた建物が多くあります。

調べて見ると1971年までは北新宿の一部は柏木と呼ばれていました。納得…。

つづく…ほいじゃ

テーマ : 東京
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見逃した! 鎧神社 東京スリパチ学会「北斗七星スペシャル」②

下調べをしないと肝心な所を見逃す!?北新宿にある鎧神社には変わった貴重な民族文化財があった様です。浮足立っていた私は目の前まで行って見逃しました。

東京スリバチ学会の「130629フィールドワーク北斗七星スペシャル」の第一目的地は鎧神社でした。
鎧神社
そもそも北斗七星とは何か?東京23区にある平将門(?~940)に因む神社や塚を結ぶと北斗七星の形になります。徳川幕府の江戸の都市設計は風水を基づいて行なわれたと言われています。

この北斗七星は「崇徳上皇」「菅原道真」と並び日本三大怨霊の一人である「平将門」の怨霊を鎮める結界という話もあります。余り深い入りするとオカルトの域まで達する話なのでここまで…。
鎧神社
鎧神社の創建年は漠然としていますが醍醐天皇(897~930年)の時代になります。円照寺が創建された際に寺の鬼門鎮護の神祀として鎧大明神創建されたと伝わっています。

鎧神社
創建:898~929年?
御祭祀:日本武尊、大己貴命、少彦名命、平将門
住所:東京都新宿区北新宿3-16-18

円照寺ができる以前からこの地には伝説がありました。日本武尊が東征で派遣された際に甲冑六具(武具)をしまい隠したと言う言い伝えです。
鎧神社
また、朝廷に反旗をひるがえし関東の為に立ち上がり戦い敗れた平将門の死を悼み、この地の人々が鎧を埋めたと言う話が残っています。947年の事です。

鎧に関しては別の説もあります。

平将門公を討った藤原秀郷公は戦いの後に重い病を患いました。将門公の祟りではと恐れ秀郷公は円照寺で参詣しました。その時に将門公の鎧を埋め、祠を建てたとも言われています。
鎧神社 天神社
「やってしまった!」ブログを書きながら気付きました。鎧神社を出発しようとすると一部の人が「これだ、これだ」と言いながら摂社天神社に群がっていました。

案内板には「狛犬型庚申塔」と書かれていました。また、「新宿区指定有形民俗文化財」とも書かれていました。焦っていた私にはこの日本語が全く頭に入って来ませんでした。

東京スリバチ学会の「130629フィールドワーク北斗七星スペシャル」の参加者たちは次の目的地に向かって鎧神社を去って行きます。

「ここで置いて行かれたら…取りあえず写真だけは撮っておこう…」
鎧神社 天神社 狛犬型庚申塔 吽形
本来撮るべきところは天神社の両側でした。拡大して見ると人の様な石像が写っています。上の写真が吽形です。そして、下の写真が阿形です。
鎧神社 天神社 狛犬型庚申塔 阿形
リベンジ決定です!「狛犬型庚申塔」をまじまじと見たいのです。ちなに案内板によると次の事が刻まれているそうです。

「庚申奉造立供養塔」
「武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名」
「享保六年」

講中【こうじゅう】~Kotobank引用
講を作って神仏にもうでたり、祭りに参加したりする信仰者の集まり。

1721年に柏木村の信者の集まりが狛犬を奉納したということです。ちなみに天神社は元々鎧神社から北に300m行ったところにある現在の柏木北公園にありました。明治中頃に鎧神社境内に遷座されました。

新宿区のサイトには「狛犬型庚申塔」について「素朴な狛犬」と表現されています。私にはそのフレーズが妙にひっかかります。どう見ても素朴と言うより個性的です。
平将門 北斗七星
次の目的地「水稲荷神社」へ向かいます。ちなみに下調べをせずに感覚的、直観を重視するが故に後でまとめる際に「見逃し」に気付きます。

すべては縁だと思っています。「見逃すも縁、それでまた行く事も縁」です。

ほいじゃ

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