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新屋原(にいやっぱら)の夕暮れ【山梨県上野原市】

新屋原(にいやっぱら)の夕暮れ【山梨県上野原市】
標高372m付近から900m台後半の尾根を撮る。

越えれば東京都の桧原村だ。右に標高990mの生藤山(しょうとうさん)、左に標高966mの熊倉山(くまくらやま)が見える。生藤山寄りの尾根には東京、山梨、神奈川の境「三国峠(961m)」がある。

ここは日本武尊の腰掛石や伝説級に古い神社があるところ。武田信玄の軍勢もこの山を越えたと伝わる。パワースポットと言われる軍刀利神社もある。

夕暮れ時にiPhone5で撮影した。ISO800の粗さが丁度良く絵画のようだ。iPhoneカメラの描写力は想像以上に優秀だ。
新屋原(にいやっぱら)と富士
ちなみに朝、上から見下ろすとこんなに爽快だ!
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テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

畑にでたら野菜の花がきれいだった。【山梨県上野原市】

オクラの花
オクラの花
ナスの花
ナスの花
キュウリの花
キュウリの花
山梨県上野原市
朝の収穫。きゅうり、なす、いんげん、かぼちゃ、おくら、ピーマン。野菜の花はきれいだ。山の斜面の畑。最近は猿の被害が増え柵に電気を流している。
ピーマン
野菜が直になっている所を見るのは久しぶりで新鮮だ。
がぼちゃ
かぼちゃの花はキュウリの花のように黄色のだが見れなかった。

いつか地に足がついた生活をいつかしたいものだ。

テーマ : 国内旅行
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海辺の砂丘にある急坂【新潟市のフィールドワーク】

新日和山展望から町へ向かう坂(新潟市)
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新潟町の海岸線近くにある坂。新潟町は信濃川が運んだ土砂の上に造られている。海岸線は砂丘になっており最も高い所で標高20mを超える。古い砂丘ほど地盤がしっかりしており新潟地震でそれが証明された。数キロ行けば様々な理由で地盤沈下した0m地帯もある。この坂は標高16m台の新日和山展望から町へ向かう道。約100mで13m弱も高低差がある急坂だ。坂の名前はあるのだろうか?あるべきだと思う。

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朱鷺メッセと信濃川沿いの巨石モニュメント【新潟市のフィールドワーク】

朱鷺メッセと信濃川沿いの巨石モニュメント
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新潟市の朱鷺メッセと信濃川沿いの巨石モニュメント。私が通り過ぎた時間はただの亀裂が入った岩。後で知ったのだが亀裂から煙が噴き出したり、緑の光を放つなどパフォーマンスをするそうだ。タイミングが肝心。夜に訪れたい。背後にそびえる2003年竣工の万代島ビルは高さ143mと本州日本海側で最も高いビルだ。万代島は元々が信濃川の中洲で昭和初期に埋立てられ陸続きとなった。川が運んだ土砂でできた島、その上にある140m級のビル。基礎はしっかりと打ちこまれているのだろう。

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超音波 門の湯【新潟市のフィールドワーク】

超音波 門の湯(新潟市)
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昭和22年創業の新潟市「門の湯」。看板には「超音波 門の湯」と書かれておりビリビリ来るイメージに惹きつけられる。。サイトの情報によると「超音波気泡風呂」が設置され毎日「ノボピン入浴剤」が入れられているとのこと。この入浴剤は疲労回復、肩こり、腰痛等に効能があるそうだ。銭湯の壁は富士山でなくタイルでヨーロッパの風景が描かれているそうだ。フィールドワークの際に昔ながらの銭湯巡りを組み込むのも良さげだ。次回に向け要検討。

テーマ : 国内旅行
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地上101mから見える墓地群と町の成り立ち【新潟市のフィールドワーク】

101mから見る浄泉寺と本覚寺の墓地群
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新潟市のランドマーク・NEXT21の展望フロア101mから見る浄泉寺と本覚寺の墓地群。個人的にはサンシャイン60から見える雑司ヶ谷霊園と被る。砂丘の高台にあったとされる幻の古新潟町が現在の場所へ移転されたのは江戸時代のことだった。その際に寺町の西側に直線的に配置された。また寺町は新潟町と寄居村の境でもあった。現在、寺町通りは西堀通りと名を変えたが付近に止まった寺からその名残を感じ取れる。街の成り立ちや時代の変化を考える上で墓地は重要なファクターであり興味深いランドマークなのだ。

人情横丁の趣【新潟市のフィールドワーク】

新潟市の人情横丁
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還暦を超えた新潟市の人情横丁。新津屋小路の約160mに38の店が軒を連ねる。業種は多種多様だ。創立は1951年(昭和26年)。元々は堀だった所。江戸時代は新津屋堀、明治以降は二番堀と呼ばれ主に野菜が運ばれた。堀が埋められたのは1950年(昭和25年)と創立の前年。当初は市場だった。1956年(昭和31年)に現在の様なギザギザ屋根になった。時代の変化で商店街となる。建物の低さに何とも言えぬ趣を感じる。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

まず平川の谷間を堪能 「高田馬場発 半日満足ツアー」①

やっと、気になっていた所へ行けました。…と言っても友人と会う予定を活用したプライベート・フィールドワークです。街歩きに興味がない人でも楽しめるネタを2つ用意しました。

1、標高44.6mの箱根山登山(登頂証明書ゲット)
2、高田馬場の流鏑馬(毎年1回 体育の日)

さらに山手線で高田馬場に乗込み、都電荒川線で帰る鉄道嗜好もあるツアーです。
高田馬場ツアー131014
しかし、個人的に2つのディープな目的がありました。

1、秣川(まぐさがわ)跡を歩き源流付近(戸山公園)まで行く
2、高田馬場跡から甘泉園横の坂から面影橋(姿見橋)へ坂を下る
戸山公園大久保地区裏側
どちらも6月の東京スリバチ学会のフィールドワークに参加した時に生まれたテーマでした。写真にある戸山公園(大久保地区)裏手の小山を切り崩し通した様な道が気になりました。

反対側の風景が見たいと思いました。さらに大久保辺りの起伏のある地形を見て川筋があるはずと思いました。調べると秣川の存在に行き当たりました。

個人目的2番目の甘泉園横の坂道はフィールドワーク中に気になったが通ることのなかった道です。
高田馬場駅周辺
高田馬場に少しだけ早めに着いたので神田川までの傾斜を確かめることにしました。つまみ食いの様な行動です。「坂道で路地で昭和風だ!」

坂上が標高15.8m、坂下は12.1mで勾配は52パミール程度の徒歩で心地よい坂の傾斜です。
高田馬場 西武新宿線高架
しかし、電車にはきつい坂です。坂を下り終わると西武池袋線の高架横に出ます。西武新宿線高田馬場駅は高架駅です。曲線状に地上レベルまでに下ろして行く線路です。

川を越えた辺りで山手線の盛土でできた高架下をくぐります。

高田馬場駅は平川(神田川)が長い年月をかけて掘り込んだ谷間です。山手線をつなぐ時に谷間を通さなければならず難工事のひとつでした。
神田川 高田馬場
江戸時代初期までは平川と呼ばれ、後に神田川(神田上水)と呼ばれた川です。源流は三鷹市の井の頭公園にあり元々は日比谷入り江(現在の日比谷公園付近)に流れ込んでいた川です。

江戸時代に飲み水確保と治水のために流れが大きく変えられました。

また、もともとは蛇行していた川でしたが昭和の治水工事で直線的な流れになっています。高田馬場駅付近も古地図を見ながら歩くと流れていた場所が違う箇所に気付きます。
高田馬場早稲田口
地理院地図で三角点をチェックしました。高田馬場駅を貫く早稲田通りの三角点は標高15.9m、神田川横の三角点は標高11.6mで2点の距離は約125mあります。

34.4パミールの勾配、傾斜角3.4度と人にとっては緩やかな坂になっています。
神田川から高田馬場駅周辺
緩やかとは言え平川(神田川)が気の遠くなる様な年月をかけて削った谷間が視覚的に分かります。戸山公園(大久保地区)はさらに高くなっていて標高にして30m前後あります。

秣川の源流があったとされる場所は標高にして27m程度の所です。

余りにも神田川に夢中になり先に着いた私が遅刻しました。「ごめん!」友人と合流した後は秣川へ向かってジワジワ傾斜の道を楽しみました。

つづく…ほいじゃ

テーマ : 日帰りお出かけ
ジャンル : 旅行

朝日山「地元車優先」の道 『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』⑦

帰りは別の道を道を選びたい。

NPO法人まちづくり学校主催の『ブラニイガタ 小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』の3つコースのうち朝日山登山を選んだ一行は下山の途につきました。
朝日山 地元優先道路
2004年の中越地震で本道(市道朝日山線)が被災してから9年経過した今も不通のままです。歩いて登れる「恢興之道」と名付けられた旧道が2006年に整備されました。

今回、往路に使った道です。
朝日山 地元優先道路
復路は別の道へ入りました。地元の人によると四輪駆動車が必要な急坂です。頂上のメンテナンス、山道の整備に車で登れる道が必要なために整備している道です。
浦柄 朝日山への道
振り返ると急な坂だと視覚的に分かります。勾配を地理院地図の三角点とポイント計測で坂の度合いを調べました。写真にある本道と分かれてすぐの所は最大斜度区間は23度あります。

また、坂が急な130mの区間を調べると斜面は21度程度あります。
朝日山 地元優先道路
急な下りは精神的に楽なのですが肉体的にはダメージが歩くほどに蓄積されます。詳しい方が草花の解説をしてくださいました。私は不得意分野なので花の名前を忘れてしまいました。
朝日山 地元優先道路
大地震からの復旧には長い年月を必要とすることが分かりました。本道が復旧するのにあと何年かかるのでしょう。その間にニーズから別の道が整備されます。

2004年の中越地震で山は形を変え、さらに形を変え続けるのでしょう。
朝日山 地元優先道路
ここに工事用車両が置かれています。この頂上まで上がれる道もまだ整備の途中なのでしょう。さらに下ると道に「2012.9.28」と刻まれていました。最近、舗装された事が分かります。
朝日山 地元優先道路
麓に近い当りに「地元車優先」と書かれていたのを思い出しました。「観光道路」ではないという事であり、「観光道路」の復旧はまだ終わっていないということでもあります。
朝日山 地元優先道路
新潟県小千谷市の朝日山で特徴的な点は山の中にかなりの養鯉池があることです。中越地震の時は一部で崩壊したと聞きました。この道沿いの養鯉池はすべて復旧された様に見えました。
朝日山 地元優先道路
水が山肌から勢いよく出ている谷間がありました。新潟の山間部と越後平野が接するところらしい光景です。台地の端から湧水が出るのは一般的です。

朝日山を歩き思ったこと…。

「山の形は常に変わって行く」と言うことです。2004年の中越地震で変化した地形もありました。それ以外に水や風による浸食もあります。

諸行無常と仏教では言います。

山の形も同様で常に変化し同じ姿は二度と現れません。地震の傷跡と伴に前に進むしかないのでしょう。観光地としての朝日山古戦場の完全復興はまだ先だと感じました。

9年という年月…長いのか、短いのか。

次は最終です。中越地震で被害を受けた新潟県小千谷市浦柄地区ついて書きます。

つづく…ほいじゃ

テーマ : くるま旅
ジャンル : 旅行

朝日山登頂!古戦場を見る『小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』⑥

朝日山登頂!案内板を読み「あれ?」。この山が朝日山と呼ばれる様になったのは北越戦争の時かその後です。以前は大平木(大開)と呼ばれていました。

大平木登頂!です。

案内版には定かではなく、一説として名前の由来が書かれていました。新政府軍の兵士が麓から山頂に輝く朝日を見たとか…。
朝日山 頂上
NPO法人まちづくり学校主催の『ブラニイガタ 小千谷 信濃川支流の山里を歩く ~震災復興の軌跡を巡る~』の3つコースのうち朝日山登山を選んだ一行は山頂に着きました。

頂上は広く平らで大平木という名前がしっくり来ます。
朝日山 展望台からの風景
まずは展望台へ。展望台には朝日山の戦いと中越地震復興の資料が展示されています。展望台屋上からは小千谷の街と力強く流れる信濃川が一望できます。

同時に広い頂上を見渡せます。
朝日山 展望台からの風景
展望台から北側に小屋があります。気になります。早速、行ってみました。地元の方に聞くと観音様が納められている小屋でした。

戸を開けて中を見せてもらいました。
大平木観音 朝日山
薄暗い部屋の奥に小さな観音様が見えました。昭和16年に発足した朝日山史蹟保存会が観音様を制作依頼して、観音講(観音経を講じる会)とこの地に鎮座しました。

大平木観音と命名されました。戦死した白虎隊1名、朱雀隊20名の霊を供養しています。
朝日山 東軍野営地
頂上には看板が丁寧に設置されています。ここは東軍兵士が野営をした場所です。すり鉢状の窪地に位置しています。当時の光景を想像していました。

さらに奥へ進むと東軍兵士の墓がありました。
朝日山 東軍兵士の墓(頂上)
頂上でも戦闘が繰り広げらえたのでしょう。東軍兵士の墓は山の各所に点在しています。墓を建てのは浦柄の人々でした。そして、弔いを続けています。

次に「フランス兵法による塹壕跡」という案内板が目に入りました。
朝日山 フランス兵法による塹壕跡
写真にある溝が塹壕跡なのでしょう。メンテナンスをしていかないと埋まってしまいそうな溝です。朝日山古戦場は地元の人が協力し合い維持されています。
朝日山 展望台からの風景
朝日山頂上も中越地震で被災しました。2006年6月に行われた「朝日山古戦場復興 春の陣」でボランティアと地元の人々の力で今の姿に復興されました。

浦柄の方の話では都度都度草刈に上がって来るそうです。
朝日山 南西の城山からのビュー
疑問に思った事があります。山頂に東軍(旧幕府軍)は大砲を上げ陣を築いていました。水はどこから調達しのでしょうか?飲み水は不可欠です。

野営した跡があるので食事も頂上で作ったはずです。

地元の詳しい方に聞くと南西の斜面を少し下った所に湧水があるとのことでした。朝日山南西面の3D地形を見ると山腹に貯水池が何箇所かあります。

水の調達は問題がなかった様です。

朝日山の戦いでは旧幕府軍が山頂から麓にいる新政府軍を砲撃していました。記録によると1868年5月13日から19日の間は昼夜問わず大砲や銃の音が響き渡っていたそうです。

戦場は朝日山、浦柄地区、さらに北の三国街道榎峠の範囲でした。旧幕府軍が武力と兵力に優る新政府軍を撃退し続けた戦場でした。

戦局が一変したのは新政府軍が朝日山攻略を諦め手薄になった長岡城に進軍させたことでした。

5月19日に新政府軍は長岡城を陥落させました。しかし、7月24日に旧幕府軍は長岡城を奪取します。新政府軍は7月29日に再度攻撃をして手中に収めました。

勇敢に戦った同盟軍の人々はさぞかし無念だったことでしょう。

朝日山頂上を十分に堪能した一行は下山の途へ。

つづく…ほいじゃ

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